今年は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』とアニメ版『平家物語』の本放送の年。

 

そしてNHKオンデマンドで『平清盛』配信が始まったこともあって、都合3種類もの「壇ノ浦の戦い」がお茶の間で見られる、平家滅亡Yearになっております(笑)

 

思い出せば、大河『平清盛』のリアル放送時、どこまでやるのかな…というのは、結構話題に(懸念に?)なっていました。

 

清盛が亡くなったのは治承5年(1181年)

源平合戦の最終戦「壇ノ浦の戦い」があったのは寿永4年(1185年)

 

『平清盛』は、言うまでもなく平清盛の一代記。

となれば、源平合戦まではやらないかもしれない…でも、源平合戦まで見たい!!

 

NHKからの答えは「壇ノ浦の戦い」のハイライトだけ放送という折衷案(?)

清盛クラスタはほっとしたような、残念だったような、でも万感の感謝を込めて1年間のフィナーレを見送ったんですよねー。懐かしい話です。

 

…要するに、『平清盛』にも「壇ノ浦の戦い」があったので、都合3種類見れますねと、そう言いたいだけ…の?

 

と、思い出話はこれくらいにして。

 

 

「壇ノ浦の戦い」の時、平家は安徳天皇「三種の神器」を西国に持ち出していました。鎌倉軍(範頼や義経)にとって、この2つの回収が最優先課題。

 

でも、あまりに短期間で追い詰め過ぎたのと、平家の覚悟が完了していたことがあって、安徳天皇と「三種の神器」は関門海峡の波間に飛び込んでしまいます。

 

幸い、「八咫鏡」と「八尺瓊勾玉」は回収できましたが、「天叢雲剣」ははるかに水没し、行方不明になってしまいました。

 

 

…というところまでは、よく知られたお話。

でも、このお話に疑問が浮かぶ方も、中にはおられるのではなかろうか。

 

すなはち、

 

「天叢雲剣って、愛知県の熱田神宮の御神体だから、そこにあるんだよね?壇ノ浦に沈んだのってレプリカ?」

「三種の神器って、皇居で揃ってない?令和の新天皇即位の時にあったよね…壇ノ浦に沈んだんじゃないの?」

 

等々。

 

この辺を知るのに便利なのは、年表なのではなかろうか。

というわけで、さっそく紹介して見ると、このようになっています。

 

 

勢いあまって「天叢雲剣」以外も作ってみましたw

 

こうして年表だけ出して終わりというのも芸がないので、「三種の神器」の歴史について整理して取りあげ、ブログネタにしてみようと、今日はそういう試みです。

 

以下、ちと事情がありまして、「八咫鏡」は「神鏡」、「天叢雲剣(草薙の剣)」は「神剣」、「八尺瓊勾玉」は「神璽」という呼び方にして、話を続けます。

 

 

「三種の神器」のうち、「神鏡」「神璽」は元から「高天原」にあったみたい。

 

アマテラスの弟神・スサノヲが暴れたせいで、アマテラスが天岩戸に隠れてしまい、困った八百万の神々が謀って引っ張り出した「天岩戸事件」。ここにも登場しています。

 

一方、「神剣」が登場するのは「天岩戸事件」の後始末としてスサノヲが「高天原」を追放されてから。

 

出雲で「八岐大蛇」退治を依頼されたスサノヲが、十拳剣(とつかのつるぎ)で八岐大蛇の尻尾を斬ったところ、この霊剣が現れ、スサノヲは瑞兆として「高天原」のアマテラスに献上

 

こうして「三種の神器」は「高天原」に揃い踏みとなりました。

 

「天孫降臨」の時、アマテラスは孫のニニギに「三種の神器」を持たせ、「日向」に降りたたせました。

 

やがて、ニニギの曾孫のヒコホホデミ(後の神武天皇に受け継がれ、彼の「神武東征」により大和に持ち込まれます。

 

『記紀』では、このようにして「三種の神器」は天皇家のものになった…という流れが描かれています。

 

天皇家略系図 神話・天孫降臨・欠史八代

 

