昭和26年(1951年)。「太平洋戦争」が終結して日本はまだGHQの占領下だった時代。
『百人秀歌』と呼ばれる和歌集が、宮内庁書陵部から「発見」されました。
「京極黄門撰」と書かれていて、著者は『百人一首』の撰者である藤原定家その人。
開いてみると、それは『百人一首』とあまりにも酷似した和歌集でした。
「これは…『百人一首』の"原本"となったものではないか…!?」
まさしく、歴史的大発見。
世の中の常として、「ぜんぜん違うもの同士」よりも「ちょっと違うもの同士」の方が、その違いがくっきりと浮かび上がって、気になってしまうもの。
『百人一首』の研究は、「『百人秀歌』との比較検証」という、新たなステージへと誘われることになったのでした。
『百人一首』と『百人秀歌』は、どちらが先に成立したのかさえ、分かっていません。
それまで『百人一首』の和歌が、小倉山荘に貼られたのだろう…と考えられていたのに、もしかしたら『百人秀歌』の方だったかもしれない?
様々な謎を乱立させた『百人秀歌』の登場。
順番、語句、詠み人の名前…。
よく似ていながら異なる点もたくさんあるのですが、その中でも特に目を引く違いは、この3点。
- 『百人一首』の最後を飾る「後鳥羽院(99番)」「順徳院(100番)」が『百人秀歌』にはない
- 『百人一首』にはない3首の和歌が『百人秀歌』に入選している(つまり『百人秀歌』は101首の和歌が収められている)
- どちらにも「源俊頼」は入るものの、異なる和歌が採用されている。
『百人一首』は、勅撰和歌集から和歌が選ばれているという特徴があります。
後鳥羽院と順徳院は、「承久の乱」(1221年)で敗れて遠流に処された罪人。
両院が詠んだ和歌は「勅撰和歌集」には採られず、あるいは削除されました。
後鳥羽院と順徳院の和歌が収録されたのは、定家の息子・為家によって編まれた『続後撰和歌集』(建長3年(1251年)奏覧)以降。後鳥羽院(1239年没)も順徳院(1242年没)も、定家(1241年没)も亡くなった後のこと。
なので、「定家が『百人一首』に両院の和歌を入れているのは時期的におかしい」と言われておりました。
それに、『百人一首』は元はといえば、嘉禎元年(1235)夏、宇都宮頼綱(蓮生)が嵯峨の中院に建てた山荘に「障子歌色紙を貼ろう」と思いついた時、定家が依頼されて撰んだことが発端。
鎌倉御家人出身だった蓮生に、鎌倉の討幕を企んだ首謀者2人の和歌を撰んで送るはずがなく…。
ゆえに、『百人一首』の撰者は「定家ではない他の誰か」であり、歌人として名が知れていた「定家」の名を仮冒しただけでは?とまで言われていたのですが。
両院の和歌が欠けている『百人秀歌』の発見によって、「やはり大元は定家だった」と証明されることになったのでした。
ということを踏まえると、『百人秀歌』が成立が古くて、あとで為家あたりが「後鳥羽院」と「順徳院」を入れて、3首を外して「100首」に整えたのが『百人一首』ということになる。
…かというと、そう単純な話でもなかったりします。
そもそも、罪人である両院の和歌を「わざわざ採りたい」って、定家以外に動機のある人が、このあたりの時代にいたかどうか?
定家は、後鳥羽院に認められた歌人で、「承久の乱」で2人が歴史の表舞台を去ってしまったのは、かなり衝撃的なこと。
しかし、後鳥羽院が定家の歌才を認めていたように、定家もまた、後鳥羽院の歌才を尊んでいました。
歌才を認め、御恩もある後鳥羽院。その思い入れが深い定家自身が「百首」に、流された両院を加えるのは理解できることかと思います。
ということは、定家は『百人一首』と『百人秀歌』両方の撰者という可能性も、そう小さくはなさそうだな…と考えられます。
では、『百人一首』と『百人秀歌』よく似た2つの和歌集を編んだ理由って…?
