追悼・高野宏一監督 | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

先日、特技監督の高野宏一さんが亡くなられた。

訃報を知った日、突然のことで実感が持てず、電話をくれた何人かの友人と話すことで少しずつ現実として認識していくような感じだった。

高野監督に初めてお目にかかったのは十一年前、『ウルトラマンティガ』で私自身、初めてシナリオライターの仕事を始めた時だった。会議室で名刺を頂いた際、名刺に印刷された『高野宏一』という文字を見て『本物だ!』と思い、次に目の前で何か仰っている高野さんを見て『動く高野さんだ!』と思った。そのことを鮮明に覚えている。今から思えば相当に緊張していたのだと思う。『高野宏一』という名前は、子供の頃、郷里の四国の箱型テレビで一番最初に覚えた名前のひとつだったからだ。


高野さんは『ティガ』と『ダイナ』では、局打ち(シナリオ決定稿を出す最終会議)には必ずといっていいほど出席して下さった。高野さんのことを思い出すと、最初に思い浮かぶのが『江戸っ子』という言葉だ。一本ピンと筋の通った職人気質で、大らかでありながら、恐ろしく直感の鋭い方だった。たまに会議が煮詰まると、それまで黙っていた高野さんが「そこは、こういうイメージなんだろ?」と、片手でヒョイと掬い上げるように映像のイメージを説明されることがあった。それがあまりに的確かつ豊かで何度も驚かされた。説明が終わると高野さんはまたふっと沈黙に戻られる。とんでもなく偉大なクリエイターがなんだか当たり前のようにそこに座っていることがもはや驚愕だった。

手取り足取り教えたり、面と向かって褒めたりは決してなさらない方だったが、高野さんは若いスタッフの仕事をいつも細やかに見て下さっていた。『ゼルダポイントの攻防』のシナリオの時、スタッフ仲間から「高野さんが、あの台詞、じんときたと言ってたよ」と聞いた時は足踏みするほど嬉しかった。忘年会では今はなき東宝ビルトのスタジオで、自ら鍋やバーベキューを手作りして大勢のスタッフに振舞って下さった。みんなが食べるのを高野さんは満面の笑顔で見ていらした。


その頃、砧にあった円谷プロの社屋は門を開け放していて、夏の日盛りに打ち合わせに伺うと高野さんがよくホースで水撒きをされていた。ご挨拶すると、「おお、来たの」とニコッと笑う。高野さんのことを考えると、その笑顔がなぜか一番に思い出される。私にとって高野さんは、シナリオライターという仕事に踏み出した時、その入り口でサラリとした自然体で迎えてくださった偉大なクリエイターだった。そして、江戸っ子らしく背中で教える粋でやさしい方だった。


高野さん、本当にありがとうございました。