昨日の劇場版第3作幻のプロットに続き、今日はアニポケTV幻の最終展開に付いて書こうと思います。



introduction

アニメ ポケットモンスターの長い旅もついに完結!!!

旅の中で強力な力を身に着けていったピカチュウ。 そのピカチュウの力に目を付けたポケモンたちは世界中で人間に対して反乱を開始する!!!

 

サトシとピカチュウはどうするのか!? 彼らは長い旅での絆を信じるのか、それとも……

そしてロケット団が反乱を起こしたポケモン軍団に対してとった行動とは一体…?

 

概要

アニメ版『ポケットモンスター』(無印)において実は最終回のプロットが作り上げられていたという事実はご存じだろうか。

 

シリーズ構成の首藤剛志氏が、WEBアニメスタイルのコラムで発表したその存在は色々と衝撃的であり、アニポケファンからは大きな話題を呼んだ。

かつて参加した「アイドル天使ようこそようこ」が打ち切られた苦い経験もあり、最初から最終回を考えておく脚本家だった首藤氏はここまで長く愛されるアニメになるとは思っていなかった(というか誰でもそう思う)。

 

ポケモンとは何か、ポケモンの世界とは何か…

 

これは首藤氏が最初の際に考えたことである。そして独自の世界観を考えた首藤氏はキッズアニメでよくあるようにポケモンというゲームが人気が出ずに終わった場合も想定して、最終回への伏線を張ったエピソードを書き上げた。

 

ディグダがいっぱい!』 
ニャースのあいうえお』 
劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』 
劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕』 
ポケットモンスター ミュウツー!我ハココニ在リ』 
劇場版ポケットモンスター3作目の没プロット

 

ミュウツーの逆襲では『自己存在の意義』、爆誕では『他者との共存』、幻の三作目では『自分のいる世界』をテーマに、1年半~長くて4年といったスケジュールを想定して最終回を構想(人気が出たとしてもアニメ「ポケモン2」として仕切り直せば良いと考えた)。

 

これらはいずれ放送されるであろう最終回に繋がる…はずだった。

首藤剛志の構想

少年アニメが『主人公が力を出し切って燃え尽きる』『悟りを開いて退場』といったイメージだった首藤氏は『いい意味でも悪い意味でもそんな大人びた結論の出るアニメにはしたくない』という思いを抱いていた。

 

だから実際にゲームもやってみて、

 

「ポケモンはゲームの操作のやり方次第で、プレーヤーの思いどおりになる(*1)。手間はかかるが、プレーヤーに逆らったり死んでしまう事もなく、失敗してもリセットが可能。事と次第によっては友達になってくれる。ポケモンが生き物だとしたら、これほど思いどおりになる生き物はない。」

 

「ゲームをそのままアニメに持ち込むと、主人公が苦労もせずにポケモンを捕まえて、自分の代理でポケモンを戦わせる代理戦争に見えてしまう(*2)」「バトルが、サトシが直接手を下すことのない代理戦争が、目立つ作品にはしたくなかった」

 

と真面目に考えたこれをアニメに落とし込む構想中に『ゲーム中に映画のオマージュ』があると気づき、アニメポケモンに「子供の一夏の冒険」というイメージを抱いた。

 

「新しいポケモンとの出会いが目立つ作品に」

 

そして最終的な結論は『勝者の栄光』ではないと思い始めた氏は、『ポケモン』の世界を、サトシ(視聴者)の少年時代のノスタルジーと考えた。

 

子供の夢見る冒険の世界である『ポケモン』の世界にはポケモンしか出てこない。サトシの中の空想の『ポケモン』世界だから、当然である。

 

『ポケモン』の世界は、大人への通過儀礼を描きたい。

 

冒険を終えた『ポケモン』や『スタンド・バイ・ミー』の夢見る虚構の世界から卒業する子供のいつか大人になるように。

 

だが、その時広がる大人の世界を殺伐とした目で見てほしくない。妙な悟りで受け入れてほしくもない……。かといって『虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供』という人間を育てたくもない…

 

だから「虚構」として軽んじたご都合主義ではなく、リアリティを与えよう。

 

「自己を見失うな」をテーマに、「他者との共存」を考えながら歩むようになってほしい。

 

いつか『ポケモン』世界の虚構と別れる子供たちが大人になった時、懐かしく思い出せるようなアニメにしたい。

 

氏が構想していた最終回も、その想いが強く表れた内容となっている。

最終展開あらすじ

ポケモンと人間は本当に共存できるのか?

