百首哥の中に忍恋を

玉の緒よ 絶えなば絶えね長らへば
しのぶることの弱りもぞする


式子内親王/新古今集 恋 1034

 

「私の命よ、絶えるのならば絶えてしまえ。命を長らえてしまえば、しのぶ恋を隠そうとする意思が弱ってしまうから」

 

 

京都にある「浄土宗」の総本山「知恩院」を、法然の弟子である「勢観房源智」が創建(再建)したことについて、深掘りしてみた前回からの続き。

 

MY「勢観房源智」人物考(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12819473780.html

 

源智が「百万遍知恩寺」を創建することになった、そのあたりの歴史を語ってみたいと思います。

 

 

「百万遍知恩寺」は、法然や源智の頃は「今出川釈迦堂」と呼ばれ、現在地とは異なり「紫野」と呼ばれる場所にありました。

 

しかし、室町3代将軍・足利義満の「相国寺」造営にあたり、移転させられてしまいます。

 

ということは、当時「知恩寺」があった場所は、現在の「相国寺」のあたり

 

なお、江戸時代になると、大火災に巻き込まれて全焼してしまったため、現在の「百万遍知恩寺」は、さらに移転した場所に建っています。

 

 

「今出川釈迦堂」は「下鴨神社」の神宮寺として建てられたもので、神社側からは「賀茂のかわら屋」と呼ばれていたそうです(かわら屋とは「瓦を葺いた建物=寺院」の意味…ただし、ちょっと蔑み気味を含む…言葉らしい)

 

法然は、下鴨神社の宮司が同じ漆間氏の出身だった関係で、ここでの法事によく招かれていたようで、やがて法然の拠点の1つになっていきます。

 

法然の没後、源智は「今出川釈迦堂」を「功徳院」と称して自分の住坊とし、ここを拠点にしたことから、源智の門弟は「紫野門徒」と呼ばれるようになります。

 

 

それにしても、源智が「紫野」の拠点を受け継いだ理由なんて、果たして明らかにできるのだろうか…というと、実は「その由来」が記された物語があったりします。

 

それは「知恩院」に代々伝わって来た『法然上人行状画図』というもので、せっかくなので重要箇所を引用してみます。

 

上人御入滅の後は賀茂のほとり さゝき野といふところにすみ給けり その由来は 上人の御病中にいつくよりともなく車をよする事ありけり 貴女くるまよりおりて上人に謁したまふ おりふし看病の僧衆 あるいはあからさまにたちいて あるいは休息しなとして たゝ勢観房一人障子のほかにてきゝ給けれは 女房のこゑにて いましはしとこそおもひたまふるに 御往生ちかつきて侍らんこそ無下に心ほそく侍れ さても念仏の法門なと 御のちにはたれにか申おかれ侍らむと申さるれは 上人こたへ給はく 源空か所存は選択集にのせ侍り これにたかはす申さむものぞ源空か義をつたえたるにて侍へきと云々 そのゝちしはし御ものかたりありてかへり給ふ その気色たゝひととおほえさりけり

さる程に僧衆なとかへりまいれりけれは 勢観房ありつるくるまのゆくゑおほつかなくおほえて をいつきてみいれんとし給ふに 河原へ車をやいりいたして きたをさしてゆくか かきけつやうにみえすなりにけり あやしき事かきりなし かへりて上人に 客人の貴女たれひとにか侍らんとたつね申されけれは あれこそ韋提希夫人よ 賀茂の辺におはしますなりと仰せられけり

(中略)

勢観房まのあたりこの不思議を感見せられけるゆへに 上人遷化の後は社壇ちかく居をしめて つねに参詣をなむせられける

 

勢観坊(源智)は法然没後、「ささき野(=紫野)」に住んでいたのですが、それには「とある貴婦人との出来事」があったと言います。

 

時は建暦元年(1221年)、法然が入滅する、ほんのちょっと前のこと。

病に伏せている法然のもとへ、車で乗り付けて貴婦人が訪れました。

 

折しも、他の弟子たちが留守にして、源智だけがそばに仕えていたタイミング。

障子の向こうからは2人の声が聞こえてきて、しばらく往生のことや昔話などを歓談を重ねている様子でした。

やがて、他の弟子たちが帰ってくると貴婦人は帰路の途につきました。

 

ふと思うところあって、源智が後を追いかけると、河原に降りたあたりで忽然と煙のように消え去り、姿を見失ってしまいます。

なんとも不思議なことだと驚き、「あの客人はどなたですか」と法然にお尋ねしてみると、

 

