大河ドラマ『光る君へ』では、女友達"さわ"が亡くなりました。

 


さわ@野村麻純さん
224年大河ドラマ『光る君へ』より

 

さわは放送前から配役が発表されていて、ワタクシその時から注目していたので、ここで退場というのは歴史のこととはいえ残念無念。


なぜに注目していたのか…というと「さわ=筑紫の君」かな?と予想していたからでした。

 

「筑紫の君」というのは、紫式部が若い頃に「姉」と呼び親交があったという女性。

 

母は藤原雅正の娘で、紫式部の父・為時の妹…ということは、紫式部と筑紫の君は従姉妹同士という間柄の幼馴染でした。

 

父はというと、桓武平氏・平維将(ちなみに、維将は鎌倉北条氏の祖…という説があります)

 

系図で見てみよう(桓武平氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11233864292.html

 

伯父(維将の兄)の維衡は「道長四天王」の1人に数えられています(維衡は「平家」の祖先)

 

道長四天王「藤原保昌」のウラ事情(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12842359746.html

 

維将は正暦5年(994年)盗賊捜索の功を立て、翌年の長徳元年(995年)「肥前守」に任ぜられました。娘の「筑紫の君」は父に従って任地に赴き、紫式部とは永遠の別れとなってしまいました。

 

長徳2年(996年)、『光る君へ』でご存知のように、今度は紫式部が父とともに越前へ下向することが決定。

 

やがて「筑紫の君」は肥前で亡くなり、その知らせを紫式部は越前で受け取った…とされます。

 

というわけで、「越前編」のうちに訃報が届いたことで、「さわ=筑紫の君」の予想は見事に当たりが決定しましたー。

 

嬉しいような、寂しいような…。

 

フクザツなんだわね。

 

 

しかし一方で、予想が外れたことといえば「紫式部」と「筑紫の君」の贈答歌が、ほとんど描写されなかったこと…。

 

紫式部には『紫式部集』という自選和歌集がありまして。

 

ここには、他の女流歌人にはあまり見られない、女友達との交流を思わせる和歌が、数多く収められていることで知られています。

 

男女の恋や結婚が、まだ現実の自分のものと感じる前の、みずみずしい友情の和歌群。

 

その中でも、格別の想いが込められていると思われる友が「筑紫の君」。


そのモデル…ということもあって、2人の贈答歌のやり取りは丁寧に描かれるんじゃないかな…と思っていたのですが、「ほぼなし」という…ナンテコッタ。

 

 

そこで、いつものアレ。

 

「大河でやらないんなら、うちのブログでやる」

 

というわけで、今回は『紫式部集』から「筑紫の君」関連のものをピックアップして、ご紹介して見たいと思います。

 

ついでなので、「筑紫の君」とは比定されていないけれど(むしろそうでない可能性があるけど)、関係はあるかもしれないという和歌も、併せて取りあげていきたいと思います。

 

需要があるのかは分かりませんけれど…(そもそも、この話題自体が需要があるのかどうかw)

 

 


 

 

はやうより童友だちなりし人に
年ごろ経て行きあひたるが
ほのかにて 七月十日のほど
月にきほひて帰りにければ

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲隠れにし 夜半の月影


紫式部/紫式部集 1

 

幼馴染だった人に数年ぶりに会ったのだけれど、その友かどうかはっきりと分からなかった…ときは初秋七月十日のころ。沈む月と競うように慌ただしく帰ってしまったので「めぐり逢って、懐かしい友かどうか見定めることも覚束ないほどの短い時間で、雲に隠れてしまった夜半の月。その月明かりに照らされた友も、逢っていたことさえも、なんとおぼろげなことだろうか」

 

 

その人 遠き所へいくなりけり
秋の果つる日来たるあかつき
虫の声あはれなり

鳴きよわる まがきの虫も とめがたき
秋のわかれや悲しかるらむ


紫式部/紫式部集 2

 

