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娘から聞いた話

崇拝の罠について

https://note.com/disclosure/n/nf9f9ebcd6397#a8d01b1a-2dbb-4d3e-a7c6-a0a085462665


習慣としての遺伝的なプログラムはあると思います。他の人や何かの基準によって自分の価値を認めるのが、文化や習慣の中に受け継がれているでしょう。子供のころから親に褒められたり、学校や社会的な何かによって他者から認められることを望むように習慣づけられているようです。

 

褒める・褒められる、認める・認められる、評価する・される 

するほうもされるほうも、快・喜びの感覚や良いものという考えがありますし、一般的に良い・ポジティブな行動とされています。
反対に、褒めない・褒められないことなどには、ネガティブな感覚や考えがあります。

褒められない・認められない・評価されないことは不快な感覚を伴う出来事という考えがあり、同様に、褒めない・褒められないといった行動は悪い・ネガティブなものとされます。

 

これがどちらにも付随しているようです。条件付けられていると言えるかもしれません。
喜ばせるために相手を褒める、もっと褒められたいと望む、他の人からの悪い評価をネガティブと感じて、それを自己否定への考えや感覚につなげる、などです。

心地良さなどの「感覚」を与えてくれる存在を、ポジティブ・良いことと「考える」から他者を求めるようになり、これが場合によっては崇拝につながって、高次元の存在や他の人である自分以外の存在を頼るようになるのでしょう。

このブログラミングを避けるためには、自分を褒める・認める・評価しているのは自分が主体で行っているという事実を、まず自覚することでしょうか。この自分が主体であるという点が不明瞭のまま、習慣付けが繰り返されているように思います。

 

誰に何を言われたとしても、自分に対する考えや評価は、実際には自分が選択・決定しています。
例えば、どれだけ褒められても自己否定する人はしますし、他から否定されても自分の行動を正しいと思う人は自己否定しないでしょう。整形を繰り返したり、犯罪をしても認めない人がいるように。

 

他の人が自分に与えようとするものと、自分が自分に与えるものは実際には別々なのに、「感覚と考え」の結び付きが習慣化されているために多くの場合で主体性が失われていて、自分の存在価値を他者に委ねていることにほとんど気付かないまま、他からの影響を自ら選択してしまっているようです。

 

 

 

 

 

感情の高揚感について

https://note.com/disclosure/n/nf9f9ebcd6397#b5615f1a-af8b-4328-a3c6-3e3dc0463394

 

『あなたが言ったことのひとつに、私たちは他の多くの惑星よりも多くの感情を持っているということがあります。そしてポジティブにもネガティブにも経験できる感情の多さは、フィードバックループのようなものに関係していて、自己または他者に奉仕することで得られる経験や高揚感を渇望し続けるようです。』

 

 

感情のドラマやジェットコースターは刺激的でもあるので、思考にはたどり着きにくいのかもしれません。

誰かに褒められて嬉しいと感じているときに、なぜ自分は喜んでいるのかを疑問に思ったり、その理由や元になっている考え方を探ろうとはしないでしょう。同じようにネガティブな感情の時も。

(この後のコーリーの回答で、なぜその話がエゴにつながるのかがよくわからないんですが、エゴが高揚感を求めるという意味なのでしょうか)

 

 

「なぜ私は嬉しいと感じているんだろう?

それは私がその人に認められたいからか、それとも他の誰かに認められたいのだろうか。

相手は誰でもいいのか、ただ他の人たちから認められたいのだろうか。それは私が自分を認めていないからだろうか。
認めるとはどういうことなのか。なぜ私は認められたいのか。

人に認められることが自分にとって重要なのか、それとも私が自分を認めることが私にとって重要なのか。

私はどちらを望んでいるのか。両方なのか。それはなぜなのか …」

 

こんなふうに例えば他の人から褒められたり認められたときに、内側にどんな考えがあるのかを探ります。ネガティブな感情の時も同じようにします。

 

 

内側のネガポジを見ていくと、自然に外側を見ることにも繋がっていくのでしょう。目は常に外側を見ていて、見たものを感じたり考えたりするのは常に内側です。
内側に対立があるときは外側に見たものを対立として感じたり考えたりしやすいようです。