転機が訪れたのは、神武天皇から「欠史八代」を経た後の、「2人目の初代天皇」と称される10代・崇神天皇の時。

 

崇神朝の御世は疫病が流行したのですが、思い悩んだ崇神天皇は、こんな結論を導き出します。

 

「神の気が強い三種の神器が天皇とともにあるのは良くない。御所から離れた場所で祀ろう」

 

崇神天皇は、「神鏡」「神剣」豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ。崇神天皇の皇女)に託して「笠縫邑」へ移します(奈良の纏向のあたりあったと比定。ちなみに、崇神天皇は「磯城=纏向」に御所を構えていました)

 

この時、王位継承の証として、鏡と剣の「形代」を作って宮中に残したと言います。

 

ちなみに、「神璽」は形代を作られていません。

この頃はまだ「神璽」はなかったのかもしれない…「三種」ではなく「二種の神器」だったのかも?とも言われているみたいです。

(「神璽」は、中臣氏=藤原氏が掌っていたのではないか、藤原氏が権力を握るようになってから神器の仲間入りしたのではないか、という説もあります)

 

 

ところで、「形代ってレプリカ…ニセモノでしょ?」と思われる方も、中にはおられるのではなかろうか。

 

いえいえ、この形代は、実はホンモノと同じなんです。

というのも、この「三種の神器」。「神道」という宗教の「祭器」だからです。

 

例えば、「八幡神社」というのは、全国に7800社ほどあると言われています。

 

どこの八幡神社でも、祀られているのは、もちろん八幡神(=応神天皇)

 

これは、総本山の宇佐神宮(大分県)から「分祀」という形で各地に「八幡神」が分霊されて神社が建立されたから、とされます。

 

では、この全国7800社の八幡神社。「宇佐神宮」以外はニセモノなんでしょうか?

 

んなこたーないですね。東京の八幡社も、京都の八幡社も、岩手の八幡社も、北海道の八幡社も、新潟の八幡社も、みんなホンモノです。

 

「三種の神器」だって同じこと。

 

後世にソックリ真似て作られたとしても、「神道的にホンモノと同じ」とされたら、それはホンモノと同じなんです。

 

とはいえ、ここでは「どれが何処に行ったのか」が本題なので、「神鏡(元本)」「神鏡(形代)」のように書き分けて、話を進めていきますね。

 

 

と、補足したところで話を戻して…「笠縫邑」へと移された、「神鏡(元本)」「神剣(元本)」

 

崇神天皇の子・垂仁天皇の時代、皇女のヤマトヒメに託され、宇陀、近江、美濃と周った末に、「伊勢」へと移されることに。

 

この場所は「伊勢神宮」となり、ヤマトヒメは初代斎宮となりました。

 

ここで「神鏡は分かるけど、神剣は熱田神宮じゃないの?」と思われた方、するどいw

 

「神剣」が熱田神宮に行くのは、もう1ステップ。

垂仁天皇の孫にあたるヤマトタケルの手によってなのです。

(ただ、この「最初は伊勢神宮に奉安された」という話、ずっと後でまた出てくるので、よーく覚えていてくださいね)

 

天皇家略系図 崇神天皇~応神天皇

 

ヤマトタケルは、父帝の景行天皇から西国の討伐を命じられ、それを果たすと今度は東国の征服を命じられました。

 

連戦につぐ連戦で疲労困憊…あまりにもな仕打ち。ヤマトタケルは叔母のヤマトヒメ(初代斎宮のあの人)を訪ねて伊勢神宮に赴き、父への嘆きを告白。「父は私が死んでくれないかと願っておられるのだろうか…」

 

するとヤマトヒメは、伊勢神宮に奉安されていた「神剣(元本)」をヤマトタケルに与えました。「危急の時には、これを使いなさい」

 

ヤマトタケルが東国征伐に赴くと、野に火を放たれて大ピンチに陥ってしまいました。

そこで、「神剣(元本)」で草を薙ぎ払って火計を破ったことから、「天叢雲剣」に「草薙の剣」という別名をつけられたのは、結構有名なお話。

(ということは、本当は「草薙の剣」と呼ばれるのは「元本」の方だけで、「形代」は別のストーリーを辿っていることになりますね)