その人は再び遠いところへ行くことになり、秋の最後の日にやってきて、一晩中語り明かした暁、虫の声は感慨深げに聞こえてくる「弱々しく鳴く籬(まがき=垣根)の虫たちも、私があなたを引き留めることができないように、過ぎゆく秋の別れが悲しいのでしょうね」

 

 

『紫式部集』の冒頭2首。

 

1番歌は『百人一首』の57番、紫式部の和歌としても有名ですねw

(『百人一首』の方は、5句目が「月影→月かな」になっていますが)

 

初秋の7月10日、父の帰国に従って帰京を果たした幼馴染を見かけるも、あまりに早く立ち去ってしまったので、あれは本当だったのか?まぼろしを見たのかな?という気分になって詠んだもの。

 

「月と争うようにして慌ただしく帰った」ということは、偶然出会ったか、偶然見かけたか…というあたりかもしれないですねー。

 

2番歌は、秋の終わりの日(立冬の前日=9月中旬~10月中旬)、その友が父に従って、また都を離れることになった…と始まります。

 

そこで、冬が近づく中、一晩中語り明かして、弱々しくなっている虫の音を聞いて詠んだもの。

 

「その人」で繋げて並んで収録されているので、この「7月10日」と「秋の終わりの日」は、同じ年のことと考えられているみたい。

 

初秋に帰京して、秋の終わりの日にまた次の任地へ…お忙しいことですな。

そのお父さん、10年閑職に泣いた為時より羽振りがよさそうです(笑)

 

問題は、この「秋」は、いつの年のことか…?ということ。

 

それが分からないのは、詞書が「その人 遠き所へいくなりけり」と、人となりも行き先もぼかしてくれているから。

 

人物や場所が特定できたら、年もおのずと分かろうというものなんですが…。

 

ただ、後述する「筑紫の君」関連の15番(見送る歌)、39番(挽歌)の詞書にも「遠き所」が使われているので、「遠き所へいく人=筑紫の君」ではないか…という推測もあるみたい。

 

もしそうだとするなら、この秋は長徳元年(995年)のことになるのですが、そうすると、これを詠んだ時の紫式部は二十代後半。

 

「1番と2番は、もっと娘だった頃の作じゃない?」という気分になってきます。

 

そこで、家集を読み進めてみると、この歌群の次に続く3番歌が、宣孝と死別した後の心境、4番歌と5番歌が、宣孝と交際を始めたばかりの頃を詠んでいるとされる和歌が続きます。

 

宣孝は正暦元年(990年)8月、「筑前守」として筑紫へ赴任しています。

 

この3つの和歌を持ってくることで、宣孝の別れと幼友達の別れ、同じ「筑紫」という共通点を重ねて冒頭に持って来ることで、「歌集」の中に「物語」をスタートしているのでは…という推定がなされます。

 

そこで、この和歌群は正暦元年(990年)よりちょい前くらいの作ではないか…という推論が成り立ちます(ということにして、話を先に進めます・笑)

 

正暦元年(990年)に地方へ旅立った、紫式部の身近にいそうな人と言えば…?

 

紫式部が若い頃に女房として出仕していたと思われる具平親王周辺とか、父・為時の姉妹の夫の縁戚とかに、何人かを見出せるそうなのですが、どのみち「筑紫の君」ではないので、ここでは割愛…確実性も、あまり高くなさそうですしね(笑)

 

というわけで、この2首の相手の「童友」は謎のまま…ということで、次に行きます。

 

 


 

 

筑紫へゆく人のむすめの

西の海を 思ひやりつつ月見れば
ただに泣かるる ころにもあるかな


筑紫の君/紫式部集 6

 

筑紫へ国司として下向する人の娘が送ってくれた和歌「筑紫へ向かって渡る西の海に思いを巡らせながら月を見ていると、わけもなく泣けてくるこの頃です」

 

返し

西へゆく 月のたよりに たまづさの
かき絶えめやは 雲の通ひ路


紫式部/紫式部集 7

 

返歌「西へ行く月に託して往来する私たちの手紙(たまづさ=玉章=手紙)が絶えることなんてありましょうか。そんなことはあり得ない、雲の通い路ですよ」

 

