サンマ作ってカツオを育てる!? -35ページ目

サンマ作ってカツオを育てる!?

【発育発達アドバイザー】
▪️マエムキ療育を発信▪️福岡在住アラ還2児の母
▪️裸足歩きでリフレッシュ
▪️人の生活・食・環境の専門家

 現在、テレビやテレビゲlムが子どもに及ぼすさまざまな悪影響について述べられていますが、その一つに、生身の身体での経験の乏しさが挙げられます。
 
 「バーチャル体験」と言われる架空の体験や、テレビ番組のキャラクターへの興味が大きくなる一方で、現実の「痛み」を伴わない「虚構の世界」や「自己中心性」を助長するゲーム感覚だけが成長していきます。そしてそれで育った子どもたちが実際にヒーローごっこをしてみれば、手があたって痛かったり、手加減なしで戦うため、相手に怪我をさせようやく現実の自分たちが生身の身体であることに互いが気付くよう
になるのです。
 
 ですから、いわば生身の経験の薄い今の子どもたちにとって、ヒーローごっこからけんかになったりすることは、必然でありかつ必要で、これをけんかは悪いこととして止めたり、けがを心配して仲裁に入ったりすることは、子どもがせっかくの生身の「痛み」を経験する貴重な機会を逃すだけとなるのです。

 ですから、そこで起こる多少のケガや泣きじゃくりはそっとしておいた方がいいでしょう。というのは、これらの生身の身体感覚を取り戻すことこそが、今子どもの成長に最も必要不可欠なものだからです。なぜなら、「痛み」の経験のないまま成長して、現代の戦略兵器での戦争の残酷さをどれほどテレビで見ても、
それは何ら反戦の意識や感性に訴えるものとはならないからです。

 
 その意味で、保育の場は、映像メディアの影響をある程度遮断する場と言えます。そしてこのような場だからこそ、「生身の身体経験としての遊び」こそが必要なのです。
 
 ちょうど本園で行われている「うどんつるつる」や「くっとり」などは、鬼に感覚的な身体どころか、服や髪の毛といった身体的感覚の自覚のないものでさえ触られたら、負けという、最も生身の身体感覚をとぎすますのにふさわしい遊びです。また、お互い身体感覚が未熟だからこそ、線を越えた、超えない、服に触れた触れない、といって、必ず争いやけんかになる遊びです。

 (これは「触ったという鬼の言い分の方が絶対」と決めること
によってある程度解決します。それでも納得しない場合は「本当ジャンケン」をして勝った方が正しいとします。するとしぶしぶ従います。賭けや偶然の要素が遊びとして感じられるのでしょうか)

 これらは互いに実感に基づいた真理契機を主張させるという訓練となります。そしてこの実感の訓練は、子どもたちに最も健全な感性を育てるのです。



ーーー玉城豊先生著 「平安を伝える」~子育て講演エッセー集より~

集団伝承遊びの知的発達

身体をぶつけあうような遊びを

制限の中での動き

もっと集団伝承遊びを

順番で悪者になるには(2)

弱さへの勇気を

柔軟性と巧緻性と敏捷性を

耐性を育てる

遊び  約束ごとの世界

やりとりを楽しむ

人生からのチャレンジ

ゆったりと流れる時間を

負けても立ち向かう勇気

実際に見てもらうのが一番

人権同和教育にジャンケンを

集団伝承遊びの復活を

うどんつるつるの遊び方

遊び・遊び・遊び

遊びこむときと場の必要性

なが馬の思い出

地面に線を描く遊びを

繰り返し伝えてこそ

ルールを変える


 どこの園でもテレビのヒーローごっこが盛んです。しかし、子どもたちのヒーローごっこは基本的に正義の味方だけで成り立っています。それは、たとえ遊びの中の役柄でも、悪者になるのは誰でもいやだからです。だから私は時々「園長怪獣」になって正義の味方に襲いかかります。しかしこれでは幼児の思いやりの心は育ちません。どうしても順番で悪者になる必要があるのです。
 
