12月の初日は、今年も朔太郎の"乃木坂倶楽部"を読んでいます。 | あと猫の寿命ほど。如露亦如電2024

あと猫の寿命ほど。如露亦如電2024

  2013年58歳の春に「うつ病」でダウン。治療に4年半。気づくと還暦を過ぎました。
  66歳になった2020年夏に「ああ、あと猫の寿命ぐらい生きるのか」と覚悟。世の中すべて如露亦如電です。

 

乃木坂倶楽部

 

十二月また来れり。

なんぞこの冬の寒きや。

去年はアパートの五階に住み

荒漠たる洋室の中

壁に寝台(べっと)を寄せてさびしく眠れり

わが思惟するものは何ぞや。

すでに人生の虚妄に疲れて

今も尚家畜の如くに飢ゑたるかな。

我は何物をも喪失せず

また一切を失い尽くせり。

(中略)

 

十二月また来れり

なんぞこの冬の寒きや。

訪ふものは扉(どあ)を叩きつくし

われの懶惰を見て憐れみ去れども

石炭もなく暖炉もなく

白亜の荒漠たる洋室の中

我れひとり寝台に醒めて

白昼(ひる)もなほ熊の如くに眠れるなり。

 

 (萩原朔太郎「氷島」より)

 

ニコニコ 私は、12月になると、毎年この「乃木坂倶楽部」を読んでみます。

 

 萩原朔太郎は「我れ非情の妻と別れてより、二児を家郷の母に託して、暫くこのアパートメントに寓す」と、自ら説明しています。朔太郎が乃木坂倶楽部に移ったのは1930年、44歳の頃。実入りが悪く、アパートの敷金が足りなくて、室生犀星から援助を受けようとしたり、父・密蔵からは「汝、四十歳に達して尚自活することができないほどなら何のための文学者だ。」と酷く怒られたり・・・。

 

キョロキョロ 乃木坂倶楽部は今のミッドタウン敷地にあたる麻布一聯隊の付近の「坂を登る崖上」あったようです。外苑東通りの通る高台です。

 朔太郎の当時は「乃木神社」は日露戦争の英霊である乃木将軍を祀る神社で、それなりの場所だったと思いますが、戦後は逆にしばらくは不人気な神社でした。幼い私は、近くの神社のなかで唯一「お祭り」が寂しく、神輿も出ず、露天も少ないこの神社を不思議に思っていたし、地元の人たちもあまり足を運びませんでした。一種の「結界」が張られているような神社。それが私の子供の時の印象。「したがって「乃木坂」のイメージもあまり良くなくて、なんとなく暗いイメージでした(赤坂側からは町外れだし)。

 

ニヤリ そんな乃木坂あたりには、赤坂と麻布の境という地の利もあって(六本木はすぐそば)芸能人たちが集まり、やがて「それでも乃木坂あたりでは、私もいい女だってさ」と梓みちよさんが「メランコリー」をヒットさせると、地名が全国区になってなんとなく華やぎました。

 そしてついにはインフルエンサーの「乃木坂46」が登場して・・・・。

 
 乃木坂、いまはブイブイ言わせています。
 
☆写真は1983年に写した乃木神社。いちばん上の写真は、乃木神社上の児童公園。乃木坂は外苑東通りに抜けるのに大きく彎曲していて時間が掛かるため。乃木人事境内からこの公園につながる階段を使うと便利でした。2、3枚目は境内の骨董市。4枚目は「自刃された部屋」です。この部屋のイメージが強くて、子供には怖い神社でした。
 

↓去年の今日のブログ。明治神宮の紅葉を愛でています。