 

「筑紫の君」との贈答歌群。

 

筑紫(肥後)に赴任する父に従って都を離れることになった「筑紫の君」が、これから向かう「西の海」に思いを馳せて紫式部へ送った和歌と、その返歌。

 

「月」は、そのまま使われると「秋の月」を表すので、後述の「筑紫の君と紫式部は、ほぼ同時期に任地へ下向している」と重なり合わせてみると、紫式部が越前へ旅立つ前年の長徳元年(995年)の秋に詠まれたものになりそうです。

 

そこで、この時期に筑紫へ下向した者を探すと、『権記』長徳元年10月18日条に「肥前守維将ナリ」とあることから、「筑紫の君」の父は「平維将」ではないか…とされる、推定の根拠にもなっています。

 

父の下向に従って都を離れることの不安、紫式部と別れることの寂しさに、わけもなく泣けてくる…という「筑紫の君」。

 

これに対し「手紙が絶えることはないから、泣かないで」という返事を送っていることになりますね。

 

 


 

 

はるかなるところへ 行きやせむ行かずやと
思ひわづらふ人の 山里より
紅葉を折りておこせたる

露深く おく山里の もみぢ葉に
通へる袖の色を見せばや


思ひわづらふ人/紫式部集 8

 

はるかに遠い身内の任国へ行こうか行くまいか思い悩んでいる人が、山里より紅葉を折って手紙に付けて送ってきた「奥の山里に落ちる露でしっとり濡れている紅葉の葉のように、嘆きの涙でしっとり染まっている私の袖の色をあなたにお見せしたいものです」

 

返し

嵐吹く 遠山里の もみぢ葉は
露もとまらむ ことのかたさよ


紫式部/紫式部集 9

 

返歌「嵐が吹いている遠い山里の紅葉には(あなたが身内と一緒に遠い所へ行ってしまうように)露は少しの間もとどまっていることはできないでしょう」

 

又 その人の

もみぢ葉を さそふ嵐は はやけれど
この下ならで ゆく心かは


思ひわづらふ人/紫式部集 10

 

また、その人の返事「もみじの葉を散らそうとする嵐の力は強いけれど(私を連れて行こうとする人の気持ちは固いけれど)、木の下でなくてどこへ散っていくことがありましょうか(あなたのいるこの都でなくては、どこにも行きません)」

 

 

いわゆる「思ひわづらふ人(思い悩む人)」との贈答歌群その1。


「山里(山荘?)から紅葉を手紙に添付して送って来た」とあることから、この和歌が詠まれたのは秋。


さらに、返しの返し(3首目)で「あなたのいる都でなくては、どこにも行きません」と言っているので、まだ都を離れていない時に(嵐山の別荘で?)詠んでいることになります。

 

 

「思ひわづらふ人」とは誰か?には、「筑紫の君」と同一人物という説もあるみたい。

 

ただし、先ほどの6番「西の海を~」は、「もう行くと決めた西の海に思いを馳せている」ので、もしも同一人物とするなら、悩んで紅葉を詠んでいるこの歌群とは順番が逆では…?となってしまいます。

 

もっとも、3番が「宣孝が亡くなった直後」、4・5番が「宣孝の交際期」に詠まれたものと推察されていることからも分かる通り、この家集の歌の順番は「時系列」ではなく「何かのコンセプトのもと」並び替えられているので、順番が逆になっているのは、事実の否定と言うよりも、コンセプトの洗い出しの材料にしかなり得ません。

 

もしも「紅葉の葉」の「思ひわづらふ人」が「筑紫の君」だとするなら、先に「こういうことになったのですけど」を見せてから、「それには、こういうことがありましてね」という過去を語っていく…という手法が採られていることになります。

 

結果を見せてから経緯を語る、こうして背景世界への関心を広げていく、まさしく物語の手法。

 

『紫式部集』は和歌集のようでいて、『源氏物語』の源流のようなものが、そんな側面にも表れているのでしょうかねw

 

 

ただし……「筑紫の君」が父・維将の任官の話を知るのは、先述した通り長徳元年10月18日(995年)以降。

 

新暦に計算し直してみると、11月13日。

 

肥後へ行く話を聞いてから、思い悩んで山荘に行って、この和歌を詠む…紅葉は散らずに残っていたのでしょうか(汗)という疑問は、残るのかもしれない…?

