大学助教授の夫と離婚専門の弁護士である典型的中産階級の夫婦の 不倫やセックスの喜びなどの問題が赤裸々に語られる。
元々は6話からなる1973年のテレビドラマシリーズで視聴者は主婦が多く、夫婦間の対話を誘発し、離婚が劇的に増えたと言われる。
日本・スエーデン家庭生活調査報告書https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/prj/hou/hou011/hou11c.pdf
(内閣府平成16年。このグラフは全文53ページ中の12ページにある)
によると五年ごとの統計であるが1975年が突出して離婚率が高い。
ハナから恐縮だが、夫婦一緒に見ない方が無難だろう。
ヨハン(42才応用心理研究所助教授)、マリアンヌ(35才親族法の弁護士)は結婚十年を迎え二人の娘と外見は幸せそうな家庭を営んでいる。 ある日理想的カップルとして、雑誌のインタビューを受け夫婦生活について語る。数日後夫婦の共通の友人を夕食に招くが、その夫婦は互いに罵り合いをはじめ, 二人はなんとか二人を宥める。
それらがきっかけでマリアンヌは自分たち夫婦の問題を話し合おうとするが、ヨハンは取り合わない。
ある夏の日娘たちと夏の別荘にいたマリアンヌのもとにヨハンが訪れ、ヨハンが自分には愛人がいると打ち明け、自分の荷物をまとめて家を出て行く。マリアンヌはある友達に電話すると、仲間内ではヨハンの不倫はみな知っていた、と言われる。
(以下最終第六話冒頭の「前話のあらすじ」部分)
数年後二人は離婚書類にサインするためオフイスで合う。
ヨハン(エルランド・ヨセフセン)マリアンヌ(リヴ・ウルマン)
だが問題が起きた。
マリアンヌはその数年で立ち直り、再び人生に喜びを見いだしていた。
ヨハンは正反対。出世の夢は全く絶たれ研究所では屈辱的な扱いを受けて自信を失っていた。
愛人のとの生活にもすっかり疲れ切っていた彼は離婚に異議を唱える。二人は始めて激しい喧嘩をした。
疲れるまで格闘し恨みをぶつけ合った。 積もり積もった感情だ。
(ヨハンは)憎悪を抱えて離婚書類にサインする。(第五話了)
ヨハンとマリアンヌ,
彼らが結婚してから通算20年が経っていた。
ある劇場で偶然に再会し、焼けぼっくいに火がつく。
二人は情事のため友人の別荘にゆき、マリアンヌは「自分は誰も愛さず誰からも愛されていない」と言う悪夢にうなされ目を覚ます。
ヨハンはマリアンヌと「完全には満たされることの無い愛」を分かち合う。(後で詳述)
ヨハンは前のブログ「狼の時刻」のヨハンと重なり合い、ベルイマンの様々な結婚・離婚や愛人の別離などの経験が投影されている。
一方相手のマリアンヌにはリヴ・ウルマンを含む相手の女性が複合的に投影されている。
「ペルソナ」(1965年)でリヴと劇的に出会い、子をもうけて(狼の時刻)
リヴがベルイマンからの結婚の申し出を断って後、ベルイマンは長年の関係が続いていたイングリット・フォン・ローゼンと1971年に再婚する。イングリットは貴族の出, 結婚相手も貴族でその相手とは4人の子をもうけていた。
確かにイングリッドは穏やかで上品で、男を上手にサポートする術をもち、実務的な管理能力もあってベルイマンには心落ち着くパートナーであったと言われている。しかしそれだけでは無く「狼の時刻」などで自分の子供時代のトラウマ、分離不安や罰の屈辱からくる激しい憎悪などのデーモンを完全ではないもののある程度の浄化作用をすることが出来たことによって彼自身の内面の安定がもたらされていた事がこの映画の背景にある。つまりそれらの結婚をある距離をおいて対象化し映画化する事が出来たのである。
[狼の時刻」で紹介した The Persona of Ingmar Bergman 」の著者Barbara Young は”マイホーム、日々決まり切った生活、友人たちあるいは両親を自分の安定の根にすることは間違いだ。安定は自分の心をよりどころにするより無いのだ"とヨハンはベルイマンを代弁して言っている。この哲学は彼の幼少時代の心痛を和らげヨハンは離婚に向き合うようになる。(Hubert Cohen の言うように)お互いの違いを尊重することは身を切るような辛さだ。 だがそれは成長した証なのだ。(P174-5)と語らせている。
このテレビ映画はスエーデン国内で3百万人が見た、と評判を呼び、ベルイマンのフォール島の家に見ず知らずの人たちが相談の電話を掛け、ベルイマンは電話番号を変えなければならなかったという。1973年のテレビ映画としては一回50分で六部(282分)で74年の映画版は同じ六部構成で155~168分といくつかのヴァージョンがある。それはベルイマンの映画社からフィルムを買って字幕や吹き替えをするだけで無く購入側が適宜長さを調整するからであるが、米国でも映画もテレビ版も両方何回も上映放映されたため、見たヴァージョンによって多少違う批評になる可能性もある。
