日々を生きる。~大切なものを失って得たもの。 -183ページ目

ポケットの中の100円玉

起床。


今日は、なぜか気分がよかった。


普段の暗鬱としたものが、腹の底に溜まって吐き気がすることもなかった。




すぐに妻の前へ立った。



「封筒、ある?」



俺は妻に言ったが、妻は返事すらしない。


無視、というやつだ。


妻に目をやると、眉間にしわを寄せ、視線すら合わせようとしない。


俺がいったい何をやったのだという思いと、かすかな憎悪。


気が付くと、奥歯を噛み締め、歯と歯が音を立てていた。



いつものことだった。



しかし、今回はどうしても封筒が必要だったのだ。


もう一度、妻の前に行こうとすると、何か汚いものでも避けるように、俺の前から逃げていった。



履歴書を採用担当者に送付する。


切手を買い、その他写真を整えると金がなくなった。


封筒すら買えなかったのだ。


その金も、バイトで顧客からもらった、心づけだった。


気持ちのよい顧客は、稀にいた。


お茶代と称して、おつりを我々にくれたりする。


二人一組の仕事なので、それを二人で分ける。



部屋中を探しても、封筒はなかった。


自室に、無造作に放り投げてあるジーンズのポケットを漁った。


二個目のジーンズのポケットから、100円玉が出てきた。




俺は安堵した。



妻娘が玄関の外で並んで、送迎バスが来るのを待っていた。


妻は微動だにせず、車道のはるか先に現れるだろうバスの方向に視線を送っていた。


俺に気が付いた娘が、俺を見上げている。


俺は、妻に気付かれない様に、娘に微笑み、小さく手を振った。


娘も、顔をほころばせ、手を振っている。




今日も晴れている。


暖かくなりそうだ。




俺はなんとなくそう思って、車に乗り込んだ。


それでも、消えてしまいたい

妻が俺に文句を言うときは、娘が寝ているときである。


その点は、妻の唯一評価出来るところでもあった。


そのことに対しては、ありがとうと言いたいくらいだ。


今朝も、怒号とともに妻が俺の部屋に押し入ってきたのだった。


「あんた、住宅ローンどうするつもり」


俺は返事をしなかった。


俺がどうなろうと、知ったことではない。自分には関係ないことだと、妻は自分で言ったばかりなのだ。


「あんた、黙っていればそれでいいと思っているの」


どうするつもり。どうするつもり。どうするつもり。




言葉は繰り返された。


現状は認識している。




基本給のみ。




そのほかには何もなくなった。


生活できるはずもないということもわかっている。


今やっているバイトは、これ以上時間を増やすことは出来なかった。


人が足りているということだ。



転職も考えた。  




しかし、現状を上回る給与を望める、転職先は皆無だった。


内定を取り付けた企業は、ふたを開けてみると現状を下回る給与だった。


断る以外になかった。


現状と同じであれば、なにもかわりはしない。


それでも、暇を見つけては求人情報を見たりしていた。




そうこうしているうちに、別の解決策が見つかった。



自社の中で、配転を申し出る。



そうすることによって、残業その他の手当ても見込める。


そして、新たな職種に転ずることのリスクも少なくてすむ。


さらに、あわよくば景気の好転まで時間も稼げる。


もっとも、それは期待薄ではあるのだが。




現時点では、配転が受理されることを願い、ただ待っているという状況だった。


それが最善だと、思ったからだ。


しかし、妻から見れば、何をやっているのだ。ということになる。




もっと、バイトをしろと妻が言いだした。


今の生活が、どれだけ惨めかということも、切々と語ってる。


泣きながらだ。


しばらくすると泣き止み、話の矛先が変わった。


短縮された時間分は、もっとほかのバイトでも探して働けという。


それが夫、父親の責務だ。


妻は声を荒げ、叫ぶように言っていた。



そして、妻の友人や、娘の同級生の父兄の生活ぶりが、引き合いに出される。


俺が一番聞きたくないことを、妻は知っているのだ。


それから、義母が俺を嘲笑しているということも付け加えられた。


どんなに前向きになろうと思っても、やはり、死にたくなるような気分に苛まれた。



消えてなくなりたい。




布団の中で、俺はそれだけを考えていた。


死ねば、住宅ローンは保険で相殺される。


そこまで考えて、俺は起き上がった。





解決方法は、ひとつしかなかった。


空を見上げると、晴れ渡った冬空に、薄雲が切れ切れに広がってかすかに動いていた。




やはり、消えたい。



その思いも、消しがたく、胸の中で澱となって、悪臭を放っていた。



それを体の外に出すように、俺は大きく息を吐いた。




とにかく、やってみるしかない。


現状を覆す、行動を起こすしかなかった。





俺は暗澹たる気分のまま、職安に足を向けた。

孤独な週末~妻娘はどこに?

週末、妻娘は帰ってこなかった。


実家にでも泊まったのだろう。


そう思っただけで心配もしなかった。


いつものことなのだ。


そして俺は、胸の中で歓喜した。


充足した週末になるだろう、と。


少なくとも、罵声が部屋の中にこだますることはなくなったのだ。



冷蔵庫の中に、何もなかったが飯はあったので、焼飯を作って食った。


ネットと読書。それに食事。


それだけで、時間が過ぎていった。


時々猫を抱き上げて、撫でてやった。


あきらめたような視線を、俺に向けるだけで、隙を見せるとすぐに飛んで逃げた。


特別なことをするわけでもなく、たったそれだけで、土曜日は、終わった。




日曜日の夕方に、妻娘が帰宅した。


義母も一緒だった。




娘が目を輝かせて、こういった。


「ホテルにお泊りしてきたよ」


俺は唖然とした。


すると、妻はすかさずこう付け加えた。


兄がホテルをとってくれた、と。


金はないが、兄の好意のおかげで、週末羽根を伸ばせたのだといっているのだった。



「きれいなお部屋で、お風呂も大きかったよ」



娘が言っている。


それに、義母も加わった。


「高級ホテルだけあって、食事もよかった」



妻は台所で何かやっていた。


湯を沸かしているということが、食卓に並んでいるものを見てわかった。


カップラーメン。


それが今夜の夕食だった。