感想・・・自分の本体(本心)は肉体にあらず、神界(宇宙)にある、と悟られた五井先生は常に意識は神界にあり、その意識を肉体という器に降ろしておられたのです。
五井先生は、覚者、聖者であり、巷の霊能者と大きく違うのは、五井先生は神様と繋がったのであり、霊能者は幽界の生物、感情霊と繋がっているのです。
神は愛(か〜あ み〜い)であるのに対し、幽界の生物は愛薄く人間に取り憑いてめちゃめちゃな人生にしようとするのです。
それは、愛が勝ち、地上天国が訪れると自分たちの居場所がなくなるからです。
今は、末法の世であり、幽界の生物たちが最後のあがきで狂ったように暴れまくっています。
政治も経済、世界情勢も大混乱しています。
個人的にも、精神も不安定になりそうになります。
感情的になりそうにもなります。
しかし、それは、地球のほんとうの姿ではなく、ほんとうの自分ではないのです。
客観視が大切なのは、肉体から意識を外すことで、神界(本心)に繋がりやすくなるからです。
幽界(幽体)は肉体界(肉体)にくっついているので、肉体から意識が外れると霊界、神界に意識が合うのです。
まともになれる、我(神)に帰ることができる・・・。
親という字は、「木の上に立って見る👀」と書きますね、ほんとうの親(神)とは、肉体から意識を外して客観視、俯瞰的に肉体界を観れる人のことを言うのです。(自分の子どもも他人の子も同じ意識で観れる)
〝肉体の自分を少し離れたところから観ているもう一人の自分がいる〟
景色が違ってみえます
やってみてください(笑)
本文
私は、普通いう肉体そのものが人間だと思っている人たちとは、まるで範疇を異にしている存在になっている。
肉体以外の世界から肉体を動かし、肉体的言葉を発している。
肉体以外の世界をいいかえれば、三界を超えた世界、空(くう)のあちら側の世界で、この空のあちら側の世界は神界ともいい、人間の内奥ともいうのである。
そうした世界にいる真我の私が、肉体を器とし、場所として、過去の肉体的私の想念を適材適所につかい、人に相対し、真我(神)の智慧をもって相手の相談相手になり、真我の光によって相手を浄めているのである。
一日も速く肉体が業因縁的想念の器でなく、光の器、真我(神)の器となることが、自己も救われ、人類も救われることになるのだと一般に認識させるのが私の天命である。
(五井昌久著・高橋英雄編『日々の祈り』21頁)