『光る君へ』では、藤原為時が越前守として任地へ下向。

 

まひろも旅を供にし、越前へと旅立ちました。

 

 

2024年も半分となる6月に暦が変わり、ここから「越前編」のスタートとなるわけですね。

 

もっとも、紫式部は父の任期「4年」を待たず、1年半ほどで単身帰京してしまっているそうなので、何話くらいを「越前編」として割くことになるのか…は、短くなりそう…かな?

 

大河ドラマにとって鬼門(視聴率がガタ落ちになる)とされる7月中には、すでに「京都アゲイン編」になっているような気がしますな。

 

 

さて。このあたりの時代、ワタクシは「中関白家-定子-清少納言」の『枕草子』グループの方で関心を寄せていたので、紫式部については、ひと通りくらいしか存じません。

 

なので、「越前への旅路」を大河ドラマでどのように描いてくれるのか、楽しみにしていたんです。それこそ、予習までして(笑)

 

……だったのですが……フタを開けてみたら、あっという間に敦賀に到着。

 

え、まじで?いいんですかそれで?(汗)

 

紫式部が残した自薦の和歌集『紫式部集』によると、越前への旅路の中、いくつか和歌を詠んで記録しています。

 

紫式部大河だったら、そこは深く掘り出していきたい所ではないの…?

 

これまで散々、まひろには和歌や漢詩を詠ませてきているのに、紫式部自身が詠んだとされる和歌は全く詠ませない…?

 

こいつは驚きだ…!?

全くもって予想外でした(^^;

 

 

というわけで、最近どうも定着しつつあるいつものパターン。

 

「大河でやらないんなら、うちのブログでやる」を今回も。

 

紫式部が辿った越前への旅路の紹介、その時に詠んだ和歌の鑑賞と、しゃれこんでみたいと思います。

 

…せっかく予習したのに、ここで昇華させないともったいないじゃん、ねぇ。

 

(感想本文でやりたかったですよ、NHKさん…!)

 

 

紫式部が父に同行して越前へ旅立ったのは、長徳2年(996年)のこと。

 

都では、伊周と隆家が流罪となり、定子が出家して「中関白家」の没落が決定的となった、「長徳の変」が起きた直後のことになります。

 

京都からは「逢坂の関」を越え、「打出浜」から漕ぎ出でて船路へ。

 

このあたりは、以前に「石山寺詣」をやった時(第15話「おごれる者たち」)と同じルートになりそうですかねー。

 

(というか、「石山寺詣」は「越前下向」時に「何か」あると思っていたのに、思い出すことさえなかったですな…。『源氏物語』にしか懸かってないのかな)

 

 

 

越前へ向かう時の「往路」は、琵琶湖の湖西を北上したのだろうと予想されています。

 

というのも、西湖岸にある「三尾崎」で詠んだ和歌が、往路の和歌として収められているからです。

 

近江の海にて三尾が崎といふ所に網引くを見て

三尾の海に 網引く民の てまもなく
立ちゐにつけて都恋しも


紫式部/紫式部集 20

 

三尾崎で忙しなく網を引いている漁民たちを見ていると、もう都ではないのだと思い知り、都が恋しくなる…みたいな意味。

 

もうホームシックにかかっています(早っw)

 

この和歌は白鬚神社の境内で「歌碑」になっているそうで、ということは、そのあたりの沖で詠んだ…ってことになるんですかね。

 

 

ちなみに、「三尾崎」は「三尾山」が琵琶湖に突き出たところにある岬。

 

古来から舟の旅人にとっては印象深い風景だったようで、『万葉集』にも詠まれています。

 

 

しのひつつ 来れど来かねて三尾の崎
真長の浦を またかへり見つ


碁師/万葉集 巻九 1733

 

心ひかれながらも寄らずに来たけれど、やっぱり素通りしかねて、三尾の崎や真長の浦のあたりを、また振り返って見てしまった…みたいな意味。

 

こちらも、歌碑があるようですねー。

 

(歌碑は原文の万葉仮名「思乍 雖来々不勝而 水尾埼 真長乃浦乎 又顧津」で刻まれているみたい。ちなみに「碁師」とは誰か?については分からず…)

 

 

「三尾山」は、杣山(材木の伐採地)としても知られる歌枕だったようで、鎌倉~南北朝時代の歌人・頓阿(とんあ。俗名:二階堂貞宗。当時の「古今伝授」の担い手)の歌集にも登場しています。

 

五月雨に なほ川音も高島や
水尾の杣山 雲もなかれむ


頓阿/草庵集 323

 

 

「水尾の杣山」というのが「三尾山」を指しています。

 

「高島」というのは、「三尾山」のあたりの地名。奈良時代に「藤原仲麻呂の乱」(764年)が終焉した土地でもありました。

 

クーデター直後、機先を制されて勝利条件を逃してしまった仲麻呂は、捲土重来を期して越前(息子の辛加知がいた)を目指したのですが、それを読んでいた吉備真備の先行部隊に阻まれて叶わず、引き返して来た所を「高島」のあたりで討たれてしまったのです。

 

この歴史を踏まえた和歌を紫式部が詠んでくれていたら、色々と胸アツだったのですが、そんなものはなく…。

 

知らなかったのか、あるいは興味なかったのか、もしくはホームシックでそれどころではなかったのか。

 

しかし「三尾の海に~」の「網引く民」を「漁師の網」ではなく「吉備真備の包囲網」と詠み替えれば、仲麻呂の乱を詠んだ和歌に見えなくもなさそうな…?

