山海塾『金柑少年』 | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

先日、山海塾の舞踏『金柑少年』を観に行った。世界の舞台芸術を集めたフェスティバルトーキョーという演劇祭のプログラムのひとつだ。

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写真は公演が行われた池袋の東京芸術劇場。今回のメイン会場のひとつで、大きな垂れ幕もあった。

脚本家・太田愛のブログ-FTトーキョー


『金柑少年』は1978年初演、演出・振付の天児牛大さん28歳の時の作。80年にはフランスのナンシー演劇祭で上演され、山海塾が世界的に評価される契機となった記念碑的作品だそうだ。

ことの次第はこんなだったらしい。リヨンで『金柑少年』を上演中、一人の人物が劇場の天児さんを訪ねてくる。彼は、自分の劇場で『金柑少年』ともう一本、新作を上演してほしい、新作については山海塾と自分の劇場との共同制作にしたい、と持ちかける。その「彼」……実はパリ市立劇場のディレクターだった。パリ市立劇場といえば欧州におけるコンテンポラリーダンスの最高峰。しかし、当時の天児さんはその事を知らず、「少し考えさせてほしい」と返事を渋ったらしい。後日、「わたしたちが依頼して、考えさせてほしいと言ったのはおまえだけだ」と明かされ、笑い話になったとインタビューでおっしゃっていた。

その後、両者の関係は30年にわたって続き、パリ市立劇場は山海塾の活動拠点となる。フランスの劇場はほとんどが市民の税金で賄われている。だから、劇場ディレクターがクリエイターを選び、そのディレクターの判断を観客である市民がジャッジする、という三者の関係は常にシビアに、かつクリアに機能しているのだそうだ。さすがに文化的な屋台骨が強固だ。そして、山海塾はそのような厳しい期待に30年間、応え続けてきたことになる。すごいことだ。

だが、その一方で、天児さんは「パリ市立劇場との出会いがなく、そのまま帰国していたら、早々に踊りをやめていたかもしれない」ともおっしゃっていた。たしかに、かつてたくさんあった舞踏集団も今では麿赤児さんの大駱駝艦以外あまり活動を聞かない気がする(大駱駝艦は天児さんの出発点でもある)。ずっとヨーロッパを中心に活動してきた山海塾の現在を重ね合わせて考えてみると、日本で今日まで舞踏が生き延びるのは本当に難しかったのだと思う。


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さて、本題の舞台だが、すばらしかった。

まず驚いたのは『孔雀』という演目。これは踊り手が本物の生きた孔雀を抱いたまま踊る。上半身を折り曲げた踊り手の背中で、孔雀が一度だけ大きく羽ばたいた瞬間が写真のように目に焼きついている。この孔雀、その後に続く演目の間も舞台にとどまり、終幕まで悠然と舞台上を闊歩しつづける。

もうひとつ。山海塾の踊り手たちは全身、白塗りで踊る。剃りあがった頭に白塗りという異形は強烈なインパクトだが、それ以上に明確な演出意図があるのだと舞台を観て思った。現代日本の舞踏は、西洋のバレエやダンスとちがって顔の表情を抑制しないものが多くある。泣いたり叫んだり笑ったりする。声は出さなくても、顔は身体の一部として表現の上で大きな役割を持っている。その顔が白く塗られることで、踊り手の顔からは一人一人の個性や特徴がそぎおとされる。踊り手の顔は「名前を持つ誰か」の顔ではなく、「ひと」そのものの顔に見えてくる。世界を覗き見る黒い穴のような二つの眼、真っ赤に燃える舌、口中の薄暗い洞の広がり。それらは「ひと」に「個」など存在せず、まだ言葉も持たなかった遠い昔の原初の「ひと」の姿を思わせる。暗い舞台の上で全身白塗りの「ひと」が嘆き、「ひと」が夢見て、「ひと」が哄笑する。踊り手の顔も、身体も、動きの全体も、原初の生命そのものの蠢きのようで、時にうろたえるほどなまめかしく、時に無垢な暴力をあらあらしくふりまき、時に性を超越して歓びをあふれさせる。鮮烈な舞台だった。