もう一つの〈統一〉 | 見える子供

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娘から聞いた話

アレイスター・クロウリー氏の The Book of the Law「法の書」(新訳)の感想です。
 
(The law of one との違いが知りたかったのですが、読むときはこちらの記事を参考にして、未知のものを学ぶ姿勢と知る機会への感謝を持つように意識しました。
   https://note.com/orilare/n/n1ac85732b3ec )
 
 
『汝の意志するところを行なえ。これこそ〈法〉のすべてとならん。』
『愛こそ法なり、意志下の愛こそが。』
『汝の意志するところを行なえ、ということ以外に法はない。』
 
クロウリー氏は序文で「この書は単純な行動規範を規定している」として上の文を挙げ、「独裁者、共産主義、ファシズム、宗教、映画、スポーツ、戦争、詐欺行為」について書き、この世界の現状を「自分の目でよく見てもらいたい、考えてももらいたい」としています。
 
 
抜粋
【質問者 …彼は明らかに「一つの法則」をある程度理解していました。
 
…この存在はポジティブでした。しかしその旅は、他の自己と完全な思いやりをもって分かち合うことに、自己の願望の理解を利用し、統合し、調和させることができなかったため、困難なものとなりました。】
 

18.10 Questioner: I see. The entity Aleister Crowley wrote “Do what thou wilt is the whole of the law.” He was obviously in understanding, to some extent, of the Law of One. Where is this entity now?

Ra: I am Ra. This entity is within your inner planes. This entity is in an healing process.

18.11 Questioner: Did this entity, then, even though he intellectually understood the Law of One, misuse it and therefore have to go through this healing process?

Ra: I am Ra. This entity became, may we use the vibration sound complex, overstimulated with the true nature of things. This over-stimulation resulted in behavior that was beyond the conscious control of the entity. The entity thus, in many attempts to go through the process of balancing, as we have described the various energy centers beginning with the red ray and moving upwards, became somewhat overly impressed or caught up in this process and became alienated from other-selves. This entity was positive. However, its journey was difficult due to the inability to use, synthesize, and harmonize the understandings of the desires of self so that it might have shared, in full compassion, with other-selves. This entity thus became very unhealthy, as you may call it, in a spiritual complex manner, and it is necessary for those with this type of distortion towards inner pain to be nurtured in the inner planes until such an entity is capable of viewing the experiences again with the lack of distortion towards pain.

 

 
法の書のⅠ~Ⅲは口述された文章です。
無機質な存在だろうと予想していたのですが、読んでみると、人間的で感情的な表現が多い印象でした。
『潜伏せよ! 退却だ! 攻撃開始! これが〈征服の戦闘〉の〈法〉だ。』
『慈悲など無用だ。憐れみをかける者など呪われろ。』
 
でも彼らにとって最終的に目指す状態は、無機質な存在かもしれないと思いました。
 
点とアーチが出てきますが、この2つの融合を望んでいるようです。

 
 
 
全体の感想としては、ベールの結果から生まれたネガティブな体験や感情があって、その解決法として、意志の力によって自己の認識を変えることで、至高へ向かうという理解でしょうか。
「一つ」からの分離によって生まれた、体験や感情を否定しているのかもしれません。
 
分離前の状態に戻ることが「一つ」になる、無(光)になる。それが永遠で至福の状態であり、生も死も存在しない。
そのために儀式などで、美醜や善悪への観念を強い意志・力によって制御する。おそらく最後は無感覚になる。自分への支配。
 
一般的に「月経血」は忌み嫌うものだから、その感覚をなくす。
「子供の血」は子供への暴力で忌避すべき行為だから、その感覚もなくす。行為への認識・観念を変える。
喜びを喜びとして認識しないことによって、苦痛も認識しなくなることを目的としているのかも。
在るものへの否定。
原初の創造主の思考の否定。その思考が生まれる前の状態を「至福」としているのかもしれない。愛と光の状態。
自己の意思、自己への愛。強い意志の力によって観念を超えること。
 
 
 
第三章には著者の解説と「自由」「愛」「生」「光」について書かれています。
 
「収縮と拡張。あらゆる構成要素はこの二つの面を持っている」
「ある時代から次の時代へと変化する時を〈神々の春秋分点〉と呼ぶ」
『…合体の機が熟す秋‹とき›のために』
 
ここで「悪」とされているものが面白いと思いました。
「自分たちの意思と対立しているもの」(相対的な意味で)
「悪の根源が常に二元性にある」
「悪から逃れるために〈統一〉を探し求めればよい」
「二者の〈結合〉を妨げようとするもの」
 