もし調和的なものを見れば、そう「感じる」ことはできるかもしれませんが、内側の対立が強ければ調和的なものであっても対立として「考える」かもしれません。幸せそうな人たちに対して怒りを覚えたり、破壊のようなネガティブな行動を取ったり。

 

ですからまず内側のネガポジを認識することが最初で、次に選択だと思います。それをどうしたいか。
内側の対立を少なくする方向を望むなら、自分なりの考え・理由を長い時間をかけて見つけていく必要がありますが、そうしていくうちに次第に外側に対しても葛藤が少なくなるような見方になっていくのでしょう。

 

自分の中にあるものをくまなく見て、自分の一部分として許容するための理解を見つけること 。

何が存在していたとしても、その部分が自分の中にあっていいんだという自分なりの理由。

 

自分の内側を探るときに批判的な見方をする限り、自分への愛情深い理解は起こりにくいでしょう。逆に言えば、意識的・意図的に愛情深い理解をしようとする場合において、肯定的な理解や、存在への許容が起こる可能性があると思います。

 

対立が激しくなる方向を望むなら、ストレスやある種の内的な力が生まれるでしょうから、それが強くなれば感情や言葉や行動として表現や発散につながるでしょう。

 

どちらでもない状態は、おそらく眠ったままでいるのを選択しているので、自主的に目覚めを選択するときまで無限にドラマや感情を体験できる時空へと移動・収穫されるという、ありがたい仕組みなのでしょう。

 

 

 

 

 

(自分用メモ1

◆知的無限とつながるために必要な思考レベルの 学び/教え について 5.2

 

思考的な作業に欠くことのできないのは、自己が必要とするときに自己を鎮め、その状態をむらなく維持する能力です。

静寂が鍵です。

 

思考的訓練の概念をマスターするには、自己をよく見ていく必要があります。

あなた方の次元の両極性を、自己の一部として内在化させる必要があるのです。

あなたが自分の中にある、許せる事柄と許せない事柄を認識し、その一つひとつについてのあらゆる肯定的負荷と否定的負荷を相殺して、バランスを取っていくことが含まれています。

思惟する心 mind にはあらゆるものが包含されています。

よって、自分自身の中にこの完全性を見出す必要があるのです。

 

(単なる例として、自分の中に忍耐・辛抱強さを見つけたら、それに対応する焦り・性急さを意識的に見つける必要があり、その逆もまた然りです。

どんな思考にも正反対のものがあります。

訓練には、まず自分の中にある approve 良い・正しいと認めるものと、disapprove 悪い・間違っている・好ましくないと思うものを識別し、そしてそれぞれのプラスとマイナスの電荷 positive and negative charge を等しくしてバランスをとることです。

 (ポジティブとネガティブのチャージを等しくする)

心 mind にはあらゆるものが含まれています。
ですから、自分の中にこの完全性を見つける・気づく・知る必要があります。*)

 

~ )

 

 

 

 

 

マニフェステーション

https://note.com/disclosure/n/nf9f9ebcd6397#f1625034-9b92-4a03-b035-7b10a23c7784

 

「それが黒魔術のバカどもによるトリックだと気づいてからは、私たちは、「ああ、彼はとても強力だ。物を破壊し、問題を引き起こしている」と言う代わりに、私たちは彼を嘲笑するようになりました。私たちは彼を「アスハット」、「シャドウビーイングのばか者」と呼ぶようになりました。そして私たちは彼を嘲笑し、こう言い始めたのです。

 

私たちはこのような会話を交わし、その存在は完全に力を失いました。結局はプラクティショナーのところに戻って嫌がらせをするようになったと信じています。」

 

 

この「笑い」には効果があると思います。(過去記事

ただ、嘲笑や仕返しのような考えを持ったり言葉で表現すると、嘲笑し合ったり他の方法で仕返しし合うような関係性の、別の土俵に立ってしまうかもしれません。

 

 

 

(平和的な)戦いや立ち上がることについて、その意志や行動の表現が必要な人たちは存在していると思います。 隷属のような状態だった人たちが、従わないことを選択して戦いや対立を望むなら、そうしたほうがいいでしょう。

 

もしCG氏がここに残るなら、そういった「戦い」の意識は、ある程度残したままだろうと思います。

 