 

 

ちなみに、「思ひわづらふ(思い悩む)」は、一般的には男女の恋の悩みのことを表すのですが、ここでは「身内が遠くの任地へ旅立つのに同行するかどうか」で悩んでいます。

 

まぁ、夫婦仲で思い悩んでいるとしたら、両方の意味を持つことにもなるんですけども…「筑紫の君」が既婚だったら、父にはついて行かない(夫について行く)でしょうしねぇ…(うーむ)

 

 


 

 

物思ひわづらふ人の うれへたる返りごとに 霜月ばかり

霜氷 閉ぢたるころの水くきは
えもかきやらぬ ここちのみして


紫式部/紫式部集 11

 

もの思いに悩まされている人が悩み事を打ち明けてきた、その返事。11月ごろのこと「凍結した霜が中々掻くことができないように、あなたの悩みを掻き消すような返事を書くことは中々できないな…という気がします」

 

返し

ゆかずとも なほかきつめよ霜氷
水の上にて思ひ流さむ


思ひわづらふ人/紫式部集 12

 

返歌「筆が進まなくても、霜氷をかき集めるが如くお便りが欲しいです。私の悩みも霜氷が解けた水で流し去ってしまいます」

 

 

「思ひわづらふ人(思い悩む人)」との贈答歌群その2。

 

「水くき」というのは、「筆跡」あるいは「消息文(手紙)」のことを表しているそう。

 

筆は、先端が(墨で)濡れているので「みずみずしい茎」ということなんでしょうか…?

 

この頃、お手紙は「梓(あずさ)」の枝につけられて送る習慣があったそうで、梓の実は「瑞々しい」ので、そこから「梓の枝=みずみずしい枝=水くき」となったという説も、あるとかなんとか。

 

なお「手紙」の異称「たまずさ(玉梓・玉章)」は「あずさ」由来だったりするようです。7番歌の「西へゆく 月のたよりに たまづさの~」の「たまづさ」ですねー。

 

ともあれ、この和歌は「霜が凍り付いて、どこかに生えている水草か何かの茎が引き抜けない」みたいな意味なのかな…と思ったのですが、そうではなさそう…??

 

紫式部の元歌は「あなたの悩みを掻き消すような返事を書くことは中々できないな…という気がします」と言っているので、相談する(愚痴る?)ばかりで中々解決しない「思ひわづらふ人」に呆れ返ったのかな…といったご様子。

 

これに対するの返しが「そんなこと言わないでお手紙ちょうだい。あなたと語ることが悩みが消える一番の手なんですから」とあるので、悩み相談廃解決策が欲しいのではなく話を聞いて欲しいと言うところにあった模様。

 

男脳と女脳が流行った時代に度々言われた「話を聞いて欲しい女」と「解決策が欲しい男」のアレですかねw

 

ということは紫式部は男脳に近いの…か?

 

 

こちらの「思ひわづらふ人」も「筑紫の君」と同一人物ではないか…という説があります。

 

「紅葉の葉」の「思ひわづらふ人」が「=筑紫の君」であるなら、「霜月ばかり」の「思ひわづらふ人」も「=筑紫の君」ではなかろうか…ということですね。

 

「霜月ばかり」というので、季節はもう11月。

冬になってもまだ思い悩んでいる「筑紫の君」です(笑)

 

しかし、6番歌の「西の海を~」で見た通り、「筑紫の君」は秋のうちに「ついて行く決意」をしています。

 

とすると、霜月になっても悩んでいる「思ひわずらふ人」は「=筑紫の君」とはなりにくいような…?

