「ロシア語」(ラテン文字転写)「村山七郎訳」 『ごんざ訳』
「сирЕчь」(sirechi) 「即ち」(コノユコトを消して)『そいある』
村山教授もかいているように、鹿児島県立図書館の原稿コピーをみたら、ごんざははじめに(коноюкотъ)(konoyukot')(このゆこと)(このいうこと)とかいてから、けして『соiаръ』(soiar')『そいある』(それある)とかいていた。
岩波ロシア語辞典 「сиречь (廃)すなわち(то есть);言いかえれば。」
みだし語はふるいことばらしい。でもロシア語の聖書にはでてくる。
使徒行伝19章4節 「自分のあとにくるかた、すなわち、イエスを信じるように」
ペテロの第1の手紙3章20節 「この箱船に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが」
ヘブライ人への手紙2章14節 「死をつかさどる者、つまり悪魔を」
でも、日常会話では「つまり」とか「すなわち」とか、私はあまりつかわないし、ごんざもつかわなかったとおもう。
だから、ごんざは(このゆこと)(このいうこと)(=これを(ほかのことばで)いうこと)という訳語をかいたものの「こんなこといわないよなあ」とおもったんだろう。
ごん:「сирЕчь」(sirechi)をもっと簡単なことばでいうと何?
ボグ:「то есть」(to esti)だな。
ごん:そうか。
「то есть」(to esti)は、一語としても現代ロシア語の辞書にでている。
岩波ロシア語辞典 「то есть 1すなわち、つまり、言い換えれば。」
ところが「то есть」(to esti)をわけて直訳すると、
「то」(to)(それ)
「есть」(esti)(ある)
だから、ごんざのかきかえ後の『соiаръ』(soiar')『そいある』(それある)になる。
原稿には「то есть」(to esti)というロシア語はでてこないけど、
「сирЕчь」(sirechi)→「то есть」(to esti)→「то」(to)+「есть」(esti)
という手順をへて、ごんざの訳語の『そいある』(それある)ができたのであって、当時の薩摩方言で(すなわち)の意味で『そいある』(それある)といっていたのではないとおもう。
ごんざははじめにかいた(このゆこと)(=これを(ほかのことばで)いうこと)から「то есть」(to esti)の直訳の『そいある』(それある)に訳語を改悪してしまった。