 
この本の中で「感謝」という言葉は一か所しか出てこなかったと思います。ある儀式が成功したときに「感謝を表して」行うと書かれていました。
 
意志や自由など同じ言葉がいくつかありますが、両者の違いを知って、全体がより深く理解できたように思います。
 
 
 
 
この本をむやみに恐れると、他の本を聖典のように敬うことにつながるのではと考え、同じように扱いました。
次女も私も奇妙な夢を見ましたが、もし恐れや怒りを持たせる意図があったなら、「一つ」の一部として見て読んで、愛と感謝と称賛を向けるとき、彼らにとって何が起こるんだろうと思いました。好奇心や試す意味でそうするのではなく、真摯に。
 
 
 
 
 

世の中に存在する何かに怒りを感じ、「間違っているもの」に対して争ったり対立するような思考や感覚に染まるとき、著者のように戦争を否定していても、自分の内側がその対立の状態に陥ってしまうのでしょうか。

 

「自分たちの意思と対立しているもの」 

 

苦痛が存在するこの世界が間違っているとみるなら、苦痛のない世界にするにはどうすればいいか。

対立するものがなくなればいい、その存在を破壊してしまえばいい、という考え方かもしれません。

 

世の中の「悪い人たち」が一掃されればいいと強く望んでいるとき、その人は意識状態として分離を望んでいるのでしょうか。

 

(抜粋)

『私たちは哀れな者や悲しみに暮れる者には用などない。

 

〈神〉というものが犬に宿ることはあるだろうか? そんなわけはない。

 

つまはじきにされた者や適応力に欠ける者などとは、私たちには何の関わりもない。

そうした手合いには困窮にあえぎながら死んでもらうより致し方ない。

なにしろ彼らには感覚がないのだ。惨めな者や脆弱な連中は踏み潰してしまえ。

 

これがわれらの法であり世界の歓びなのだ。

 

汝らは大衆と相対峙しているのだ、おお選良たちよ。

 

おお我が民よ、立ち上がり覚醒‹めざめ›るのだ!

 

犬どものためには死がある。』

 

 

グローバリスト、エリート、支配者層、自己奉仕者、ネガティブな存在… といった言葉に置き換えてみると、立場や視点が違うだけで、どちらも分離方向に向かっているのかもしれません。

 

 

 

 

(20日追記)

先日の次女の夢

 

『昔の奈良の辺りにある川の近くの建物に隔離されていた。十代の女性。選ばれてそこに来た。

祈りをささげる巫女のような存在。長雨が続いたら止むようにと天に祈る。赤い着物を着ている。

その建物と敷地の外に出ることはできない。食事も一人。「みくり様」と呼ばれていた。

次女が来る前にも「みくり様」と呼ばれる女性がいて、能力がなくなるまでそこに隔離される。

祈りを必要としないときは、横笛を吹いたり、和歌を詠んだり、景色を見たりしていた。

父親だけは敷地内に入れる。娘に指示をする。家族は敷地の外にいて柵越しに会話はできるけど触れ合うことはできない。』

 

 

翌朝の私の夢

『あるブログを読んでいた。「風呂敷」がキュイジーヌのようなフランス語っぽい言葉で書かれていた。』

 

 

みくりを調べると「御厨」が見つかりました。

「御厨(みくり、みくりや)とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことである。本来は神饌を用意するための屋舎を意味する。」wiki

 

 

次女も私も今回初めてこの言葉を知りました。

下鴨神社に調理する場所があるのは知っていましたが、名前は知りませんでした。

キュイジーヌ・料理 の語源は「台所」で、関連があるかもしれないと思いました。

 

もし次女の夢が、ポジティブな方法での贄(幽閉)や儀式や顕在化に関係するなら、ネガティブな方法は生贄による祈りや儀式でしょうか。フランスに関係するのかヨーロッパという意味なのか。

 

贄や儀式で天候や何かの現象を起こす行為が、善いのか悪いのかわかりません。

特定の神がいるなら、どちらも同じような存在が関係しているのかもしれません。

次女が偶然に見たのか、誰かに見せられたのか疑問に感じました。(上の本はまだあります)


 

 

夢について話すときの次女は、過去生?の自分が特別な能力を持っていたのを、少し自慢するような感じで嬉しそうな様子でした。

それを見ていてどうも違和感を感じ、たぶん誰かに見せられたんだろうと次女に言いました。

詳細は省きますが「キュイジーヌ」については注意喚起として解釈し、次女の虚栄心をくすぐる、誘惑のような手段だろうと思いました。

 

次女は普段から他の人よりも劣っていると感じる機会が多いのですが、優れた能力を持ち人々から頼りにされていた過去生の話を長女から聞かされています。

 