それは、2つを見比べてみると分かるのかもしれません。
『百人秀歌』にあって『百人一首』にはないという3首の和歌は、誰のどんな和歌だったのか?というと、以下の3首だったそうです。
(百人秀歌 73)
堀河院御時百首哥たてまつりけるに
のこりのゆきのこゝろをよみ侍りける
春日野の したもえわたる草のうへに
つれなくみゆる春のあは雪
権中納言国信 / 新古今集 春 10
春日野の芽吹いて生えそろった春草の上に、淡雪が残っているのはつれないことだ。
(百人秀歌 90)
題しらず
きの国の ゆらの岬に ひろふてふ
たまさかにだに逢ひ見てしがな
権中納言長方 / 新古今集 恋 1075
紀国の由良岬で拾えるという玉のように、たまにでも良いから逢いたいものです。
源国信は村上源氏。
「待賢門院堀河」の叔父にあたる人物です。
藤原長方は別名「八条中納言」。
勧修寺流藤原氏の人で、藤原定家の従兄弟にあたる人。
そして、残りの1首は、この和歌。
(百人秀歌 53)
一条院の御時 皇后宮かくれたまひてのち
帳の帷の紐に結び付けられたる文を
見付けたりければ
内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に
歌三つ書き付けられたりける中に
夜もすがら 契りしことを忘れずは
こひむ涙の色ぞゆかしき
一条院皇后宮 / 後拾遺集 哀傷 536
あの夜に約束したことを覚えていますか。私のことを思って流すあなたの涙が何色なのか知りたかったです。
「一条院皇后宮」は、一条天皇の皇后・藤原定子のこと。
先日の『光る君へ』の第28話「一帝二后」にも出てきた定子の遺詠は、『百人秀歌』に採られ、そして『百人一首』では登場しない、いわくつきの和歌だったのですねー。
もしも『百人秀歌』が先で、整理したものが『百人一首』であるならば、定子の和歌は定家によって「外された」ことになり。
もしも『百人一首』が先で、「後鳥羽院」を外すために入れ替えを行ったのが『百人秀歌』であるならば、定家は定子の和歌を「わざわざ選んで入れた」ことになります。
どうして定子の歌の扱いは、両者で違っているのだろうか?
先に、ワタクシなりの解釈を言ってしまうと。
『百人一首』の主題(主人公)は後鳥羽院で、
『百人秀歌』の主題(主人公)は藤原定子。
定家の構想には、これがあったからではなかろうか…と、思うのです。
ただし、そう考える時、大きな疑問が1つあります。
それは、『百人一首』も『百人秀歌』も、定子のライバルとされた彰子の女房は「赤染衛門」「紫式部」「和泉式部」「伊勢大輔」「大弐三位」「小式部内侍」の6人が採られていること。
一方の、定子サロンの女房の和歌は「清少納言」ただ1人…。
「6:1」で、どうみても彰子のサロンの方が主役格…(汗)
ただし、『百人一首』では彰子・定子両者の和歌は採用されていませんが、『百人秀歌』なら定子の和歌が採用されている、というアドバンテージがあります。
そして、定子の母である「儀同三司母」や、定子の甥である「道雅」は入選していて、家族単位では1人もいない彰子よりはにぎやか。
でも、この差はなんだろうな…
で、これは以前読んだ本の受け売りなのですが…。
和歌の題材として、春は「桜」、秋は「紅葉」が代表格。
植物の色どりには乏しいと言われる『百人一首』ですが、それぞれ6首ずつが採られています。
【百人一首:桜の和歌 6首】
- 小野小町:花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
- 紀友則:ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
- 伊勢大輔:いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
- 行尊:もろともに あはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし
- 大江匡房:高砂の をのへの桜 咲きにけりと 山のかすみ立たずもあらなむ
- 西園寺公経:花さそふ 嵐の庭の雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
【百人一首:紅葉の和歌 6首】
- 猿丸大夫:奥山に もみぢ踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
- 在原業平:ちはやぶる 神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは
- 菅原道真:このたびは ぬさも取りあへず たむけ山 もみぢのにしき神のまにまに
- 藤原忠平:小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
- 春道列樹:山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ もみぢなりけり
- 能因法師:あらし吹く みむろの山の もみぢ葉は 竜田の川の にしきなりけり
春の花で「桜」と並び立つものといえば「梅」。
ところが『百人一首』で「梅」を探すと、次の1首しかありません。
- 紀貫之:人はいさ 心も知らずふる里は 花ぞ昔の香に匂ひける
秋の光景で「紅葉」と対比されるものといえば「菊」。
これもまた、『百人一首』で「菊」を探すと、次の1首だけが見つかります。
- 凡河内躬恒:こころあてに 折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花
「桜:梅」も「紅葉:菊」も「6:1」。
奇しくも、彰子サロンと定子サロンの女房の人数比率と同じ…。
もしかして、『百人一首』『百人秀歌』における「6:1」って、「1」に注目を集めるために機能している暗号なんじゃない…?
