大きな災害を経験し、GDPをはじめとする多くの指標で、世界の先頭集団から零れ落ち、自信を失いつつあるように見える日本に対し、筆者はあくまでも優しいまなざしを向けてくれます。
「すみません」「ありがとう」「恐縮です」「おそれいります」「助かりました」「お世話になりました」「ご馳走様でした」「お疲れ様でした」・・・日本語の語彙の中に、こんなに多くの感謝の言葉が存在することを「ギフトの文化」と形容し、「ありがとうをここまで極めている文化はありません」とまで言われると、なんだか面映い気分になります。感謝を表すジェスチャーも多い・・・なんていわれても、やはり自然に身に付いたものですから、それと意識したこともありませんでした。
しかし、ルースさんはもっと突き詰めて、
『言うまでもないのですが、「ありがとう」を中心に考えると、必然的に「我」ではなく、「相手」がフォーカスされます。相手のためにどのように言えばいいか、どのように動けばいいか、何を差し上げればいいかを日常的に考えるようになると、自己的ではなく外向きの視点をもつようになるでしょう』と、この著作の中で仰っています。
そこまで言われると、「なるほど、日本人だということを、もっと世界に誇っていいのかもしれない」なんて気持ちになりそうです。
でもルースさんの言う美徳のひとつ「ほめられ下手な日本人」の一人として、謙遜しすぎかもしれませんが、少しだけ「日本人は、自分だけ良ければ…という考えを嫌う」という指摘について、気になることがあります。
2012年7月16日、私は代々木公園「さようなら原発10万人集会」に参加しました。
以前、西水美恵子さんの「あなたの中のリーダーへ」を読んで以来、「電気」がどれだけ多くの国の人たちを不幸な環境からから救いだしたのかを知っていたので、この集会である芸能人の方が仰った
「言ってみれば、たかが電気です。たかが電気のためになぜ命を危険に晒されなければいけないのでしょうか?たかが電気のために、この美しい日本、そして、国の未来である子供の命を、危険に晒すようなことをすべきではありません」
という発言には心底驚きました。
ニューヨーク暮らしのこのかたは、もう日本人じゃないのかもしれませんが、当時の連日の猛暑で、熱中症で倒れる人が続出しているのに、「たかが電気」とは、私には口が裂けても言えません。
自分の意見をはっきり言える日本人が増える中で、なんだか「自分だけ良ければ」という人も、同時に増えてきたのではないか、と心配になった事を覚えています。