今週はパリ五輪のために『光る君へ』はおやすみ。

 

今年は「大河ドラマの関連なんで~」という言い訳で、毎週のように平安時代についての駄文をダダ流しできてシアワセ(笑)来年もこのまま続けばいいのに…。

 

しかしながら、そればっかりやってるっていうのも……ねぇ。

 

こんなブログを見にいらっしゃる、ありがたくも奇特な方々に向けて、たまには違う話題でも。

 

もうすぐお盆…ということもあって、「あの世」について…なんて、どうです?

 

 

日本人の「あの世」…といえば「三途の川」。

 

正確には、「この世」から「あの世」へ向かう狭い世界「死出の山」の最後の部分ことですね。

 

この川を渡ったが最後。もう二度と「この世」には帰れなくなります。

 

 

むかし、親戚の法事の時に、お坊さんが参加者に向かって説法をしたのですが、

 

「三途の川は、川幅どれくらいだと思いますか」

 

と問いかけたことがありました。

 

そこで親戚たちが、しばらく考えてから答えていたのが「信濃川ぐらい」。

 

やはり、新潟県(の東側)民にとって、広い川と言われて最初に思い浮かべるのは「信濃川」ですから、みんなそう答えるんでしょうなw

 

信濃川は「長岡花火」の打ち上げ場所にも流れていますが、そのあたりで川幅が900メートルくらい…でしたっけ。「九」というのが、何やら仏教っぽく…(何)

 

ともあれ、ワタクシは当時中学生くらいでしたが、三国志好き(当時から呉フリーク)だったので「長江くらい」と答えておりました(笑)

(住んでいた所が信濃川からはちと遠いので、ピンと来なかったんですかな)

 

呉の首都・建業(現在の南京)のあたりで、長江の川幅は1.5キロメートルくらい。だいぶ広い…

 

「三途の川」の川幅の正解は、40由旬(ゆじゅん)

 

「由旬」とは、古代インドの距離の単位で「牛車が1日に進行する距離」(wikipedia

 

牛車…インドの話なのに、突然の平安時代感(笑)

インドでは牛は神聖な生き物ですが、車を曳かせたりもしていたのでしょうかね?

 

(他の説では「帝王が1日に行軍する距離」。帝王は車に乗っていそうですから、ほぼ同じ意味になりそう…ですかね?)

 

メートル換算は、様々な説が分かれていますが、1由旬はおよそ10キロメートルほどとされます。

 

ということは、「三途の川」の川幅は400キロメートルということに。

 

………それ、川ですか?(^^;

 

ちなみに、世界で一番川幅の広い川「ラ・プラタ川」で、その幅は275キロメートル(河口部分)。

 

 

その1.5倍くらいということ?この世のものとは思えませんな(この世のものではないのですがw)

 

 

「三途の川」の名前の由来は「渡河方法が三種類あったから」だったそうです。

 

善人は金銀七宝で作られた橋「有橋渡(うきょうと)」を渡ります。

軽い罪人は「山水瀬(さんすいらい)」と呼ばれる浅瀬を渡ります。

重い罪人は「江深淵(こうしんえん)」と呼ばれる難所を渡ります。

 

…というわけ。

 

本当は、もう1つ渡河方法がありまして。

 

それは、「三途の川」の手前に広がる「賽の河原」の石を積み上げて、「仏塔」を完成させること。

 

でも、これは親より先に亡くなり、短い生涯だったがゆえに功徳を積めなかった、子供に課せられた罰なので、大人には適用されません。

 

大抵は、完成する前に鬼が崩してしまうので、子供たちは半永久的に積み続ける苦行を課せられることになります。好き好んで親より先に死んだわけじゃないのに、可哀想なことですね。

 

(なお、完成した時「罪が贖われ渡ることが許される」なので、渡る方法は他にある…らしい)

 

 

で、橋を渡る/浅瀬を渡る/深淵を渡るってことは、歩いて行くってことでしょう?

 

400キロメートルを歩くと、人の歩行速度はおよそ時速4キロメートルと言われているので、徳を積んだ善人の「橋を渡る」でさえ、100時間ほどかかることになります。

 

1日に5時間歩いたとしても20日…。

中々の苦行ですね。死んでしまいそうです(これが言いたかった)

 

なお、女性が「有橋渡」を渡る時、「初めて関係を持った男」に背負われて川を渡る…とされているそうな。

 

余計なお世話、セクハラ、それとも想い続けたあの人に最期を守られて本望…?心さまざま。

 

 

ところが、平安時代の後期、「三途の川」の渡り方が変わってしまいます。

 

「橋を渡る場合がある」という考え方が消え、「全員が渡舟によって渡河する」という考え方にシフトしてしまうのです。

 

 

これ、いったい何故なんだろう。

 

 

意外と「平安後期」というのがミソなのかもしれない。

 