「あの御方は韋提希(いだいけ)夫人だよ。賀茂のあたりの貴人さ」とお答えになりました。

 

やがて法然が亡くなると、源智は貴婦人が見せた不思議な巡り合わせに導かれるように「賀茂」に住まい、「今出川釈迦堂」への参詣を欠かさなかったと言います。

 

…というようなお話。

 

「韋提希夫人」というのは、「浄土三部経(「浄土宗」が重んじる3つの経典)」の1つ『観無量寿経』(元になった仏話の)中に出てくる、慈愛と苦しみの中で釈迦から「浄土の法」を聞いたという王妃のこと。

 

「浄土宗」伝説の王妃が貴婦人の姿を借りて臨終間際の法然に会いに来た

この直後に亡くなる法然は、極楽浄土に至ったに違いない…と思わせる、美しい宗教色が香る物語。

 

そして、貴婦人との奇遇が巡り合わせとなって、源智は「賀茂(知恩寺)」に住むようになった…という経緯が語られているわけです。

 

 

ただ…この話、引っかかる部分がありません?

 

「あの貴婦人はどなたですか?」と源智に聞かれた時の、法然のあの返事。

 

「あれこそ韋提希夫人よ 賀茂の辺におはしますなり(あの御方は韋提希夫人だよ。賀茂のあたりの貴人さ)」

 

浄土宗伝説の王妃「韋提希夫人」は、本当ならば古代インド人。

それなのに「賀茂のあたりの貴人」と答えているって、一体どういうことなんだろうか?

 

 

「法然と賀茂」の繋がりに思いを巡らせた時、「今出川釈迦堂」のほかに、不思議な繋がりをもつ存在に気づかされます。

 

それが、冒頭に掲げた『百人一首』89番歌の詠み人、式子内親王(しきこ/のりこ/しょくし)。

 

後白河天皇の皇女にして女流歌人です。

 

実は、「式子内親王は法然に恋をしていた」と言われ、「法然も諭すように会うのを避けた(=恋していたかもしれない)」…というお話があるのです。

 

(ちなみに、法然は1133年生まれ、式子内親王は1149年生まれ)

 

 

式子内親王は、二条天皇の御世「賀茂斎院」として勤めに入っています(二条天皇は式子にとって6歳年上の異母兄)

 

時に平治元年(1159年)、10歳の時のこと(「平治の乱」の1ヶ月ほど前)

以降、嘉応元年(1169年)に病により19歳で退下するまで10年間、賀茂社に奉仕しています。

 

二条天皇~六条天皇~高倉天皇の3代の御世に渡って、賀茂で仕えたわけですねー。

(ちなみに、清盛が太政大臣となった1167年、父・後白河上皇の賀茂行幸もありました…どんな会話を交わしたんでしょうかね)

 

もちろん「斎王」でいる間は恋愛も結婚も禁止。

退下しても、原則として結婚は禁止されていました。

 

「賀茂斎院」が常住していた御所は、現在の「櫟谷七野神社」のあたりと言われ、当時は地名から「紫野斎院」と呼ばれていました。

 

「今出川釈迦堂」と同じ「紫野」のご近所に「斎院御所」はあったのですねー。

 

 

とはいえ、法然が比叡山を下りたのは承安5年(1175年)なので、彼が「今出川釈迦堂」に出入りしていた頃には、式子はとっくに斎院からは下がっていて「紫野」には不在でした。

 

式子は安住の地を中々得られない皇女様だった…というのは、以前にも紹介してみました。

 

場所だけ列挙してみても、「高倉三条第」→「萱御所(法住寺殿)」→「東八条殿」→「白河押小路殿」→「吉田経房邸」→「大炊御門殿」と、6か所も変わっています。

 

系図で見てみよう(後白河天皇御後)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12746774741.html

 

引っ越し歴の3番目、八条院暲子の「東三条殿」に居候していた時(1184~1190年頃)。法然が「東三条殿」に招かれて講義を行ったことが記録に残っており、おそらくは式子も出席しました。

 

「女性は成仏できない」と言われていた当時、「女性も阿弥陀仏が救って下さる」と確信していた法然の話は、式子も夢中になったと思われます。

 

文治6年(1190年)、呪詛事件に巻き込まれて転居せざるを得なくなった式子は、「白河押小路殿」に移ると、突如として出家。

 

