日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。 -297ページ目

女々しい、男

以前、妻に触れたのは、いつの頃だったか。

思い出せない。





くすぐったいから。

そういって今日、妻は笑った。

泳ぎを教えることになり、体に触れた。

それだけだった。

抱きしめたい衝動に駆られながら、それに耐えた。

どんなに、腹を立てても、心の奥底では妻が好きなのだ。

女々しいものだ。

一発、妻の頬を張り飛ばすこともできない、怯弱な男。





帰りの車の中、ふと、妻が話し始めた。

なんでもないことを、話すことは殆どない。

いつもなら、必要に迫られた、必要な会話をするだけだ。

それが、今日は違った。

普通の夫婦なら、当たり前のような会話だった。

今日見て来たことについて、ただ話している。

これは、微かな変化なのか。




帰宅し、妻は娘と寝室へ行った。

娘が泣いている。

俺が寝室へ入ると、妻がひと言、眉間に皺を寄せて、大丈夫だからと言った。

完全に、拒絶されているわけではない。

もしもそうだとすれば、体に触れさせることすらしないのではないか。

そんなことを考えている、自分の女々しさに自嘲した。

今度、妻に触れるときは、頬に平手を打つ時かもしれない。

そう思って、また自嘲していた。


短編小説 「夢」 第4話 エピローグ

事故の連絡を、自宅で受けた時、主人の意識はすでに無かった。
脳にかなりのダメージを受け、喋る事も出来ず、脳死状態と言ってもいいくらい、ひどい状態だった。
すぐに、自立呼吸も出来なくなり、すぐさま人工呼吸器に繋がれた。
ただ、脳の機能が完全に停止してはいないと、医師から説明を受けていた。
回復の見込みは、全く無く、心臓が止まるのをだだ待っているようなものだった。

その状態で3週間が過ぎた。
学生時代の友人に、医師がいた。
それなりに、親しい関係だった。
わたしが、その彼に好意を寄せていた時期もあった。
その彼を、主人の治療のことで相談があると、一度家に呼んだ。
その時、わたしは泣き続けていて、話すことなどできなかった。
ようやく、彼と言葉を交わした時、部屋の隅に人の気配を感じた。
何故か、主人だと思った。
あなた、違うのよ。
心の中で、そう呟いたのだった。



家の中にいると、主人の事を思い出す。
二度と使われる事の無い、食器類。
主人が集めていた映画のDVD。
二人で並んで撮った、旅の写真。
なぜ、もっとやさしくしてやれなかったのか。
悔やんでみても、もう遅かった。
最後の朝、主人にキスを求められ、それすら拒否した。
私を恨んで、死んでいったのかもしれない。
最期の時、頭すら動かす事の出来なかった主人が、わたしの方へ視線を向け、口を動かした。
何を言いたかったのだろうか。
一人になると、そのことを考えてしまうのだった。



ボロボロになった主人の車の中にあった、沖縄旅行のパンフレットに、そっと触れた。
よし決まりだな。
それが最後の言葉だった。

気が付くと夕方だった。
立ち上がろうと思ったとき、寝室で何か物音がした。
寝室へ行き、私は息を飲んだ。


ベッドの上に、ピアスが落ちていた。

主人からのプレゼント。

どうして、ここに。


ピアスを拾い上げ、胸に当てた。

あなた。
どこかで、わたしを見ているの。
呟いていた。



天井を見上げた。
木目が幾重にも重なっている。
一点に、目が奪われていた。
よく見ると、人の顔のように見える。
怒っているのか、笑っているのかよくわからない表情だった。

見続けているうちに、ちょっと笑っているように見えた。


娘、風呂場にて

娘と、夕食を摂った。


手で米を掴み、口へ運んでいる。

スプーンなど使わない。

だいたいは手掴みだ。

それでも喰えばましな方で、いつも牛乳を欲しがり、際限なく飲んでしまう。

当然、飯など喰えるはずもなかった。

そして、夜中に吐いたりすることもあった。

食事を終えて、ママと泣き叫ぶ娘を抱き抱え、風呂に入った。

しばらく放っておくと、泣くのを止め、一人で遊び始める。

娘は、おもちゃでお湯を掬い上げ、別の容器に入れていた。

アイスクリーム。

コーヒー。

そんなものを俺に作ってくれた。

「おとうちゃんの、マクドナルド。コーヒーどーぞ」

そう言って、カップを差し出して来た。

何故、俺のマクドナルドなのだろうか。

首を傾げたくなる。

娘と出掛けるときは、いつも妻もいて、マクドナルドなどではあまり食事をしないのである。

「なんで、おとうちゃんのマクドナルドなんですか」

そう訪ねても、娘は俺を無視し、また何かを作っているのだった。

「はい、どうぞ」


そう言って、カップが俺の口に押し付けられた。

これは何か、娘の説明は、なかった。