#スコセッシ監督作品 #ミーンストリート  #ロバート・デ・ニーロ | Gon のあれこれ

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読後感、好きな太極拳、映画や展覧会の鑑賞、それに政治、ジャーナリズムについて、思いついた時に綴ります。

原題は Mean Streets  「みすぼらしい街」でいいだろうか。

1973年の公開だから、スコセッシが31歳の時。

 

ニューヨーク大学映画学部の修士の学生のとき、ハーベイ・カイテルを主演に「ドアをノックするのは誰」1967年で注目されたスコセッシは、同じカイテルを主演、デ・ニーロを脇役にこの作品をつくり、74年「アリスの恋」そして74年の「タクシードライバー」(カンヌパルムドール受賞)と映画界で明確な地歩を固めていくのだ。

 

冒頭

「教会で罪は贖えない。

我々は街や家庭で罪を贖う。

それ以外はまやかしだ」

と字幕が出たのち、カイテル演じるミーンストリートのチンピラ

チャーリーがあたかもそれが啓示のように響いてガバと起きる。

 

チャーリーの伯父ジョバンニはこの街のボス的存在。

リトルイタリーは法の支配の及ばない世界、

もめごとを警官や検事に持ち込んでも解決出来ない世界。

従って罪を贖う、たとえば借りた金を踏み倒したり、裏切りに対する報復は、固有の「掟」により実行される。

勿論教会で懺悔しても罪が許される訳では無い。

 

チャーリーの親友ジョニー(デ・ニーロ)はチャランポランな男で、

街で同類にカネを借りてもまともに返そうとせず、いつかその報復を恐れる友人のチャーリーはジョニーに借金返済のカネを渡すが、ジョニーはそれすら酒代に代えてしまう。

チャーリーの恋人テレサはジョニーのいとこ、癲癇持ちだ。

伯父ジョバンニはチャーリーにイタリア料理店を任せようと思い、

そのかわり、ジョニーやテレサと縁を切るように迫る。

手を切ることも相成らぬまま、チャーリーは悶々とするばかり。

カネを借りた相手に銃口を向けてしまったジョニーと恋人テレサを連れてチャーリーはしばらく他所でほとぼり冷まそうとするが、ブルックリンを超えた時猛スピードで追いかけてきた殺し屋に3人は撃たれる。

 

見終って最初に感じるのは、救いようのないバカ、

ジョニーを演じたデ・ニーロの演技。

演技を演技と見せない巧さ。

見るこちら側がデ・ニーロを憎んでしまうのだ。

この演技で全米批評家協会の助演男優賞を受賞。

同時にスコセッシの映画に欠かせぬ存在になってゆく。

 

関連していくつかの話題を提供する。

先ずはデ・ニーロのトランプ批判、1943年の生まれだからもうすっかり白髪だが舌鋒は鋭い。

 

 
トランプをペテン師、詐欺師、白人至上主義者とコテンパンで、気持ちがスッとするぐらい小気味がいい。付け加えることが無いくらいだ。
 
デ・ニーロは両親が画家だったこともあるだろうSOHOにも近いトライベッカで生まれ育った。いまも恐らく彼のレストランがあるはずだ。
1942年生まれのスコセッシはトライベッカから1キロ前後のリトルイタリー出身。子供の時はミサの侍者をやり司祭を目指すが、ティーンのときある女の子に恋して自分の性的欲望の強さに司祭を諦め映画の道に入る。
 
同じイタリー系でデニーロがリトルイタリーに徘徊することもあっただろう。加えてスコセッシはニューヨーク大学の映画学部、デ・ニーロは有名なアクタースタジオ出身で同じ映画界。
ということで若いときから遭遇していたのでは、と思って調べると、二人とも16歳前後の時、リトルイタリーのグランドストリートの行きつけのバーで互いに面識があったらしい。デ・ニーロは背も高くて、いつも静かでスコセッシは彼のことをthe nicest one,the sweetest one と言っている。
(Conversation with Scorsese p100)
必然的な運命に導かれ、それに素直に従った者は強い。
 
付け足しで恐縮だが、スコセッシはこの映画で、後の定番になる
ポップス、ロック、あるいは宗教的なクラシックを背景に使っている。
この映画では、The Ronettes の {Be my baby」
何気なく藤圭子を思い出す。