怪奇大作戦『かまいたち』① | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

深夜の路地、一人の若い女の後ろから無気味な足音が迫る。怯えて駆け出す女の背後で、ブロック塀に男の歪んだ影がよぎったかと思うと、低く唸る風に女の長い髪が逆立ち、電柱の白熱球が粉砕。次の瞬間、女の体はバラバラに切り裂かれて中空へと四散し、濁った川の中へと落下する。キャメラが汚れた川の水面をゆっくり横切り、水中から突き出した腕を映し出し、そしてタイトルがクレジットされる。傑作『かまいたち』の圧倒的なオープニングだ。『かまいたち』は長野卓監督の演出と鈴木清さんの撮影によるスタイリッシュな映像が全編に冴えわたる作品だが、上原正三先生のシナリオも破格の大胆さで凄みがある。(*以下、未見の方は、ぜひご覧になってからお読みください)


『かまいたち』に描かれるのは、いわゆる「動機なき無差別連続殺人」を犯す一人の青年だ。この「動機なき無差別連続殺人」のうち、力点が置かれているのは「無差別連続」ではなく、「動機なき」の方である。青年は全編を通して一言もセリフをしゃべらない。生い立ちも過去も描かれない。青年の生活についても、小さな工場の工員で一人暮らし、通信教育を受けているらしいという以外には最後までわからない。現代でいう「トラウマ」など何も出てこない。この作劇だけでも、作者としてかなり勇気が要る展開だと思うが、大人になって見直して気づいたのは別のことだ。


最初の事件が起きた時、岸田森さん演じるSRIの牧は、犯行現場でトラックの運転席から現場を眺めている青年に気づく。そして、その瞬間、彼が犯人ではないかと直感する。物語が進むうちに、犯行方法は推論されていくが、青年が犯人であることを示す具体的な手がかりは何ひとつ出てこない。もちろん「動機」もわからない。SRIの他のメンバーには、なぜ牧が青年を犯人と断ずるかわからない。ノムこと野村(松山政路さん、当時、省二さん)は、どうにも彼が犯人だと思えないばかりに張り込みで大失態まで演じる。


だが、何の具体的な物証もないにもかかわらず、牧はなぜこの青年が犯人だという気がしてならないのか。劇中、最も印象的だったのは、牧が「なぜあの青年が犯人だと思うのか」と問われる場面だ。三沢(勝呂誉さん)から問われた牧は「僕にも確信があるわけじゃない」と言い、次のように続ける。


――真面目で、おとなしくて……いたちのようにおどおどした目をしていて……  いつも孤独で……、つまり……なんと言うのかな……つまり……。

そして、言葉につまった牧は、自分にいらだったように上着のポケットから写真を取り出して目をやる。写真の中には工場裏で仲間といる青年の顔がある。

――この工場は裏が抜けている、どっからでも狙えるんだ。そうだ。だから、神出鬼没の作戦がとれるんです。
ここでのシナリオは、印象的な二つの「つまり」の後で、不意に牧が犯行の具体的可能性を思いつく流れになっており、いきなり話題がスイッチする。一度は話題を「なぜ牧は青年を犯人だと感じたのか」に進めながら、なおかつ答えを出さない。もっと言えば、「牧」は懸命に答えを出そうとしているけれども、作者が答えを出させないようにしているように見える。


何より、二度くりかえされる「つまり」が絶妙だと思う。「つまり」は、前に述べたことを要約しようとする言葉だが、牧は、「真面目で」「おとなしく」「いたちのようなおどおどした目をしていて」「いつも孤独で」という四つの事柄を並べて、それをひとつの焦点に集めようとしている。けれども、これらは本当にひとつに焦点を結ぶのだろうか。


たとえば、現代のマスコミに流れる犯人分析ならどうだろう。「見た目は真面目でおとなしいけれども、実は、いたちのようにおどおどした目で周囲をうかがい、強い孤独感を内に持っていて……」といった感じになるのではないか。四つの事柄はプラスとマイナスに振り分けられて「けれども」や「だが」といった言葉で逆接され、「……」の辺りに犯行の動機があてはめられる。それが通常だと思う。(今なら「孤独感」より「疎外感」だろう)。そう考えてみると、そもそも「つまり……」と考え始めた時から、牧は、作者によって答えを出せない場所に立たされている。岸田森さんの迫真の演技とあいまって、この展開にはいつ見ても唸らされる。


実は、『かまいたち』のシナリオで一番大胆なのは、この「牧はなぜ青年が犯人だと思ったのか」に答えを出さないところではないかと思う。牧は、最初に会った時から「動機なき」殺人を犯す青年の心を「わかって」しまう。だが、なぜ青年が無差別に人を殺す人間だと「わかった」のか、牧自身わからず、言葉にできない。飛躍した言い方になるが、ここでの牧は、青年に「動機がない」と感じているのではなく、犯罪へと傾く心の動きを「わかって」いる。だがそれは、牧の内部の、言葉にならない未分化なところで「わかって」いるのであり、牧はいわば、その未分化な場所で青年に「共振」している。だからこそ、見ている側も、いつのまにか牧を通してその「共振」に巻き込まれ、この青年を「わかって」しまうのではないかと思うのだ。


ラストシーン。囚われた青年の無表情なクロースアップ。そこに牧のモノローグが重なる。

――真面目で……おとなしくて……いたちのようにおどおどした目をしたこの男が……。……どうして。

「どうして」という幕切れのセリフは青年の動機を問いかけると同時に、牧自身の気づかないところで、牧の内側へも向けられているように聞こえる。この問いの答えは、青年の心を「わかって」しまった牧自身の内部にこそあるのだというように。


『かまいたち』が三十年以上も前に書かれたとは思えないほど斬新なのは、ただ「動機のない無差別殺人」を描いているからではなく、その「動機のない無差別殺人」を犯す犯罪者に、自分でも理由のわからないまま「共振」してしまう「牧」という人物が、どこかでとても現代の人間に似ているからではないかと思う。


脚本家としてデビューしたばかりの頃、上原先生に、あの時代になぜこんな作品を書こうと思われたのかとうかがったことがある。上原先生は悪戯っぽくニヤリと笑って一言、「予見してたんだよ」とおっしゃった。『かまいたち』の作者らしく、やっぱり先生も「動機」を語ってはくださらなかった。