 

まぁ、「下向に同行するかどうか」とは違う悩み(それこそ、本来の「男女の悩み」とか)の可能性もあるので、なんとも言えない部分があるのですが、もう1つ。

 

ここには「紫式部の仕掛けがあるのではないか」という見方があります

 

何度か言っている通り、『紫式部集』は単純な「時系列」で並んでおらず、何らかの「コンセプトをもとに、配置を意図的に決めている」フシがあります。

 

つまり、大事なのは「誰と交わしたか」よりも「何故その配置にしたのか」というところにある…ということ。

 

「思ひわずらふ人の歌群その1(8・9・10番歌)」 と「思ひわづらふ人の歌群その2(11・12番歌)」は、「筑紫へゆくむすめの歌群(6・7)」と「西の海の人の歌群(15・16・17番歌)」の間に配置されています。

 

(ちなみに13・14番歌は、越前下向前に上賀茂神社へ詣でた際に詠んだらしきもの)

 

この配置から考えさせられるのは、「悩んだ末に遠く離れ離れになった友との物語」を紡ぐために、1本の糸になりそうな歌群を繋いで配置しているということ。

 

なので、もしかしたら「思ひわづらふ人(霜氷の人)」は「筑紫の君」ではないかもしれない。

 

でも、念頭にあるのは「筑紫の君」のことで、だから紫式部はこの配置にしている…と考えられるわけです。

 

そのための仕掛けが、「思ひわづらふ人」という曖昧な名称に、あるのかもしれません。

 

「わたし、筑紫へ行った人なんて一言も書いてませんよ。もちろん、そうではないとも書いてませんけどねw」

 

扇の向こうで意地悪そうに微笑む、文学者としての紫式部の悪い顔が見えてくるような気がしてしまいますなw

 

 

そして、これを「筑紫の君」に仮託しているとするなら、紫式部の想いとは一体…?

 

 


 

 

姉なりし人亡くなり
また 人の おととうしなひたるが
かたみにゆきあひて 亡きがかはりに
思ひかはさんといひけり
文の上に姉君と書き 中の君と書きかよはしけるが
おのがしし遠きところへゆき別るるに
よそながら別れ惜しみて

北へ行く 雁のつばさに ことづてよ
雲のうはがき かきたえずして


紫式部/紫式部集 15

 

姉が亡くなった時、妹を失った人がいて、互いに訪ね合う仲になって、互いに「姉君」「中の君(妹君)」と呼び合って文通していたのだが、それぞれが遠い所へ行くことになって、別れを惜しんで「北へ向かう雁のつばさに託して、手紙(うはがき)をくださいね。私の名がかき消えないように、雁が雲を掻くように、書き絶やすことなく」

 

返しは 西の海の人なり

行きめぐり 誰も都に かへる山
いつはたと聞く程のはるけさ


津の国といふところより おこせたりける

筑紫の君/紫式部集 16

 

「西の海の人」からの返歌「月日が巡れば、いつかは誰もが帰るというけれど、「いつ?はたして?」と聞きたくなるくらい、はるか遠い先のことに思われます」

 

難波潟 群れたる鳥の もろともに
たちゐるものと思はましかば


返し

紫式部/紫式部集 17

 

「難波潟で群れている鳥たちのように、一緒に暮らしていられるものと信じていたいのに、それができないのが悲しい」その返事。

 

 

こちらは明確に「筑紫の君」と紫式部の贈答歌。

 

『光る君へ』では全く触れられず、登場もしていませんでしたが、紫式部にはお姉さん(おそらく同母姉)がおりました。

 

しかし、若くして死別してしまい、ちょうど「筑紫の君」も同じ頃に妹を亡くしたので、お互いに亡き姉妹の代わりに「姉君」「中の君(妹)」と呼び合う仲になりました(さわ は まひろを「姉」扱いしてましたけど…)

 

…という「筑紫の君」の重要な背景を、15番歌になってようやく明かしています。

 

「筑紫の君」を「西の海の人」と呼んでいるのは、6番歌「西の海を~」の初句から来ているんですかね。

 

「筑紫の君」が返歌に用いている「いつはた」「かへる山」は、紫式部が赴いた「越前」にある歌枕。

 

