本文
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をご(期)せよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。
通解
(諸天善神の加護があるのかないかを論じてきたが)つまるところ諸天善神も日蓮を見捨てるならば見捨てなさい。たとえどのような難にあったとしても、身命をなげうって正法の弘通に邁進(まいしん)するのみです。舎利弗が六十劫という長い間、菩薩行を積みながら、途中で退転したのは、婆羅門が舎利弗の目を欲しいと責められたのに耐えられなかったのです。また、久遠五百塵点劫(くおんごひゃくじんでんごう)およぶ三千塵点劫の昔に法華経の下種を受けた者が三千塵点や五百塵点劫の間悪道(苦しみの状態)におちたのも、修行中に悪知識(仏道修行を妨げる者のこと)にあって退転したらからです。善きことにつけ悪いことにつけ、法華経を捨てることは地獄にい堕ちる行為なのです。今こそ一生成仏、正法流布の大願を立てましょう。法華経は捨てて観経等の念仏の信仰に入り後生の極楽浄土を願うならば日本国の位をゆずろう、との誘惑があっても、また念仏を唱えなければ父母の首をはねるとの脅迫があっても、その他いろいろな大難が起こってきても、智者に日蓮の立てる法門が破られない限りは絶対に他の教えには従うことはありません。それ以外の大難は風の前の塵(ちり)のようなものです。私は日本の柱となりましょう(主の徳)、私は日本の眼目となりましょう(師の徳)、私は日本の大船となりましょう(親の徳)等と、主師親の三徳をもって末法のあらゆる人々を救おうとの誓いは絶対に破ることがないのです。