この時、父である後白河法皇の「同意を得られなかった」と言われています。

 

ただ、なぜ出家を反対されたのかは不明。

 

そういえば、後白河法皇の母・待賢門院は、ライバルの美福門院を「呪詛」したという嫌疑を立てられて出家した経緯がありました。

そこから、自分の娘が自分の母と同じ人生を辿るのを見ていられなかったのではないか…という、待賢門院&後白河院好きとしては大変魅力的な解釈があるのですが、ここはぐっと堪えて(笑)呑み込んで。

 

後白河院は「密教」に帰依していて「園城寺」で出家した人物ですが、その「園城寺」が「異端」として反発していたのが「専修念仏」でした。

もしかしたら「式子は専修念仏の元での出家をしようとしていて、後白河院はそれを快く思わなかったのではないか」とも考えられます。

 

もしそうだとしたら、式子の出家の戒師を務めたのは、法然だったのでは…となっていきます。

 

なお、式子が出家した「白河押小路殿」は、現在の「寂光寺」の場所とされています。地図で見てみると、法然がいた「吉水草庵(吉水御坊=知恩院)」に結構近い場所にあります。だから何?ということもないんですが…。

 

 

そもそも、式子の同母弟・守覚法親王は、仁和寺第6世門跡(ちなみに仁和寺は真言宗)。出家するのであれば弟のもとで…となってもよさそうなのに、そうした形跡がありません。実際にはどうだったんだろう。

 

正治元年(1199年)頃になると、病が重くなって伏せ込むようになるのですが、貴族だったら病に伏せたときは病平癒の加持祈祷を行うのが通常なのに、式子はこれを行わなかったと言われています。

 

それは、藤原定家(百人一首の撰者)が日記『明月記』に「此御辺 本自 無御信受 惣無御祈」と記していることから判明していることで、一般的には「式子内親王は神仏にその身を委ねることが信条的に出来なかった」と解釈されているみたい。

 

ですが、定家も含め「当時の一般的な貴族」が「専修念仏の儀式は加持祈祷ではない」という価値観を持っていたとしたら、もしかしたら「浄土宗」的な仏事は行われていたのかもしれないね…とも取れそうです。

 

(なお、建久5年(1194年)には異母弟の道法法親王より「十八道(密教の基本的な修行)」を受けているので、「念仏に専念してこれまでの仏道は拒否」していたわけではなさそうです。念のため)

 

建仁元年1月25日(1201年)、重い病から快方されないまま、薨去。53歳。

 

 

と、式子内親王の生涯を手繰った所で、くるりと法然に話を戻して…。

 

法然は晩年、臨終間際になっていた「正如房」という人物に、「私が亡くなる前に会いに来てほしい」と頼まれています。

 

ただ、法然はやんわりと断ったようで、正如房の法然宛手紙は現存していないのですが、法然による返信の手紙が、写しとして現在も伝わっています。

 

題して「正如房へつかはす御文」

 

この「正如房」は「式子内親王」だったのではないか…とされる向きがあります。

 

式子が出家した際の法名「承如法」が「正如房」と訓みが同じ「しょうにょほう」。さらに「正如房」は尼女房を従えている様子が「御文」の中に見受けられることから、貴族女性であったと考えられ、「正如房=式子」という図式が成り立つわけ。

 

で、「御文」の内容ですが、かなり長文なので引用は遠慮して(笑)、要点だけかいつまんでみると(全文は、こちらのページをご案内→

 

「正如房」は周囲から「念仏では成仏できない」と言われて専修念仏への疑念を持ってしまったみたい。

だから会いに来て欲しいと願ったようなのですが、その返信は法然の「そんなことはない。何故ならば…」と、往生が正しい道であることを説く言葉で大半が占められています。

 

そして「会いに来て欲しい」を「やんわりと断った」の部分の表現が、読みようによっては意味深なんです。

 

「さうなくうけたまはり候ままに まゐり候て みまゐらせたく候へども(本当は、もう一度お目にかかりたいけれども)」

 

「かばねをしよするまどひにもなり候ぬべし(なまじ会ってしまうと、亡骸に執着する心の迷いになるかもしれない)」

 

「またおもひ候へば せむじては このよの見参はとてもかくても候なむ(よくよく考えてみれば、究極の話この世での対面はどうでもいいことなのです)」

 