どちらも『枕草子』の類聚的章段「山は」で取りあげられていたりします。

 

山は小倉山 鹿背山かせやま 三笠山 このくれ山 いりたちの山 忘れずの山 末の松山 かたさり山こそ いかならむとをかしけれ 五幡山いつはたやま かへる山 後瀬のちせの山 朝倉山 よそに見るぞをかしき おほひれ山もをかし 臨時の祭の舞人などの思ひ出でらるるなるべし 三輪の山 をかし 手向山たむけやま 待兼山まちかねやま 玉坂山 耳成山

 

「五幡山→鹿蒜山→後瀬山→朝倉山」と、越前から京へ向かうと現れる順番らしいです。

 

「いつ?はたして?」という期待・不安から「かへる」を通って「後の逢瀬」となり、「朝」を迎える…というような流れが見えてきますかね。

 

ちなみに「筑紫の君」が和歌を送って来たという「津の国」は「摂津国」のこと。

 

紫式部が返歌で詠んでいる「難波潟」は「大阪湾の入り口=摂津」なので、これを踏まえて選んでいることになりそう。教養棒の殴り合いですね(笑)


京から筑紫へ向かったわりに、あんまり都を離れていない…ということから、紫式部の下向と「筑紫の君」の旅立ちは、ほぼ同じと時期推定される材料にもなっています。

 

 


 

 

筑紫に 肥前といふところより 文おこせたるを
いとはるかなるところにて見けり その返ごとに

あひ見むと 思ふ心は松浦なる
鏡の神や 空に見るらむ


紫式部/紫式部集 18

 

筑紫の肥前というところから手紙を送ってくれたのを、とても遠い所で読んだ。その返事に「あなたに会いたいと私が思い望む気持ちは、筑紫の松浦にご鎮座されている鏡明神さまも、きっと空からご覧になっていることでしょう」

 

返し 又の年もてきたり

行きめぐり あふを松浦の鏡には
誰をかけつつ祈るとか知る


筑紫の君/紫式部集 19

 

返事は翌年に頂いた「月日が巡れば再び会えますようにと、鏡明神に祈っております。これは誰のことを願かけしているか、ご存知でございますよね」

 

 

『光る君へ』で、さわの辞世の句のように使った和歌。

 

「筑紫に肥前といふところより」という、なんとも言えない言い回しはどんな想いを秘めているのか…?

 

ちなみに「鏡明神」は、現在の佐賀県にある神社。

 

祭神は神功皇后。女神の神功皇后に向けて「友達にあわせてください」と互いに祈り合った…という和歌になるわけで、それを辞世の句に持ってくるのは、しみじみとした情緒がありましたなー。

 

 

「鏡明神」という響きにも、鏡の向こう側に、ホログラムのように相手が見える…という想像までできてしまいそうですなw

 

 

というわけで、今回は以上。

 

「筑紫の君」の和歌3つと、もしかしたら「筑紫の君」かもしれない(あるいは、紫式部の中では「筑紫の君」その人となっている)「思ひわづらふ人」の和歌群を、ご紹介してみました。

 

 

最後に、「筑紫の君」の訃報を知って、紫式部が詠んだ挽歌を取りあげます。

 

 


 

 

遠き所へ行きにし人の亡くなりにけるを
親はらからなど帰り来て
悲しきこと言ひたるに

いづ方の 雲路と聞かば尋ねまし
つら離れけむ 雁がゆくへを


紫式部/紫式部集 39

 

遠い所に行った人が亡くなったと聞いて「どちらの雲路を進んでますかと聞くことができたなら、訪ねて行きたいものです。親しい人々から離れて、飛び立ってしまった雁のようなあの友の行方を」

 

 

列を作って飛ぶ雁の群れ。そこから1羽だけ離れて、飛んで行って、雲の通い路を通り抜けて、あの世に行ってしまった…。

 

その雲路を行ったのか分かれば、また訪ねて行けるのにな…という悲しみが込められた和歌というかんじがしますね。

 

『光る君へ』では詠んでくれなかった…残念。

 

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html