 

当然、ポケモンと人間は同じではない。

 

しかも、人間にゲットされたポケモンはゲームで、戦いの道具にされる。 
人間にゲットされたポケモンは奴隷である。グラディエイター(剣闘士)である。 
人間に寵愛を受けたとしてもそれはペットにしか過ぎない。

 

共存は不可能……ピカチュウとサトシの間にも溝ができる。

 

おそらく、この番組(アニポケ)の終盤には、ピカチュウは強力なパワーを持つポケモンに育っている。 
ローマ時代、ローマに反乱をおこし、ローマを窮地に陥れた剣闘士スパルタカスほどの実力を持ったポケモンになっている。

 



ポケモンは人間に反乱をおこす。

 

リーダーに祭り上げられるのはピカチュウだろう。 
サトシとピカチュウは友人同士のつもりである。

 

ピカチュウはポケモンとしての自分を選ぶか? 

 

違う生き物である人間と、友情、感情という移ろいやすいものをたよりにいままでのように共存していくのか?

 

サトシとピカチュウは苦悩する。だが反乱が起きている中で、

 

「人間とポケモンは共存できるよ」

 

と、いいながら、いけしゃあしゃあと、その戦いをやめさせるために活躍するのがロケット団とニャースのトリオである。 
なぜなら、『ポケモン』の世界において彼らは出来の悪いポケモンを押しつけられ、様々なポケモンと出会ってきた。

 

自身が意識しなくても、ポケモンについていちばんよく知っているのは実はムサシとコジロウ…… 
そして、一度は人間になりたかったニャースなのである。

 

彼らはポケモンと人間の共存関係の見本になっていた。

 

そして「自己存在の問い」に対しては、自分がポケモンなのか人間なのか、クローンなのか、一つの答えを見つけたミュウツーがいる。 
相手がポケモンであろうと、クローンであろうと、はたまた、出会うことのなかった何かであろうと、自己存在のある限り、我々はどんなものとも共存できる…

年月がたち、老人になったサトシは、ふと、昔を思い出す。

 

それは美化された少年時代の思い出。空想……、想像の生き物ポケモンたちとの冒険。友情。共存。 
それは、現実の人間の世界で、サトシが出会えなかったものだったかもしれない。

 

しかし、少年時代のどこかに、確かにピカチュウやポケモンがいて、ムサシがいてコジロウがいてミュウツーがいて…… 
それだけではない、サトシの少年時代の冒険で出会ったすべてが、老人になったサトシの目には見える。

 

サトシの耳にサトシの母親の声が聞こえる。

 

「さあ、早く寝なさい。あしたは旅立ちの日でしょう」

 

翌朝、母親に叩き起こされたサトシの姿は少年に戻っていて、元気に家を飛び出していく。 
それは「ポケモン、ゲットの旅ではなく、ポケモンマスターになる旅でもなく、自分とは何か」を探し、他者との共存を目指す旅だ。

 

つまりどういうことか

前述のように「サトシが直接手を下すことのない代理戦争が、目立つ作品にはしたくなかった」「ポケモンが生き物だとしたら、これほど思いどおりになる生き物はない」と思っていた首藤氏はいずれ『ポケモンの反乱』を書く予定があった。

 

その戦争の中で、モンスターボールに入らずに「仲間であっても、サトシの所有物になりたくない」と端的に表現していた「ピカチュウがリーダーなのは、最強のポケモンだから」であり、最強のポケモンなのはサトシと共に最強となったから。

 

つまり、首藤氏としてはサトシが掲げている、最高のポケモントレーナーである『ポケモンマスター』はぶっちゃけ主題でも中間点でもない。 
戦いを止める仲介人として活躍するのは「ポケモントレーナーとポケモン」ではなく、ロケット団の三人組である。

 

首藤氏がロケット団を三枚目ではなく美男美女にしたのはこのためで、喋れるニャースが人間を目指したのも、ポケモンと人間の架け橋となることで、自分に生きがいとやりがいを見出すもの。

 

「ムサシとコジロウとニャース」こそが理想の「ポケモンと人間の共存」関係として描きたかったものと思われる。


そして、おそらくラストは夢の卒業と現実の他者との共存。

 

