本文



我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたな(拙)き者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし


通解



私(日蓮大聖人)と私の弟子は、多くの難があろうとも、疑う心を起こさなければ、自然に仏界にいたるだろう。諸天の加護がないからと疑ってはならない。現世が安穏でないことを嘆いてはならない。これらのことは、私の弟子に対して、朝夕教えてきたことであります。けれども、私が佐渡流罪になったことによって、私の弟子たちが、皆、疑いを起こして、法華経(御本尊)への信仰を捨ててしまいました。低劣な人間の習性は、約束したことを、大事な時に忘れてしまうものであります。

本文


仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経を読むにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をも、たすけたてまつるべし


通解


仏になる道には必ず命を捨てるほどのことがあってはじめて仏にもなれると思われます。すでに経文に説かれている悪口罵詈(悪口をいわれ、ののしられること)刀杖瓦礫(刀、杖、瓦、小石による難)、数数見擯出(しばしば住む所を追われること=(二度の流罪等の難)等の難にあってきたことは、まさに法華経を身読したことになると、ますます信心もおごり、後生もたのもしく思われます。死んでいったとしても、かならず一人一人の弟子、檀那を助けてさしあげましょう。

本文


過去の謗法の我が身にある事疑いなし此の罪を今生に消さずば未来争(いかで)か地獄の苦をば免るべき


通解


過去の謗法が我が身にあることは疑いない。この罪を今生で消さなければ、どうして未来に地獄の苦しみを免れる事ができようか。

本文


此の世界は第六天の魔王の所領なり。一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり。 六道の中に二十五有と申すろうをかまへて一切衆生を入るるのみならず、妻子と申すほだしをうち、父母主君と申すあみをそらにはり、貪・瞋・痴の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす。  但あくのさかなのみをすすめて三悪道の大地に伏臥せしむ。たまたま善の心あれば障碍をなす。


通解


そもそも、この娑婆世界は、第六天の魔王の所領であります。 そして、一切衆生は、無始已来、第六天の魔王の眷属であります。  第六天の魔王は、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界)の中に、二十五有(注、欲界の四悪趣・四州・六欲天、色界の大梵天・四禅天・無想天・五浄居天、無色界の四空処天)という牢を構えて、その牢の中に一切衆生を入れるだけでなく、妻子という足かせを打ち、父母・主君という網を天に張り、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の酒を飲ませて、仏性の本心を狂わせるのです。  第六天の魔王は、ただ、悪の肴ばかりを勧めて、三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)の大地に倒れさせます。 そして、たまたま、善心を持っている者に対しては、妨害を行います。

本文

詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をご(期)せよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。


通解


(諸天善神の加護があるのかないかを論じてきたが)つまるところ諸天善神も日蓮を見捨てるならば見捨てなさい。たとえどのような難にあったとしても、身命をなげうって正法の弘通に邁進(まいしん)するのみです。舎利弗が六十劫という長い間、菩薩行を積みながら、途中で退転したのは、婆羅門が舎利弗の目を欲しいと責められたのに耐えられなかったのです。また、久遠五百塵点劫(くおんごひゃくじんでんごう)およぶ三千塵点劫の昔に法華経の下種を受けた者が三千塵点や五百塵点劫の間悪道(苦しみの状態)におちたのも、修行中に悪知識(仏道修行を妨げる者のこと)にあって退転したらからです。善きことにつけ悪いことにつけ、法華経を捨てることは地獄にい堕ちる行為なのです。今こそ一生成仏、正法流布の大願を立てましょう。法華経は捨てて観経等の念仏の信仰に入り後生の極楽浄土を願うならば日本国の位をゆずろう、との誘惑があっても、また念仏を唱えなければ父母の首をはねるとの脅迫があっても、その他いろいろな大難が起こってきても、智者に日蓮の立てる法門が破られない限りは絶対に他の教えには従うことはありません。それ以外の大難は風の前の塵(ちり)のようなものです。私は日本の柱となりましょう(主の徳)、私は日本の眼目となりましょう(師の徳)、私は日本の大船となりましょう(親の徳)等と、主師親の三徳をもって末法のあらゆる人々を救おうとの誓いは絶対に破ることがないのです。