でもここにはそれ以外の人たちも存在していて、それとは別の行動や、考え方や見方を望む人たちもいるでしょう。

例として書いたものは、対立ではなく、内側外側の全体を葛藤なく見るためや、「一つ」の存在としてその中に含まれるものを認識・理解するための方法の1つです。

 

 

 

【◆戦いや戦いの噂と自己の関係 極性化と光線の色ついて

あなた方のガジェット・情報機器との関係で見ることができるでしょう。

この戦いと自己の関係は、成熟した存在の主要な・基本の 物の見方・認識です。

どのような方向でも望む方向に加速する大きなチャンスがあります。

ある者は何らかの理由で好戦的な態度をとることで、ネガティブに極性化するでしょう。

ある者は戦争という状況に身を置き、他の自己の心/身体/霊複合体を守るためにとった英雄的な行動によって、オレンジ、イエロー、そしてグリーンを活性化させるポジティブな方向にいくらか極性化するでしょう。

最後に、ある者は好戦的な行動への関与という歪みを完全にexpense 支払い・費やし、普遍的な愛の原理を表現することによって、第4の光線を非常に強く極性化するでしょう。

このようにして、あなた方の時間/空間のごく短いスパンでも、意識的な存在になることができます。

これはあなた方には、トラウマ的なprogression 進歩・前進と見なされるかもしれません。

あなた方の間では、全ての進歩・前進のうちの多くの割合で、トラウマを触媒としていることに注意してください。34.14

 

 

 

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先日、長男からワクチンの後遺症(脱毛が増えた)について相談を受けました。

長男は3回接種していて、最初に知ったときはかなりショックを受け、長い時間をかけていろいろと考えていましたが、今は悲しみなどは全く感じていません。他にも私なりにできるだけのことはしましたし、本人の選択であり人生であり、その体験にも「一つの存在としての長男」にとって必要な何かがあると思っています。

 

コロナが始まる前に長男の夢を見ていて、死に関する内容だったので本人に話しました。

幼い長男が双子で出てきて、一人は慎重に、もう一人は好奇心のままに行動し、私は止めようとしたのですが間に合わず、好奇心の強いほうが高層階の窓から転落して亡くなりました。

私と残った方の長男が一緒に下を覗くと遺体を抱えた男性がいて、私は「宇宙に帰ったんだね」と思いました。

 

性格的に好奇心旺盛ですから注意する意味で話していたのですが、接種を知ったときは生死の確率は半々だろうと思っていたと、相談されたときに伝えました。

長男は他にも、打つ前に疑問に感じたことがあったようですが、思いとどまらずに接種したのを後悔していました。

でも昔の長女のおかげか、死や人生については他の見方があるのを長男も知っているので、もしこの先に死ぬようなことになったとしてもそれほど恐れずに、自分が望むようにここでの人生を生きていけばいいと思うと伝え、長男も納得していました。

 

 

 

第4密度の体になるとしたら、それは肉体の死として認識・体験しないタイプの、死と生まれ変わりなのでしょうか。

事故や病気などで亡くなった人は肉体の死を体験してから霊体になるように、もし津波が起こって亡くなったとしても、それは第4密度の体かもしれません。

体がどの状態になったとしても、ここに残る人は残るし、他に移動する人はするでしょう。

結局はそれぞれの意識状態がこれからの行き先を決めるなら、そのために今できることをするだけでしょうか。

 

 

(◆「この移行が第4密度の活性化へと続く中、この第4密度圏・範囲・球体 fourth-density sphere に住むためには、すべての第3密度の肉体は私たちが死と呼ぶプロセスを経る必要があります。」

これは正しいか?

正しいです。63.20 自分用メモ3)

 

 

 

【◆(私たちは活性化されたイエローレイの体を持っているが)

この惑星の一般的な人々の場合、死後は通常グレーンレイの体が顕在化するか?


すぐにではありません。

死後に最初に活性化する体は「フォームメーカー」であるインディゴレイの体です。

あなた方が「カー」と呼ぶこの体は、エーテルが浸透し、心/身体/霊の総体が理解を得るまで残ります。

これが達成されると、もし活性化される適切な体がグリーンレイであれば、それが起こります。47.11