これを「暗号」ととらえる時、「桜」と「紅葉」には「嵐に晒されるもの」…という「暗喩」があります。
上の和歌を、さらに分類すると「咲く桜3:散る桜3」そして「山の紅葉3:川面の紅葉3」と、同数ずつが選ばれていることが分かります。
これを同数配置して「政局の動乱(嵐)にさらされるもの」と掛けるならば、1つだけ厳選した春秋を代表する花「梅/菊」は、そのシンボル。
「現世では散ってしまったけれど、『百人一首/秀歌』では永遠に」とクローズアップする…という手法が用いられているのではなかろうか?
「菊」が指し示しているのは、おそらくは後鳥羽院。
後鳥羽院は「歴代天皇で最大の巨人」と呼ばれています。
鎌倉幕府にタテ衝くという衝撃的な行動力もさることながら、和歌や蹴鞠など様々な分野で業績を残し、文化振興の礎を築いたことも挙げられます。
その中の1つに「御製の刀を打った」という、ぶっとんだ出来事がありました。
おそらくは、平家に持ち逃げされたがゆえに「三種の神器」なしで即位し、「壇ノ浦の戦い」で「神剣」を失ってしまった…その後ろめたさが「刀を作りたい」という動機の1つではなかろうかと推察されたりも…。
流転の神器(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12744391887.html
ともあれ、その作品の名前が「菊一文字」。
菊の御紋がある名刀で、以来「天皇家の御紋」が「菊」になっていく、きっかけを作った天皇でもありました。
「菊」はまさに、後鳥羽院の象徴に相応しい。
『百人一首』の主題「菊の帝王」は、後鳥羽院であることは異論はないでしょう。
「梅」は?というと、式子内親王ではないか…と言われています。
式子内親王は、後鳥羽院とほぼ同時代の人(年代的には親子ほど違う)で、和歌の才能と器量、そして薄幸の人として知られる、美しき姫さま。
『百人一首』でも89番歌として採用されています(「玉の緒よ 絶えなば絶えね長らへば しのぶることの弱りもぞする」)
式子内親王は、安住の地を中々得られない御令嬢だった…というのは、以前にも触れました。
紫野の賀茂上人(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12820126152.html
その最後の邸宅(6番目)となった「大炊御門殿」には梅が植えられていて、名所のようになっていたそう。式子内親王も多くの梅を詠んでいるようです。
さらに、定家の「憧れの女性」だったといわれもあり、定家が「後鳥羽院」と対比させて主題とする女性に選ぶには、相応しい存在感があります。
これが、「梅=式子内親王」説の源泉。
これを否定しない上で…。
「梅」が指している『百人秀歌』の主人公は、定子のことではなかろうか。
定子が内裏で宛てられていた後宮は「登華殿」でしたが、「凝花舎」に住んでいた説もあるそうです。
「凝花舎」は通称が「梅壺」。庭に梅の木が植えられていたことから、そのように呼ばれています。
定子は「梅壺の女御さま」だったかもしれないのですねー。
(「梅壺」には「中宮」になる前の「ただの女御」の時に住んでいた?あるいはずっと?もしくは『枕草子』の「返る年の二月廿よ日」の章段を見ると「長徳の変」後に内裏に来た時に入る場所だったのかな…とも。諸説ありながら…)
そして『枕草子』で、清少納言が宮仕えを始めたばかりの時のことを記した「宮にはじめてまゐりたるころ」では、定子の手を「薄紅梅色の手」と表現しています。
定子には梅の雰囲気がある…というのは、やっぱり強引?