「ただかまへて おなじ仏のくににまゐりあいひて はちすのうへにて このよのいぶせさをもはるけ ともに過去の因縁をもかたり(極楽浄土で再会しましょう。そして、蓮の上で語り合おうではありませんか)」

 

「本当は会いたい」

「亡骸に執着する心の迷い」

「極楽浄土で再会しましょう」

 

この表現から見える、愛おしくてたまらないと思う気持ちと、会ってはいけないという強い選択と、極楽浄土で会おうという優しい語り掛け。

 

まるで、恋人から会いたいとせがまれたのを、無理なんだよと諭すような断り方。

 

「式子内親王が法然に恋していて、法然も愛情のようなものは抱いていたかもしれない」とする噂は、こんなところにも火種を持っていたのですね。

 

 

「極楽浄土で再会しましょう」という、取りようによっては約束にも取れる言葉。

 

法然が亡くなったのは、式子没から20年後の建暦元年(1221年)。

奇しくも、おなじ1月25日のことでした。

 

その亡くなる数日前、突如として訪れた、「賀茂のあたりの貴人」という、あの貴婦人。

 

「韋提希夫人」というのは、法然が式子(正如房)につけた"ニックネーム"だったのでは…。

 

もしかしたら、「極楽浄土で再会しましょう」という約束を待ちきれず、会いに来てしまった…。その様子は「迎えに来た」と言ってもいいのかもしれない。

 

源智の「あの客人はどなたですか?」との問いに「賀茂の辺におはしますなり」という言葉が出てしまった経緯は、法然がそう思ったのではないかなという雰囲気が、ただよってくるような気がするのですが、どうでしょうかねー。

 

 

というわけで、「賀茂上人」と呼ばれるようになった源智が、そもそも「紫野」に住むようになった理由。

 

それは、法然と韋提希夫人=式子内親王を繋ぐ恋の糸らしきものが映し出した不思議な夢幻に導かれたためだった…というあたりを、ご紹介してみました。

 

 

本題は以上なのですが、何の根拠もない、独断と偏見の歴史妄想を付け加えると。

 

 

法然の「賀茂の辺におはしますなり」という思わせぶりな付け足し。

なんだか「勢観坊、そなた会ったことあるだろう、ほれあの御方だよ」と、思い出すことを促しているようにも見えてしまいません?

 

「あの御方…?あ…まさか…式子内親王さま!?」

源智はそこに気づいたからこそ「今出川釈迦堂」に住まうようになったのではないか、というわけ。

 

源智は、生前の式子内親王と会っていたことがあるのか…?

 

そこは全く分からないんですが、接点を頑張って見出すと、2つあります。

それは、先日紹介した、源智周辺の系図。

 

 

系図の中にある「吉田経房(よしだ つねふさ)」という人物。この人がキーパーソンになり得るのかもしれない。

 

永治2年(1142年)頃の生まれというので、平家滅亡時は40過ぎくらい。

 

源智の母は、葉室光親という後鳥羽院の院近臣と再婚した…というのは、前回紹介しました。

葉室光親の正室には、経房の孫娘(定経の娘)である経子が迎えられています(この女性が順徳天皇の乳母)

 

吉田経房は「源智の義父の舅の父」という関係になります。

 

そして、経房自身は「新大納言局」という女性を後妻に迎えています。

 

「新大納言局」は、元は平維盛の正室。そして「平家最後の生き残り」といわれる「六代(平高清。平家の礎を築いた平正盛から見て六代目なので、こう呼ばれます)」の母親でした。

 

「平家都落ち」には同行せずに都に残り、夫・維盛が源平合戦の合間に入水してしまったために未亡人となり、経房に迎えられたわけです。

 

ちなみに「新大納言局」は藤原成親の娘なので、こちらでも源智とは繋がっています(源智は成親の同母妹の孫)。

 

吉田経房というと、一般的には「初代・関東申次」として知られています。頼朝の絶大な信頼を得て、朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役に指名されていたのです(経房は若い頃、頼朝の同僚だったので、その縁ではないかと言われます)

 

その一方で、「新大納言局」を迎えていることからも分かるように、経房には「親平家」の気配が濃厚にあります

 

経房は若い頃に平清盛と知遇を得たことでメキメキと頭角を現した「平家政権」での有能官僚。高倉天皇の元で蔵人を務め、高倉院政でも官僚として重用されました。

 

その活躍ぶりは五位蔵人(上位秘書)・弁官(監察官)・検非違使佐(警察次官)を兼任して「三事兼帯」の「名誉」を達成している所からも伺えようというものです。

 