 昔は様々な「鬼遊び」を遊ぶことによって、自ずから鬼になる経験をさせられました。たとえば単純な「かくれんぼ」から始まって「ああぶくだった」や「ことしのぼたんはよいぼたん」などは、鬼は「いじめ」に近い扱いをされることによって、いやでもつらい経験をさせられました。いつまでも鬼になっていなければならなかったり、誰にも見つけられなかったり。しかし、この鬼は次の日には変わることができ、ジャンケンによって誰にでも当てられたのでした。
 
 こうして昔の子どもたちは、自分が何度も鬼となる遊びを通して、「いじめ」がひどい仕打ちであることを知っていき、又「いじめ」に耐える耐性を育てていったのです。それは年長が年少をかばうルールや相手を思いやる心をも育てたにちがいありません。
 
 今遊びの中から、このような思いやりを育てる集団伝承遊びが無くなりつつあります。それは年上から年下への伝える文化が無くなったからです。その欠けを補うことができるのは、今や教師や保育者だけです。
 
 昔話や絵本が、大人からどもたちへ伝えられなければ子どもたちの文化や宝となっていかないように、集団伝承遊びも伝えられなければ子どもは遊ぶことはできません。そして子どもたちは自分自身では、このような複雑で意味のある遊びを発明することはできないのです。集団伝承遊びは昔子どもだった人たちが考えた子どもたちへの贈り物なのです。もっと群れ遊びを豊かにと願います。
 

ーーー玉城豊先生著 「平安を伝える」~子育て講演エッセー集より~

集団伝承遊びの知的発達

身体をぶつけあうような遊びを

制限の中での動き

もっと集団伝承遊びを

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弱さへの勇気を

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やりとりを楽しむ

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ゆったりと流れる時間を

負けても立ち向かう勇気

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うどんつるつるの遊び方

遊び・遊び・遊び

遊びこむときと場の必要性

なが馬の思い出

地面に線を描く遊びを

繰り返し伝えてこそ

ルールを変える


 昔はどこの横でも行われていた「ひまわり」「Sケン」「くっとり(ろくむしごとい
った昔の集団伝承遊びが子どもたちの聞から消えて久しくなっているが、それは大人が集団伝承遊びを大切に思わなくなったことが主な原因と言える。
 
 なぜなら「竹馬」「あやとり」「お手玉」「こままわし」「かるたとり」といった個人
の伝承遊びは結構どの園も力を入れているからである。なぜ集団伝承遊びが大切なのだろを踏んだり越えたりしてはいけない、タッチされたら死ななければならない、等々という約束ごとによって遊びが成り立っためには、子どもたちみんながその約束ごとを守らなけばならない。その約束ごとを軽視したら途端に、遊びは白けて、面白くなくなる。遊びをずっと面白くさせるかどうかは、ずるをする子がいるかいないか、で決まる。
 
 この経験が、お互い熱くなって、「タッチをした、していない」「線を越えた、越えてつかみあいない」と言い争うこととなる。ついにはアウトの子を引っ張りだそうとして、つかみあいになったりする。
 
 このように集団伝承遊びはその内に必然的にけんかになる要素を持っているのだ。それは、別に故意にうそをついているのではなく、お互いの身体感覚が未熟で、自分の感覚こそが正しいと思っているからだ。だから、それは中々自分たちだけでは解決できない。そこには、教師がいつもそばにいて、客観的に正邪を審判したり調停したりしなければならない。
 
 そのため、教師には負担の大きい遊びであることが、保育の現場で嫌われた原因ではないだろうか。しかし、そのようなけんかの繰り返しが子どもたちにかかわる力や具体的に解決するための方法を育てるのではないか。
 
 また、集団伝承遊びは、どっちが正しいかを何度も繰り返す内に、世界には、守らなければならない大きな約束ごとがあり、そして、その約束ごとが守られている聞は、私たちは楽しく幸せに暮らすことができるのだ、という直観(統一への感)を育てるのだ。
 
 集団伝承遊びが、単に耐性を養うとか、鬼を経験させるといった以上の、これほど子どもを豊かにするものであるならば、もっと遊ばせようではないか。
 
ーーー玉城豊先生著 「平安を伝える」~子育て講演エッセー集より~

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順番で悪者になるには(2)

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柔軟性と巧緻性と敏捷性を

耐性を育てる

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やりとりを楽しむ

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ゆったりと流れる時間を

負けても立ち向かう勇気

実際に見てもらうのが一番

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繰り返し伝えてこそ

ルールを変える