ミュウツーの葛藤を経た「自己存在」の対として、ただただ欲しいものを追い求め自分のことにしか興味がないゆえに躊躇無く他者の世界を破壊していくコレクタージラルダン。 
それぞれの存在が住むべき世界の安寧を願うルギアの「他者との共存」をテーマにした最終章の「ポケモンとの戦争」。 
幻の映画第三作は、それを少しだけかすめるストーリーに。

 

そして『ポケモンのいる“夢”の世界』を終えたある少年が「自分とは何か」を思い、自分の世界だけを優先し他者を破壊する人間にはならず、ロケット団とニャース達・和解したサトシとポケモン達のように「他者との共存」を考えて現実世界を歩み出す…………。

その少年とは、テレビの前の子供であるキミ自身というメッセージだったのだろう。

余談

上記のポケモンの反乱の設定のオマージュともいえる設定がのちのシリーズにも登場している。以下がその一例である。 


このほか、映画『キミにきめた!』でも「ポケモンがいない現実世界」というこの没プロットを連想させるシーンが出てくる。 
また、映画『ココ』でも人間とポケモンが争うシーンや、人でもありポケモンでもある特異な存在:ココが物語の中で重要な活躍をする。 
恐らく、これらの作品は映画のテーマである「原点回帰」を強く意識しているのだと思われる。 
 

最後に

結局没を食らっている2作品。 
今も「せっかくなら見てみたい」というファンの声がある一方で、「オリジナル作品ではなく他社のコンテンツのアニメ化でやることじゃない」「やったところで面白いものになるとは思えない」「流石に作家性が強すぎる」と言った反対意見も多い。 
ただし、これらについては普通ゲーム(のアニメ)自体が1年続くか長くて数年程度にもなれば珍しい業界(当然ポケモン以前はホビアニにてほぼ例がなく、ポケモンの快挙といえる)にて、自身の作品が理不尽な打ち切りにあったこともある首藤氏自身がポケモンの大ヒットなど想定できるわけもなかった。 
そのため「もしゲームが短期に終わってもアニメは記憶に残るものを」と打ち切られてもいいよう考えて脚本を作っていたのであり、そうしたアニメ製作前の事情を考えない批判は的外れになりかねないことに留意。 

他にも、首藤氏は手がけた作品・サトシやロケット団といった生み出したキャラクターに加え、ポケモン史に残る大偉業を成し遂げている。 
それは首藤氏の担当した作品に登場したオリジナルポケモンがゲームに逆輸入されたことである。 
それこそが海の神『ルギア』である。 
金・銀(当初はポケモン2)のゲームの開発時期が遅れていたおかげで組み込む余裕があった、とのこと。 
首藤氏個人としては、「海は母性の象徴」と考えていたため男性ボイスのルギアは好ましくなかったらしいが、ルギアはそのかっこよさで以降の高い人気へとつながっていった。 
アニポケ一話でサトシが目撃して終わりの、サトシ以外には誰にも確認されていない真の意味で幻のポケモンとして扱われる予定だったホウオウもこれを期に拾われ実装された。 

パッケージポケモン(所謂伝説のポケモン)がストーリーに一切関わらないのが金銀のみなのはこのためである(初代はパッケージポケモンが御三家なので一応ストーリーに絡んでいる)。

アニヲタwiki &ネット記事より引用

 

…考えさせられる結末でしたね。私達人間は何時迄も夢の世界に生きる事は出来ず。その夢は終わるから美しい訳で、自分だけが中心の世界から他人を対等に受け入れる様になって人は初めて大人になる…。

ポケモンを子供時代のノスタルジーに投影して、「他人を受け入れつつ自分を見失ってはいけない」と言うテーマは首藤さんらしい回答で、嘗て空モモの事故死を通じ「現実に逃避せず、向き合って欲しい」や海モモでは「どんな逆境でも夢を諦めてはいけない」は視聴者の心に深く残ったかも知れません。

私事ながら20代後半に所謂バーチャルリアリティのゲームに夢中になっていましたが、あるゲームを信じて待ったのに当の発売元のいい加減な対応に怒り、すっかり夢から醒めてしまい、「時間が掛かったからと言って、必ずしも望む出来になるとは限らない」事を思い知らされました。

そう言う現実を知ったからそう言った事に関わらなくなり、そのメーカーが出した「主力ブランド」もユーザーを無視した強欲強引な商売と、関係者がヒット要因をキチンと把握していなかった事が災いし、旧アニメ版セラムンと同様に没落の憂き目に遭いました。