(ちなみに「新大納言局」は建春門院(高倉天皇の母)に仕えていたので、顔なじみだったかもしれず、だから後家に迎えた…のかなぁと、これはワタクシの想像)

 

「平家のおかげで、ここまで立身できた。平家には世話になった」

 

師盛の未亡人となった源智の母(秘妙)が、葉室光親の後妻に収まったことも、源智が慈円の元で僧になっていたことも、「親平家」だった経房は、知っていたような気がします。

 

そして、何かと危険が伴う平家の幼児たちを、陰ながら守っていたのではなかろうか…と思うのです。

 

 

まぁ、平家の子の面倒を見ていたというのは妄想ですけど(笑)、本当の話としては、経房は「式子内親王の後見人」とされていました。

 

建久3年(1192年)。後白河法皇が亡くなると、式子内親王が住んでいた「白河押小路殿」は姉の殷富門院の所有となり、別の「大炊御門殿」を相続したので、移り住むことになりました。

 

…のはずだったのですが、ここには九条兼実が住んでいました。

 

突然、内親王さまがやって来て、住んでいる屋敷の所有権を主張されたので、兼実もびっくり仰天(笑)

 

しかし、兼実はこれをスルー。1192年と言えば、兼実は「関白太政大臣」。無敵…とまでは行かなくても、父・後白河院を失って後ろ盾のない内親王なんて、簡単に無視できるほどの権力はあったわけです。

 

結局、式子が「大炊御門殿」に入れたのは、兼実が「建久七年の政変」(1196年)で失脚した後のことになりました。

 

この「大炊御門殿」に入れなかった1192年~1196年の4年間、式子は後見人だった「吉田経房の邸」に居候していました。

(ちなみに、源智が法然のもとに入門したのは建久6年(1195年)13歳の時)

 

吉田経房はいくつかの邸宅を持っていたのですが、そのうちの「吉田南亭」を豪華に改装して、ここに住まわせたとされています。

 

経房は正治2年(1200年)に薨去するのですが、他の邸宅は相続されているのに、「吉田南亭」だけは相続されている「記録」がないそうです。

 

これは何故かというと、この「南亭」が「浄蓮華院」に改装されていて、寺院だから「相続」の記録の対象にならなかったのではないか…と考えられています。

 

「浄蓮華院」は、現在の「芝蘭会館別館」のあたりにあったと治定されています。

 

 

場所的には、現在の「百万遍知恩院」に割りと近め。「吉水草庵」からはちと遠い…かな。

 

そして、吉田家(甘露寺家・勧修寺家・万里小路家)の菩提寺「浄蓮華院」は「浄土宗」の寺院だったそうです。

 

いつから「浄土宗」の寺院となったのかは分からないのですが、経房の生前からの縁で…とするなら、式子内親王が居候していた時代に、法然が招かれた可能性もあります。

 

もしかしたら、そこには源智も一緒に…という可能性だって、あるのではなかろうか。

 

あるいは、経房にとっては再従兄弟の子にあたる「信空」(前々回紹介した「金戒光明寺」の二世)は、法然の一番弟子とも言われる、法然教団にとっての高弟。彼が招かれた時に一緒に行った可能性も、あるのかもしれません。

 

とまぁ、「かもしれない」の積み重ねで、可能性としては「ほぼない」と思うのですが(笑)、そんな妄想もできなくはないですよ…ということで。

 

(初期に源智の教育を受け持った法然の愛弟子・真観房感西は日野家の出身で、こっち方面でも頑張れば「式子内親王」に繋げられそうなんですが、まぁ無理に無理を重ねるのもアレなので割愛しますw)

 

 

 

以下、余談。


 

 

余談、その1。

 

源智が受け継いだ「今出川釈迦堂」は、「功徳院」と名称を変更しています。

 

「今出川釈迦堂」、法然が拠点とする前は、実は法然の師匠である「皇円(こうえん)」の里坊でした。

 

当時の名前が「功徳院」。皇円は「比叡山東塔功徳院」の僧侶だったので、その名前で呼ばれていた…と考えられます(なお、皇円は来年の大河ドラマ『光る君へ』にも登場が予定されている、道長の兄にあたる道兼の子孫です)

 

ただ、法然にとって皇円は「その門下を辞した師匠」なんですよね…。

 

皇円は法然を「指導者にしよう」と思っていたのを、法然が「私は求道者になりたいので」と断った…のような話を何かで読んだような気が(うろおぼえ)

 

法然の法名「源空」は、前回紹介したように師匠の「源光」と「叡空」から1字ずつもらった名乗りですが、見事に「皇円」はスルーされています。

 

だから、法然が「今出川釈迦堂」を継いだのは、皇円との縁と言うよりは、何度か触れているように「漆間氏」という血縁が結んだ縁だとワタクシは思っています。

 

しかし、源智は「功徳院」という名前を継いでいます。

これは、どうしてなんだろう?皇円と源智との間には、何か関係があるのだろうか?

