和仁親実・親範・親宗(田中城跡・歴史と文化のふれあい広場) | 武将銅像天国

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こんにちは。

前回は令和3年冬の肥後・天草遠征のイントロダクション回として、ダイジェスト版をやりましたが、今回からその本編をスタートします。

実質的な第1回目となる今回は、こちらの兄弟石像からになります。

よろしくお願いします。

 

和仁親実・親範・親宗(田中城跡・歴史と文化のふれあい広場)

今回の肥後遠征、最初にお会いしたのはこの三兄弟でございます。

和仁三兄弟、ご存知ですかね。正直、私は存じ上げなかったので、前回の記事で教えを乞うたところ、ブログをフォローさせていただいているスペルタスさんから、以下のとおりご教授いただきました。

(以下、コメントより)

田中城の和仁3兄弟は「肥後国人」です。佐々成政か秀吉から肥後1国をあたえられますが、秀吉からは入国後3年間は検地をするなと言われていたにも関わらす、成政は検地を強行します、これに対して、肥後の国人たちは反旗を翻します、秀吉方は徹底した鎮圧にのりだしますが、を最後まで抵抗したのが、和仁親実でした。和仁親実は、「和仁3兄弟」と呼ばれる弟の「親範(ちかのり)」、「親宗(ちかむね)」と妹婿の辺春親行(へばるちかゆき)とともに、約1千の兵で田中城に立て籠もります。
100日を超える籠城の戦いの末、安国寺恵瓊の謀略により辺春親行が裏切り落城していくのです。

(以上、コメント終わり)

なるほど、秀吉さんやら佐々成政さんやら、深く関係するわけですね。尾張の水吞百姓である自分が、何も知らないでのほほんとウロウロしていたと思うと少し恥ずかしいです。

ちなみに石像の向かって正面真ん中が長男にして田中城主・親実さん、向かって右側・水牛角の脇立て兜が次男・親範さん、そして向かって左・少しヨーロピアンスタイルのお顔立ちされている方が「人鬼」こと三男・親宗さんになります。

こちら長男・親実さん

 

こちらが次男・親範さん

 

そして「人鬼」三男・親宗さんです。この御仁、御母上はオランダ人だそうです。酒宴の席で父・和仁親続さんに大友宗麟がポルトガル人より与えられたオランダ人の娘を勧められたとのこと。七尺六寸の大男で、紅毛碧眼であったことから「人鬼」と言われていたそうです。

田中城跡は下の写真でいうと、向かって左奥の小高い丘になります。

歩けない距離ではありませんが、一応、田中城跡の登城口近くに駐車場もありますので、そちらを利用させていただきました。

 

 

よく整備されていますので、難なく本丸へいけます。

こんな植え込みがキッチリ刈り取られている感じでおます。

コチラの推しは、城主長男の親実さんよりかは、三男「人鬼」の親宗さんの方かなと感じました。

豊臣攻城軍一万に対して900人の籠城戦、唯一の生き残ったのが「人鬼」さんとのこと。

しかし「和仁人鬼親宗の碑」ってなかなかの石碑名ですな。

 

 

城跡の近くには「田中城ミニミュージアム」なるものがありました。

言うても小学校の跡地、教室の一部を展示室にしている感じです。

コロナの影響で住所・連絡先を書いたのですが、やっぱり私が名古屋から来たことはイイ風には取られなかったかもですね。

 

ここで石像のバックショットを、、、

石像の真ん前が駐車場になってます。

カーナビで田中城跡は簡単にたどり着けますが、この石像がある「歴史と文化のふれあい広場」はカーナビに入力しても難しいと思いますので、隣の三加和郵便局を目指せばわかりやすいかもです。

 

おまけコーナーは肥後スイーツより

(いきなり団子)

やっぱり熊本に来たからには「いきなりだんご」食べずして帰れないでしょう。

ちょっと田中城跡からは離れますが「あんずの丘」なる施設で購入しました。

正直2つでおなかいっぱいですわ。

 

次回も肥後遠征シリーズ続きます。

この「いきなりだんご」を買ったあんずの丘からです。

よろしくお願いします。

 

 

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