上を向いて歩こう
日曜日。
義母と妻娘は、昼をまわらないうちに家を出て行った。
俺はそれを黙って見送った。
しばらく、何もしないでリビングで呆けていた。
TVもラジオも、なにもない。
音の無い世界だ。
頭の中によぎるものもなにもなかった。
腹が減ったので、カップラーメンを2つ食った。
食い終わった後も、やはり、何かをやろうという意欲も沸いてこなかった。
猫が丸くなっているのを、遠くから眺め続けている。
それだけだった。
気が付くと夕方になっていた。
外も暗くなり、部屋に明かりがついていないことに気付いた。
暗澹たる気分。
あきらめ。
無力感。
思わず目をつぶりそうになったときに、携帯が鳴った。
義母からだった。
食事に行くという連絡だった。
それから、4人でラーメン屋に入った。
昼と朝を兼ねた食事が、カップラーメンだったので俺は中華丼を頼み、義母かビールを注文してくれた。
気を使ってくれたのだろうという事は、よくわかった。
俺は感謝し、久しぶりの酒の味をゆっくりと楽しんだ。
妻に視線を向けると、憮然としたまま横を向いた。
酢をとれ、と妻が言った。
差し出すと、乱暴に取り上げ、酢を入れた容器がテーブルに当たって鈍い音を立てた。
結局はこうなるのだ。
途端に酒の味も、飯の味も変わったような気がした。
最悪な気分で箸をすすめていると、ふと、耳に音楽が流れ込んできた。
上を向いて歩こう。
坂本九が歌うあの曲だ。
やさしい旋律だった。
涙が、というくだりで、ふと、目頭が熱くなり、俺は顔を背けた。
それでも、熱いものが、溢れ出してくる。
悲しいときこそ、上を向いて歩くのだ。
何度も、何度もそう歌い上げる言葉が、俺の心を、刺した。
涙は、何とかこらえることができた。
娘が妻に、叱られている。
落ち着きの無いところは、俺に似ているのかもしれない。
そうおもいながら、娘に笑いかけた。
娘が食べ物を頬張りながら、微笑えんだ。
俺は少しだけ救われたような気分になり、コップに残ったビールを飲み干した。
真冬~部屋の中を舞う虫
週末、義母が我が家へやってくることはもう、恒例となっていた。
深夜、バイトを終えて帰宅すると、ぬるい風呂に入り、上がるころには朝になっている。
すぐに布団に潜り込んでも、朝食の支度をする音で目覚めてしまった。
義母、妻、娘の声が、歓声が聞こえた。
俺は、布団の中で、しばらくじっとしていた。
食事を終えても、出かける気配はなかった。
義母は俺を嗤っている。
妻が言ったことが、頭をよぎり、俺はリビングに出て行く勇気を削がれた。
情けないことに、ただ布団の中で聞き耳を立てているばかりだった。
尿意。
効し難かったが、今部屋を出ると、キッチンにいる妻と出くわすことになる。
妻がいなくなったことを確認して、トイレに行った。
ようやく、昼過ぎに、俺を肴にして嗤う輩は、家を出て行った。
食い物はなかった。
自分たちの食べる分しか、作らなかったのだろう。
冷凍庫の中から食い物を取り出し、解凍して食った。
この家にいるのは、猫だけだ。
頭を撫でてやると、悲しげに一度鳴いた。
ファンヒーターに給油し、風呂を洗った。
彼らが帰宅してからそれをやると、妻と義母が嗤うという。
義母がいるときだけ、家事を手伝う馬鹿な夫。
そう、映ってしまうらしい。
家事をやればやったで、悪意に満ちた解釈しかされない。
それが悲しかった。
3人が帰宅した。
自室を暖めていたファンヒーターを素早くリビングに移動し、起動する。
ネットも、電源を落とす。
ネット中毒だと罵られるからだ。
義母はTVにかじりつき、妻は勉強。娘は絵を描いていた。
ここは我が家なのか。
またそんな思いがこみ上げてきて、一人浮き上がったような自分を、受け入れられられないでいた。
義母が風呂いく。
TVが流れっぱなしだ。
俺は所在無く、TVの方へ視線を向けた。
いきなりでかい音がした。
妻がテーブルを叩いたのだ。
娘がどうしてそんなことをしたのだと、妻に尋ねている。
虫がいた。
妻がそういった。
明らかに、怒りをもってテーブルを叩いたことが娘にはわかっていて、娘も妻に尋ねたのだ。
俺も、妻のあてつけだと感じた。
もう限界だった。
俺は、鍵を握り締め、家を出た。
人間失格といわれて~2
外に出ると、何度もメールが送りつけられてきた。
妻からのメールだった。
住宅ローン、どうするのどうするのどうするの。
こんな内容のメールが、大量に送りつけられてくる。
俺は、簡潔にバイトを探してることなどをしたため、返送した。
すぐにこんなメールが帰ってきた。
人の話に耳を傾けろ!
この後はひどい内容だった。
家電量販店で正社員の求人が出ているだろう。休日云々言っている場合じゃないだろう。
休日に対して何か言ったことはあったのか、刹那考えたが、何も思い浮かばなかった。
やむことなく送りつけられるメールに、俺は恐怖を感じた。
結婚なんて安易に考えるな!詐欺師!
お前も納得ずくで、結婚したのだろう。そう思うと頭に血が上った。
別れると言い出し、結局、一緒になると後になって決断したのは、おまえではないのか。
俺は返信した。
そこまで言うのなら、もういい、と。
すかさず、メールが来た。
言いたくなるに決まっている。女性を大切にしようという気持ちはあんたにはないのか。そんなやつと一緒にいるなんて最低だ。
俺はこう返した。
こっちの台詞だ、と。
妻からのメールは憤激とともに、打たれたものだった。
お前が相手の気持ちを考えないからこうなる。だから飯も作らないし、常に無視している。それはあんたの今までの恋愛経験と同じで、同じ事を繰り返しているのだろう。学習しろ。
気の利いた対応ひとつできないくせに。
ネット中毒野郎。
まともに女と付き合ったことがあるのか。
どうやったら、女が喜ぶか何もわからないのか。
こっちの台詞だなんていう男は、過去にいなかった。なぜなら、女の気持ちに敏感ないい男っばかりだった。
そして、妻からのメールはこんな言葉でメールは締め括られていた。
こんな男にだまされたかと思うと、本当に悔しい。
俺という存在自体が否定されている。
そんな内容だった。
ここまで言っておきながら、何故別れないのだろう。
いくら生活のために一緒にいるといっても、ここまでのことを平然と言ってのける妻が俺には信じられなかった。
終わっている。
もうすべて終わっているのだ。
人間失格だと、はっきり言われているのと一緒だった。
俺は、最後のメールを返信した。
いくら歩み寄っても、決して受け入れない。
決して受け入れられないものを、俺にどうしろというのだ?
今朝、体の中から沸き立っていた活力は、もうどこにも残っていなかった。
憎悪。
胸の奥底で渦巻き、首の辺りまで駆け上がり、痛みを感じた。
しばらく待っていたが、妻からメールが送りつけられることは、もうなかった。