 

それは…今後の宿題にしておこうかと思います(見つけられませんでしたw)

 

 

余談、その2。

 

式子内親王が相続し、それにも拘わらず九条兼実が退去を拒否して入れなかった「大炊御門殿」は、現在の「京都御所」の近くにありました。

 

 

大炊御門大路と万里小路が交わる一画。大内裏へ出仕するにも便利が良さそうで、兼実も居座るわけですw

兼実は退去後、法性寺に居を移したと思われ、そうすると現在の東福寺の辺り…ここではやっぱり御所からは遠いですもんね…

 

(なお、当時の「大内裏」は現在の「京都御所」とは違う場所にあります…と念のため追記)

 

この「大炊御門殿」が「式子内親王終焉の地」となったわけですが、こうして地図で見ると「知恩院」からも然程遠くなく、もしも「正如房」が本当に式子だったとしたら、ぜんぜん会いに行けない距離ではなさそう。

 

だとしたら、法然はやっぱり、自らの強い意思で会いに行かない選択をしたんでしょうかね…。

 

しかし、持戒堅固だった法然に女性の影が見えるというのは、花が添えられる感じがしていいかんじですw

 

それにしても、源智の母・秘妙をはじめ、親鸞の妻・恵信尼や一遍の妻・超一らと、「浄土宗」の物語には女性の支えの大きさが所々に見受けられますなー。

(そういうところもまた好きなんですけどね)

 

 

余談、その3。

 

『正如房へつかはす御文』は「写本だけが残っている」と紹介しましたが、その写本を書いた人物は、法然の弟子の1人で「浄土真宗」を開いた親鸞でした。

 

「承元の法難」で越後に流され、帰京を果たした後のこと。

最晩年を迎えた親鸞自らが、法然の法語や遺誡、問答、書簡をまとめて編纂した『西方指南抄』に採られています。

 

ところで、時系列を整理してみると、親鸞が法然に入門したのは、式子内親王とすれ違うかのような経緯を辿っています。

 

比叡山を下りた親鸞は、建仁元年(1201年)1月10日。聖徳太子ゆかりの京都「六角堂」で「百日参籠」を開始。

 

おそらくこの頃「正如房へつかはす御文」が書かれました。

そして、1月25日。式子内親王が53歳で薨去。

 

3月14日。聖覚から噂を聞いた親鸞は「吉水草庵」を訪ねて法然に面会。

4月5日。参籠95日目の夜更、親鸞は救世観音から「女犯偈」の夢告を授けられます。

 

4月26日。式子内親王の四十九日法要。

この頃に、親鸞の「百日参籠」が結願。法然の門下に入門。

 

式子内親王が去って、親鸞が現れる

 

ともに浄土の教えに熱心な態度を見せる優秀な念仏者。

法然から見ても、入れ替わりのようにも感じられたのではなかろうか。

 

『西方指南抄』が著されたのは、康元年間(1256年~1257年)とされています。

式子内親王の他界、自身の入門があった建仁元年(1201年)から半世紀も経った頃のことでした。

 

55年前の自分が入門する前に、師匠が女性に宛てた優しい手紙に、84歳の親鸞は何を思ったのでしょうかね…。

 

 

ちなみに、親鸞は晩年、浄土宗の教えを広く一般の庶民たちにも広めたいと考え、多くの「和讃」を遺しています。

 

和讃というのは、経論釈の難解な教理を和語をもって分かりやすい言葉に直し、諷誦するようにされた歌。要するに「今様」です。

 

今様と言えば、「梁塵秘抄」を編纂し、自身も狂ったように今様に熱狂した後白河法皇が真っ先に思い浮かびますが、式子内親王は、後白河院の娘でした。

 

親鸞と式子内親王…。

何やらここにも、深い深い絆が結ばれているようなかんじがしますなぁ。