 

その後、彼の最後の戦いになる「伊吹山」に向かう際、ヤマトタケルは「草薙の剣」を、妻の実家である「熱田神宮」に置いていき、そして戦死(むしろ呪死?)を遂げてしまいます。

 

こうして、「神剣(元本)」は「伊勢神宮」から、現在も奉納される「熱田神宮」へと居を移すことになったのでした。

 

一方「神鏡(元本)」の方は、現代まで変わらずに「伊勢神宮」に伝えられていきました。

 

 

天智天皇の御世(668年)、熱田神宮から「神剣(元本)」が盗まれるという事件が発生(「草薙剣盗難事件」

 

犯人は新羅の僧侶・道行。しかし、本国に渡ろうとしたところ、海難にあって難破してしまい、しかも神剣が身から離れず祟ったため、自首。

 

「神剣(元本)」は無事に取り戻せたのですが、何故か熱田神宮には戻されず、宮中に置かれたみたい。

(一説には、摂津の港から出て海難に遭って戻され、その地の住吉大社に留め置かれた…とも)

 

18年後の朱鳥元年(686年)6月10日、天武天皇が重病となった際に占った所、「草薙剣の祟り」と出たので、「神剣(元本)」再び熱田神宮に「送り置」かれることに

 

こうして「神剣(元本)」は、現在まで「熱田神宮」に奉安されることになりました。

 

 

一方、「神鏡(形代)」「神剣(形代)」「神璽」は、宮中で「王権の証」として大事に奉安されていました。

794年、桓武天皇の平安京遷都により平安時代が始まると、「三種の神器」は京都宮中に移されます。

 

天徳4年(960年)、平安京遷都後初となる内裏火災で、内裏が焼失。この時、「神鏡(形代)」も大きく焼損してしまいました。

さらに天元3年(980年)にも内裏火災に遭い、「神鏡(形代)」は原形をとどめず、金属の玉になってしまった…とも。

一度は改鋳案が出たようなのですが、結局は焼き直しは行われずに、現代に伝わっている…と言われているようです。

 

 

平安時代の終わりを飾る「源平合戦」の時、「三種の神器」が安徳天皇とともに平家によって持ち出されたのは、冒頭で触れたとおり。

 

このおかげで、4歳であった後鳥羽天皇は、「三種の神器なし」での即位を余儀なくされました(寿永2年=1183年)。

 

「壇ノ浦の戦い」で紛失の危機に瀕した「三種の神器」は、「神鏡(形代)」「神璽」は箱に入っていたので、浮かび上がったところを義経たちによって無事に回収されました。しかし「神剣(形代)」二位尼(清盛の正室)が抱いて入水したために水没し、二度と取り返すことができませんでした。

(二位尼が安徳天皇を抱いて入水するのは『平家物語』の記述で、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鑑』では、二位尼は「神剣(形代)」を抱き、安徳天皇は按察局(あぜのつぼね)が抱えて飛び込んだと述べられています)

 

失われてしまった「神剣(形代)」

 

ところが、ちょうど平家が都落ちする直前、実は伊勢神宮から後白河院に宝剣が献上されていました。

そして、順徳天皇が即位する際、これを「新しい神剣(形代)」とすることになりました。

 

そういえば、「神剣(元本)」は最初、「熱田神宮」ではなく「伊勢神宮」にありました。

 

「伊勢神宮から献上された剣なら、新しい形代にできる」

「伊勢大神が壇ノ浦で沈むことを予知して遣わしてくださったに違いない」

と、されたんでしょうかね。

 

 

この後、「三種の神器」が宮中で平穏に伝えられていく中、王朝が分裂した南北朝時代になると、王権の正当性を巡って再び争奪の的になります。

 

「建武の親政」が失敗し、足利尊氏にも敗れて京を出奔した後醍醐天皇は、「三種の神器」を南朝の吉野に持ち出します。ところが、北朝は「持ち出されていない。ここにある」と主張。