平安後期といえば、疫病や旱魃によって、都に多くの死体が溢れかえる記述が度々表われる時代。

 

そして、保元の乱-平治の乱-源平合戦と続く「動乱期」。

 

「死」はみな平等と思われた…のでしょうか。

 

あるいは、平安中期(それこそ『光る君へ』の頃)あたりに、中国で唐から五代十国時代に培われた「浄土教」がやってきたのが、大きかったのか。

 

未完の聖地と奥州藤原氏(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11333381685.html

 

仏教で言うところの「平等」は、「ダルマ(真理)の前では一切が同じような価値しかない」という意味が、元々だったと思う。

 

死も生も、人間も人間以外の生き物も平等。

 

「平等」といえば、道長の息子・頼通が宇治に建てた浄土教寺院「平等院」がありますが、この「平等」は「死は皆に平等」ではなく「仏の救いの手が平等」という意味。

 


藤原頼通@大野遥斗さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

仏の平等は光で顕わされ、平等院は「光のお寺」ということですね。

(『光る君へ』のゴールは、ここにあるのでは…という予想もしてます…が、主人公は道長じゃないからな…)

 

 

以下、だいぶ妄想が入ってきます(笑)

 

そもそも「死んだら川を渡る」というのは、釈迦(ゴータマ?)が言い出したものらしい。

 

「人は此岸では真の幸せになれない。だから、彼岸に渡れ」

 

「この世」から「あの世」へ「渡れ」という言葉から、川が連想された…ということなんでしょうか。

 

「上座部仏教」では、川を渡れるのはごく限られた人々。

 

しかし、それは釈迦が望んだ教えではないとして、すべての人が渡れる方法を編み出し「大乗仏教」が誕生。

 

「三途の川」は「上座部仏教」と「大乗仏教」の別れ道でもあった…のかもしれないですね。

 

日本にまず入ってきた仏教は中国経由の「大乗仏教」。

 

なので「橋/浅瀬/深淵」のあの教えで、「あの世」へ行く方法が考えられていたわけです。

 

平安時代頃、遣唐使や宋との交流で「上座部仏教」の考えも渡来。

同時に、唐に盛んになった「浄土」、宋で盛んになった「禅」も来日します。

 

僧侶たちが大変な思いをして修行を遂げ、すべてを捨てて、河を泳いで渡っているというのに、その横をすたすたとあまり苦労なく橋で渡られたら、たまったものではありません。

 

「修行やお勤めをする意味、ある??」

 

そこで、まずは「橋を渡る」という考え方をデリート。

そして、選択的な渡し船方法になったのかなぁ…というかんじですかね。

 

(子供が「賽の河原」で無限の苦しみに遭う考えが残されれたのは「孝行」「不孝」という考えから残したんですかね)

 

 

そんな妄想をしていた学生時代でしたが(当時は作っていたゲームのために、そういうのを漁りまくっていたw)、その後に「白道(びゃくどう)」というものを知りました。

 

「二河白道」とも言う、浄土宗の方の言葉らしい。

 

「極楽往生」を願うものが亡くなると、「水」と「火」の二河に出会います。

 

南を流れるのは「火の河」。灼熱の炎は、すべてを焼き尽くす地獄の業火のよう。

 

北を流れるのは「水の河」。深くて底なしの、落ちたらタダでは済みません。

 

この2つの川の中間に細い白道があります。

 

心に念じて、この白道を通り抜ければ「極楽浄土(西岸)」に達する…というわけ。

 

白道は「橋」とは書いていないけれど、「火の河」「水の河」の間を通る様は、まさに「橋」。

 

唐代における浄土教の大成者、善導の書いた「観無量寿経疏」にあるのだそうな。

 

これが広く用いられるようになったのは、鎌倉時代の「浄土宗」を開いた、法然によるらしい(法然は夢で見るほどの、相当の善導ファン)

 

日本の「三途の川」は、当初あった「橋」が平安時代後期になくなり、鎌倉時代を通じて「白道」として復活した…ということなのかな。

 

しかし「白道」はあまり広まらず、「三途の川の渡し」が根強く残ったあたり、「平等に船で彼岸へ」というのが、日本人にはしっくりと肌に合ったわけですな。

 

そんなわけで、現代は「三途の川」は舟守に6文銭を渡して船で行く、平安時代後期方式での死出の旅路がご案内されているわけですねー。

 

 

それにしても、「三途の川」の川幅400キロメートル。

 

これを渡るのに「六文」って、「三途の渡し賃」は意外と破格の安さだったのですねぇ(^^;

 

(結局、平安時代の話になってますな…)

 

(江戸時代は「6文」で蕎麦が食べられたとか。幕末になると「二八蕎麦=16文」にまで値上がりしてしまったけれど、それでも六文の渡船料金は安い。乗りでがあります・笑)