表を拡大してみれば、1948年にはミヤマセセリ、ツマキチョウ、オオミドリシジミなど各種平地産ゼフィルス、テングチョウ、コムラサキなど、こんな種が山手線の内側にいたのか?と驚くような種が並んでいる。しかしそれらのほとんどは開園後5年程度で姿を消している。この原因はなんだろうか。


一般論として言えば、大気汚染の進行とか、都市化の進行に伴う地理的な隔離なども考えられる。しかし、1948年、つまり昭和23年から5年程度という期間は周囲がまだ住宅地だった時期であり、急激な大気汚染が進行した時期よりも前である。そして自然教育園は20ha、すなわち400m✕500mという、かなり広大な面積を誇る。


完全には否定は出来ないが、一般的な都市化の影響が短期間でここまで大きな変化をもたらしたとは考えにくい。


この地区は自然教育園が出来るまでは御料地、その前は海軍の火薬庫、その前は大名屋敷があった場所である。つまり、ずっと人の手が入っていた土地である。

御料地だった時代にも、この場所に入り込んだ不心得者が水田や畑にしたり、樹木を伐採して薪にするなどが普通に行われていたようだ。


この場所が天然記念物に指定され、厳重に保護されるようになってから、そこに棲む種の数は急激に減少している。何が原因なのかはかなり明白だろう。