 

京都にも、吉野にも、「三種の神器」がある?どういうこと?(笑)

 

しかし、北朝側だった足利尊氏と直義が兄弟喧嘩を始めた「観応の擾乱」になると、尊氏は「直義追討の綸旨を後醍醐帝から引き出す」ため、南朝と和議を結びます。

 

この時、和議の条件の1つとして出されたのが「北朝の三種の神器を南朝に差し出すこと」

 

この条件を容れ、尊氏は南朝に降伏。

崇光天皇と皇太子直仁親王は廃され、北朝の元号「観応」も南朝の元号「正平」に統一(1352年「正平一統」

この時、「三種の神器」は南朝に接収され、吉野に渡りました。

 

天皇家略系図 両統迭立・南北朝・後南朝

 

「正平一統」は結局、調子を取り戻した南朝と巻き返しに成功した尊氏によって破断。

尊氏は再び、北朝の再擁立を表明しますが、「三種の神器」は吉野に渡ったまま

 

神器なしの新天皇即位を躊躇する公家たちに対し、太閤・二条良基が「尊氏が神剣に、私が神璽となる。何の問題もない」と啖呵を切って、後光厳天皇を即位させています。

 

室町幕府3代将軍・足利義満の時代、南北朝はついに統一されることに(1392年「南北朝合一」

後亀山天皇(南朝)から後小松天皇(北朝)に「譲国の儀」が執り行われ、「三種の神器」は京都宮中に帰還を果たしました。

 

しかし、南北朝統一の約束事をことごとく履行しない北朝に対し、南朝は激怒。

京を抜け出して吉野に戻り、再び朝廷や幕府に対して反抗する態度を取ることになりました(1428年「後南朝」

 

そんな折、室町幕府は6代将軍・義教が赤松氏によって暗殺され(1441年)、7代将軍・義勝も赤痢で若死にしてしまい(1443年)、6年間も将軍がいない状態になっていました。

 

将軍空位を好機と見て、後南朝が動きます。

 

嘉吉3年9月23日(1443年)、後南朝の勢力が「三種の神器」を狙って宮中を襲撃。

「神鏡(形代)」は難を逃れましたが、「神剣(形代)」「神璽」奪い取られてしまいました「禁闕の変」

 

なんてったって日本の宝が奪い去られた事件。後南朝勢力は比叡山に立て籠もるのですが、室町幕府は威信をかけて軍を差し向けます。

戦いの末、「神剣(形代)」は取り戻せましたが、「神璽」は吉野に持ち去られてしまいます。

(一説には、火災で変わり果てた「神鏡(形代)」や、壇ノ浦に沈んだ後に新規指定された「神剣(形代)」よりも、傷もなく形代でもない「神璽」の方が重視されたのでは、とも言われます)

 

神璽を失ったまま15年が流れた長禄元年(1457年)。6代将軍・義教を手にかけたことで没落していた赤松氏が、再興を条件に「神璽」奪還のミッションを引き受けます。

 

麾下になるふりをして内部に潜り込むと、12月2日の深夜。大雪が降る中、南朝の行宮を襲撃。

自天王(後南朝の皇胤)と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討ち取ると、「神璽」を取って退却。

 

一度は、地元の郷民に取り返されてしまうのですが、二度目の襲撃で無事に奪還し、「神璽」は宮中へ帰還。赤松氏も再興を果たしたのでした。

 

 

明治3年、東京遷都に伴って「神鏡(形代)」「神剣(形代)」「神璽」は、東京の御所に移動

 

現在も「神鏡(形代)」「賢所」に、「神剣(形代)」「神璽」「剣璽の間」に奉安されています。

 

 

というわけで、「三種の神器」の行方を長々と紹介してみました。

 

だいぶ端折ったつもりですけど、さすが神代からの話だけあって長くなりますねー。

 

結局、「紛失したんだか、皇居にあるんだか、他の何処かにあるんだか、分かりづらい」というのは、「形代」という分身の存在があるからなのかもしれないですねー。