長女の話を取り入れるなら、次女は特別感や優越感と、劣等感の両方を体験して、知りたいことがあるのでしょう。

多くの人たちに頼ること・頼られること、感謝すること・されること。

 

その夢は優越感をもたらすので、今の次女にはあまり必要ないものですが、本人の感覚としては望んでいたり、未練があるのかもしれません。

 

そういう思いがあるのかもよ?と話し、なぜこれを今見たと思う?と尋ねると、気付いたようで苦笑いしていました。

次女への誘惑だったとしても、虚栄心などへの注意として教えてくれているからありがたいよねと言いました。

 

 

詳細な内容の夢でしたが、どんな存在から見せられたのか分かりません。その言葉はありましたが、出来事が事実かどうかは分かりません。

あたかも現実のような夢を見せて、特別な存在なんだと慢心させ、次第に分離の意識を持たせて、今の人生での課題を妨げようとしているのかもしれませんし、あるいは、また犠牲的な生き方になっていないかに気付かせるためかもしれません。

 

見えたり聞こえたものが、もしネガティブな存在からだったとしても、よく観察すると逆に何かを教えてくれるものになるかもしれません。

「すべてが創造主」とはそういう意味かもしれないと思いました。

 

どう解釈するかや、どう生かすかは、結局のところ自分次第なのでしょうか。

 

 

 
 
(22日追記)
 
 (抜粋)

『人間は〈木〉および〈水〉と相対峙しているのだ。

 

魔術師は〈自分自身〉をこの二つの敵のうちの一方、即ち、〈水〉が氾濫する結果でもあり原因でもある〈木〉を味方につけて、それを〈水〉と戦わせる。

 

〈火〉は〈木〉を燃え上がらせ、その熱は〈水〉を遙か遠くへ押しもどす。

 

まずは我らが〈父なる太陽〉に〈火〉を召喚して〈木〉から〈水〉をすっかり追い払わねばならない。

 

われらが〈父なる太陽〉の〈火〉を永遠に称えよ。霊感はわれらのもの、世界を燃え上がらせる〈意志‹テレマ›の法〉も我らのもの。』

 

 

空・水・地・火の4つの中で、水は形を変えて循環するものになりますが、ここでの水や木は何を指すのでしょう。木は身体でしょうか? 火は意志のようです。

 

『慈悲など無用だ。憐れみをかける者など呪われろ。』

 

『もしも憐れみや同情や思いやりの気持ちが彼女の心に芽生えたら、またもしも彼女が軟弱な懐旧の情にかまけて、なすべきわが務めをないがしろにするなら、わが復讐の何たるかを思い知らせてやろう。彼女の子供をなき者にしてやる。』

 

こういった文章から見ると、水はcompassion 他者への深い同情や、思いやる行動を指しているように感じます。

人間的で感情的な表現が多い印象でしたが、「わが復讐」と言っているように、憐れみをかけられなかった経験をしたからこそ、そういった言葉が出てくるように思いました。

 

 

 

さて、深い同情と理解による愛として、彼らへの理解が及ぶとき、結果的に自分への保護になるのでしょうか。

もしかしたら外からの誘惑や攻撃は、自分の中への何らかの同情や理解や愛が足りないから起こるのかもしれません。

例えば欠点や虚栄心など、自分が満たしていない部分として、それが何かを教えるために。

 

内側にも外側に対しても、十分な愛と理解が向けられていないものが、ネガティブとして存在するかもしれません。

 

 

彼らからすれば人々に恐怖や怒りが起これば、敵対や争いや「ゲーム」として共に体験することができますが、愛や感謝を向けられると、欲しいもの・力が得られなくなり、それが結果としてプロテクトにつながるのでしょうか。

 

もしそうなら、そういった人たちが増えると困るでしょうし、彼らへの同情や理解が起こるような考えは広まってほしくないでしょう。

もう傷つかないよう自分を守るために、人々を恐れさせるような言葉や、強い指示や口調で断言したり威圧するのかもしれません。この本の表現からはそんな印象を受けました。

 

 

 

地球が第4密度ポジティブに移行し、他者奉仕として愛と理解を学ぶ段階に進む存在たちのための星になるなら、自己奉仕者たちはここに残ることができません。

対立して追い出そうとするのではなく、彼らを理解する、愛することで保護となり、それぞれが望む体験ができる場所へと、行きたいところに行かせるような流れになるのではと思います。

 

彼らが第4密度への移行をできるだけ長引かせたいとしたら、どんな方法を使って人々から力を得るでしょうか。

 

移行後の人口がかなり少ないなら、今後も多くの人たちが様々な原因で亡くなるかもしれませんが、移行期をできるだけ短くするために何ができるだろうと考えます。