さて最終第六部友人の別荘宅(夜中のサマーハウスで)の二人の情事だが、ヨハンは米国での大学の転職もご破算となり、研究所で惨めな立場に置かれているが若い愛人との関係はまだ続いている。
弁護士のマリアンは自信に満ちて夫との関係の中でセックスの肉体的喜びを堪能しているが、一方夫は気軽に不倫を続けている。
マリアンヌはヨハンがビリビリしたところが無くなって、とても優しくなったことに感動し涙する。
「毎日辛いの?」と問われヨハンは
「身構えなくなった。人生を諦めたわけじゃ無い、身の程を知っただけだ。自分の限界を受け入れて、心が穏やかになった」
マリアンヌはヨハンにヨハンと結婚後まもなく浮気したことを語る。
「この秘密を告白していたら私たちの結婚はそのとき終わっていた」
「ヨハン、彼女を愛してる?」 「ふふ女はそればかり」
「つまり幸せなのね?」「なら君と会ったりはしない」
マリアンヌは夫ヘンリックとの結婚で自分の性欲を知り、彼と離れられなくなった、と語る一方夫は気楽にセックスが出来る女に走ってしまった事やそれを考えないことで円満に過ごしていると語る。
「実にいい話だ、面白い。だがこれ以上聞きたくない」とヨハン。
「傷ついたの?」
「夫婦生活をぶちまけて楽しいかい?。セックスは人生の一面に過ぎない。考えても見ろよ、僕たちは二人とも自分を知ったのだ。
僕は自分の小ささを。君は偉大さを知った。”真実”の話はもうしないでくれ」そうして明かりを消しベッドで横になり画面は暗転する。
夜半にマリアンヌが起き寒さに震えて「悪夢を見た」とヨハンに抱きしめられる。砂辺でマリアンヌがヨハンと娘たちに手を伸ばそうとするがどうしても届かない。肘から先がないのだ、と。
「ヨハン、人生は混乱ばかり」 「混乱って?」
「不安よ、確かな者など何もない。人間はただ運命に身を委ねるしかないの?」 「そう思う」
「もう手遅れなの?」 「ああ黙って受け入れよう」
「ヨハン、私は誰も愛したことが無い、愛されたことも無い。
とても寂しいわ」
「考えすぎだよ。僕には分るよ。自分勝手な愛だが君を愛してる。
君も僕を愛してる、わがままな愛だけどね。
愛し合っているけれどやり方がまずいだけだ。君は気難しい」
「私に愛されていると感じる?」
「感じるよ、でもそれを話すと消えてしまう」
「一晩中こうして抱合っていたい。」
「だめだよ」「どうして?」「足がしびれてきた」「横になりましょう」
「そうしよう」「ありがとうおやすみなさい、良い夢を」「君もね」
見終わって様々な問題が浮かんでくる。
「秘密と嘘」は自己防衛のエゴイズムだが、「正直」で「誠実」であることは互いを傷つける。
「狼の時間」でアルマ(ウルマン)も言うように、
なんだろうか
相手と一体化することを求めて互いに傷つき破綻に至る。
男と女の「親密さ」とはなんだろうか?
一体化ではないとすればなんだろうか?
セックスのオルガニズムだろうか?
それは愛無くしても可能だ。だとすれば即親密とは言えまい。
愛無くして不倫も可能だ。
愛無くして肉体の喜びを得ることも可能だ。
その愛も、時にふれて感じるもので永遠では無い。
Hubert Cohen は「The art of Confession 」のなかで
自分勝手な愛だが君を愛してる。
君も僕を愛してる、わがままな愛だけどね。(先述)
この二人の「不完全な愛」、互いを違いを認めることは痛切な痛みを伴うが、それは互いの(関係の)成長なのだ。(同書p359)
そして愛に、あるいは結婚に余りの多くを求めないこと。
かといって、
ふと兆す「疑い」がすべて無くなるわけでは無く
争いや混乱が無くなるわけでも無い。
この「不完全な愛」が居心地も良く長続きするものなのだ。(同書362)
これらは勿論、著者Cohen の解釈であり
他の解釈を排除するものでないことは言うまでも無い。
たとえば趣味が共通していることで親しくなって結婚したカップルもその後の一方の変化で親密さが揺らぐこともある。
子供の養育、しつけなどの問題の意見の食い違いもハレーションが大きい問題だ。
男は仕事の中で成長もするが、自信を失ったりもする。
そのとき男の最も良き理解者はあるいは同僚の女性かもしれない、
愛情とは移ろいやすいものだ。
その移ろいやすい愛に「秘密と嘘」が欠かせない、
としたら、愛とは?
ヨハンとマリアンヌの結婚と離婚、そしてまた愛人関係へ。
何が何でも離婚せずにいることが幸せな人生では無いだろう。
すべてはわれわれ各々の人生次第。
自分の生、この一回限りの心と身体を持った生命に、
代わるべき相手、責任を押しつける相手は居ないのだから。
追記:文字変換が調子悪く、度々訂正しました。お許しあれ。