でも、ここではこのまま突き進んで…(笑)
ワタクシなりの『百人一首』と『百人秀歌』の関係を紡いでみると。
「承久の乱」で御恩ある後鳥羽院が流された時、藤原定家は「大きな存在が消えてしまった」というショックから『百人一首』の構想を思いつく。
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後鳥羽院を「菊」になぞらえ、嵐で散ってしまう「紅葉」を配置して、呼応させた。
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この時、もしかしたら「式子内親王」を「梅」になぞらえ、嵐で散ってしまう「桜」を配置して、後鳥羽院と対比させた。
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その時、「嵯峨の中院の山荘」の「色紙歌」を蓮生から依頼される。
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丁度いいと『百人一首』を使おうと思ったが、後鳥羽院の和歌は、とても入れられない。
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そこで、「後鳥羽院」に代わりうる「承久の乱」なみのショッキングな出来事を考えた時、定子の早過ぎる死が、真っ先に思い浮かんだ。
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定子と言えば「梅」。式子内親王と定子を入れ替えて、主題を定子に変更。
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後鳥羽院、順徳院の両院を外して、新たに2人の歌人を入選。
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うっかり(わざと?)式子内親王を外すのを忘れる。
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こうして、全101首の『百人秀歌』が完成。
『百人一首』と『百人秀歌』には、こんな経緯があったのでは…と、ワタクシは妄想していますw
やや強引過ぎる箇所がいくつもりますが、でも「後鳥羽院の敗北」と同じくらい、定子の崩御は話を聞いた若い貴族が出家してしまったという話も残っているほど、平安王朝には衝撃的な出来事でした。
定家は、定子の死から200年ほど後の人物ですが、それでも忘れることができない、儚くも美しい中宮の悲劇として、語り継がれていたのではなかろうか。
「『百人秀歌』にだけ定子の歌が入っている」という事実は、そんな想像に翼をつけてくれます。
この謎解き…あなたの編んだ物語は、どんなかんじですか。
最後に、冒頭で「特に目を引く違い」として3点を挙げた、3つ目について。
源俊頼の和歌が『百人一首』と『百人秀歌』では違っている。
『百人一首』の方では、お馴染みの74番歌。
うかりける 人を初瀬の山おろし
激しかれとは祈らぬものを
源俊頼朝臣/千載集 恋 708
これが『百人秀歌』では、この和歌になっています。
山桜 咲き初めしより久方の
雲居に見ゆる滝の白糸
源俊頼朝臣/金葉集 春 50
「恋」の歌と「春」の歌との違い。
どうして、定家はこの2つを「入れ替え」したのだろうか…??
…という謎を考えようとすると。
『百人秀歌』のほうでは「桜」を詠んでいます。
なんと…………「6:1」の法則、ここで破れる……。
チャンチャン(笑)
いやいや、待ってください。
「桜」の和歌は「咲く桜3:散る桜3」でしたが、これを入れると「咲く桜4:散る桜3」で、「まだ散っていない桜」の方が優勢になっています。
これって、定家のメッセージなのでは…?
「定子さま、あなたは悲しくも若くして世を去ってしまいましたが、あなたが残した"輝き"は散ることなく、200年後の今も、そしてこの後も、咲き続けますよ」
そんな鎮魂と祈りの言葉を、この「梅1:散る桜3:咲く桜4」は発しているような気がするのですが、どうでしょうかねー。
(そして後鳥羽院が「菊1:山の紅葉3:川の紅葉3」のままなのは、「この後はどうなるか、まだ分からんな…」というかんじ…だったんですかねぇ^^;)
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