私が「毒親」という言葉を積極的に使わない理由 | 囚われの人生からの脱出!もっと自由に生きる心理学〜命のちから心理セラピー講座〜インナーチャイルドセラピー

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東京池袋の隠れ家的一軒家セラピールーム。公認心理師常駐。インナーチャイルドカードを使って心と対話をする技術を教える活動を通じて、多くの人が幼少期の体験の影響を無自覚に今も受けていると知りました。。それに気づいてもっと自由に生きられるようサポートしています。

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今日は「毒親」という言葉について、私が思うことをお話したいと思います。

 

「毒親」(どくおや)とは

アメリカの医療関係コンサルタント・セラピストであるスーザン・フォワードがその著書「毒になる親」の中で用いた言葉です。
 

その意味は

「子供に害悪を与える親」というものです。

私がこの言葉を知ったのは

自分がセラピストになってからですが、
特に2015年頃にはブームのようになって、そこここで頻繁に見聞きするようになったように思います。


私は日頃「毒親」という言葉はほぼ使いませんし、これまで、「毒親」について書いたり発言したりしたこともほとんどありません。

今日はその「毒親」について、私の思うところを本邦初公開(笑)したいと思います。




ブームになることで、影響範囲も広がったので、
最近では「毒親ブーム」への警鐘を鳴らす人も多いようですね。

今日は単純に

「私はこう考えてるんだよねー」

というところをお話してみたいと思います。

簡潔に述べるならば、その言葉の果たした一定の役割はあると認めつつ、
でもそれがイコール解決に繋がっているかどうかについては疑問を持っています。

まず果たした役割という点では、
「子供に害を与える親は存在する」ということを、多くの人が認識するようになったことです。

ひと昔前ならば

「子供が親を悪く言うなんてとんでもない」
というような道徳的観念が強く、
「親を毒呼ばわりするなんて!!!」
という世論が主流だったでしょう。

またこの観念の背景には、
「全ての親は子供を愛し、慈しむものだ」
という前提が共有されています。

 


ですが、これは事実ではありません。
多くの親はそうですが、全ての親がそうなわけではありません。




そういう中では、家庭と言う密室の中で何が行われていたとしても、
子が親からの被害を訴えるということは、
なかなかハードルの高いことでした。

仮に子供が声を上げたとしても、
「親がそんな(酷い)ことをするわけがない」
と多くの人は思ってしまったりするということが、起きていました。

それが近年、虐待問題などが関心を集めるようになり、随分変わってきました。

繰り返しますが
「子供に害を与える親は存在する」
ということは事実です。

けれど、子供時代からそのような親の元で育った人は、ほぼ例外なく、それが「親の悪影響」だとは思っていません。

自分の側に何か不足や悪い面を探してしまって、自己否定を根っことした生きづらさを抱えるようになります。

 



どんなに悪影響を与える親であったとしても、
その親しか知らない子供にとっては、
それが当たり前の親子関係なのだと思ってしまいます。

でも「毒親」という言葉は、
そこに新しい風を吹き込んでくれました。

 

「子供に害を与える親は存在する」
となれば、もしかして?

自分の親も?そうだったのか?
あれは、普通のことではなかったのか?
他の親はそうはしないのか?
うちの親は普通の親ではなかったのか?

といった新しい理解がもたらされるきっかけが生まれたのです。


それまで自分の側にばかり問題を探してきた人が

少なくとも子供時代の問題は親の側にあった

という新たな可能性を見出すだけで

いわれのない自罰感情から抜け出すことができるようになります。
 

これはとても重要なことです。

 

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では「毒親」という言葉が果たしたものは功績だけなのか?
というと、私はちょっと微妙だなと思っています。

 

自分の親が「毒親」だったと認識することで、
確かにそれまでのいわれなき自罰感情からは抜けられるのですが、
今度は「害を受けた」という強い被害感に悩まされるようになります。

害を受けたのは事実なので、被害感を感じるのは当然だし、正しい自己認識を持つためにも被害を被害と認めることは必要なのですが・・・。

どうもこの「毒」という言葉のインパクトの強い響きが、自分を必要以上に毒してしまうというか、汚染し続けてしまうような感覚を覚えます。


これはあくまでも私の個人的な間隔ですが、
親を毒と呼んだその言葉の毒性に自分もやられてしまうような感じです。

もちろんそうならない人もいるとは思います。

 


ただ、「毒親」という言葉を積極的に使っている人たちの中には、「毒親育ち」と名乗りながらも、楽にはなっていない方を散見します。

冒頭でも言ったように、私は普段臨床でこの言葉を使わないので、
自分のクライエントさんではないのですが、
自罰からは抜けられても、その後、被害感から抜け切れずに、親を憎んで苦しんでいる方が多いように感じます。


 

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思うに、ここはまだ「道半ば」だと思うのです。​​​​​​​

 

親から被害を受けて育ったという事実を認識した後に、どうやってそこにとらわれるのをやめて、自分の人生を前に進めて行けるのか?
というプロセスがまだ残っています。



「毒親」という言葉は、そのあまりにも強い言葉のインパクトゆえに、
これまでの自分の人生の苦しみに、
「親が毒だったから」というわかりやすい答えを得て、
それがゴールかのように勘違いをしてしまいやすい危険をはらんでいるのかなと思います。

ゴールはそこではなく
さらにその先にあります


過去を正しく理解して、自罰をやめて、
親への囚われを抜け出して、
自分の生きたい未来に向かう。

そのことを忘れなければ、
どんな言葉で理解してもよいのだと思います。

私にとってはそれが「毒親」という言葉でない方が自然だったということです。
最後までお読みくださって、ありがとうございました。



 

 

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