二月 | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

二月になる。

菜の花の辛し和えを作り、たらのめと蕗の薹の天麩羅を揚げる。


明日は節分。

花屋に柊鰯を作る柊が並んでいた。

柊鰯は節分の夜のための魔よけで、柊と焼いた鰯の頭を門口に挿したもの。

柊の葉の棘が鬼の目を刺し、鰯の臭いが鬼を追い払うという。


節分の夜、豆をもって追われる鬼は、狂言や御伽草子に出てくる鬼のようにどこかユーモラスだ。

その一方で、祭事や儀式に残る鬼は、王朝時代以降、時の権力にまつろわぬ者として誅殺されいった者たちの姿でもある。


『鬼は放逐される運命を背負うことによってのみ農耕行事の祭りに生き、折伏され、誅殺されることによってのみ舞台芸術の世界に存在が許された』と書かれたのは、歌人の馬場あき子さんだ。

為政者によってしつらえられた祭りの中では、鬼は成敗される悪の権化として現れる。だが、人々が祭りや舞台の中に、討たれ放逐される者としてであっても鬼を生き延びさせたのは、鬼たちの悲憤や怒り、苦しみにどこかで共感したからではないか。

馬場さんの歌集「飛花抄」の「一 鬼狂い」の中に次のような一首がある。


しずめかねし瞋を祀る斎庭あらばゆきて撫でんか獅子のたてがみ      馬場あき子


(しずめかねし いかりをまつるゆにわあらば ゆきてなでんか ししのたてがみ)