 

いや、あまりに自分の趣味に走り過ぎなので、やめておきましょう(笑)

 

 

紫式部は、その夜は「勝野津(高島のあたり)」に泊まって、翌日また船旅となり、「塩津浜」に上陸。


その到着前くらいに、湖上で夕立にあったようで、その心細さを和歌に詠んでいます。

 

 

夕立しぬべしとて 空の曇りて ひらめくに

かきくもり 夕立つ浪の荒ければ
浮きたる舟ぞ しづ心なき


紫式部/紫式部集 22

 

にわか空が曇って夕立のために浪が荒くなる。いま乗っているこの舟のように私の心も不安で揺れている…みたいな意味。

 

夕立にあったということで、この往路の時季は「夏」であったことが分かります。

 

『光る君へ』でも、上陸時ににわか雨に当たられるシーンがありましたね。

 

 

そして、「三尾の海に~(20番歌)」と「かきくもり~(22番歌)」の間には、もう1つ和歌(21番歌)があるのですが、これが議論を呼んでいる問題作となっています。

 

 

又 磯の浜に 鶴の声々鳴くを

磯がくれ おなじ心に田鶴たづぞ鳴く
汝が思ひいづる人や誰ぞも


紫式部/紫式部集 21

 

水際の岩蔭に隠れるようにして、私と同じように恋しい人を想って鳴いている鶴。おまえが思い出している人は、一体誰なのかしら…みたいな意味。

 

「私と同じように恋しい人を想っている」の部分も意味深ながら、問題なのは「磯の浜」の部分。

 

実は、琵琶湖周辺に「磯の浜」という地名があるのですが、これが琵琶湖の東湖岸にあるんです。

 

 

往路は湖西を北上したはずなのに、東湖岸が詠まれているのは何故??というわけ。

 

通常、鶴は晩秋に飛来して、春に北の国へ帰る渡り鳥。

夏の往路では、鶴の声は聞けないだろう…とされます。

 

さらに、1年半後の「越前から京への帰路」は、琵琶湖の東湖岸を伝っていると考えられており、「磯の浜」に立ち寄ったか、あるいは近くを通った可能性は俄然高く、秋から春にかけての何時かだったので、鶴の鳴き声を耳にする可能性もありそうです。

 

なので「本来は帰路の歌群に含むべき和歌で、誤ってここに配置されたのでは」とされているみたい。

 

でも、それはどうなのかなぁ…という意見もあります。

 

詞書の「又 磯の浜に 鶴の声々鳴くを」の「又」が、前の歌から時系列的に続いていることを意味していています。

 

和歌の内容が「恋しい人への想い」なので、前の和歌「三尾の海に~」の「都が恋しい」から続いているのも、内容的には理解できそうな感じがあります。

 

鶴の声も、聞こえたことにした(または他の鳥の鳴き声を見立てた)可能性もありますし、「磯の浜」だって地名ではなく一般名詞だったのかもしれません。

 

往路に詠まれたものであれば「離京の物悲しさを表した」和歌。

帰路に詠まれたものであれば「帰京の喜びに弾む心を表した」和歌。

 

さぁ、正解はどっちだ…?

 

「三尾の海に~」の下の句「立ゐにつけて都恋しも」の「立ちゐ(立ち居)」は、「立ったり座ったり」の意味で、ここでは忙しなく働く漁師たちの動きを意味していますが、この言葉は『紫式部集』の17番歌にも出てきます。

 

ただ、15番歌からの連歌になっているので、大事なのでまとめて紹介してみると。

 

 

おのがしし遠きところへゆき別るるに よそながら別れ惜しみて

北へ行く 雁のつばさに ことづてよ
雲のうはがき かきたえずして


返しは 西の海の人なり

行きめぐり 誰も都に かへる山
いつはたと聞く 程のはるけさ


津の国といふところより おこせたりける


難波潟 群れたる鳥の もろともに
立ちゐるものと 思はましかば


返し


紫式部/紫式部集 15~17

 

この和歌は、紫式部が越前へ下る少し前、父の任地・肥後に赴いた「筑紫の君」(『光る君へ』の さわ のモデル…あるいはその人)との間で交わした贈答歌

 

 

紫式部は「筑紫の君」と「姉・妹」と呼び合うほど親しかったのですが、それぞれ遠いところに行くことが決まり、離れ離れになりながら別れを惜しんで和歌を贈り合いました。

 

1つ目(15番歌)の紫式部が詠んだ和歌は北へ向かう雁のつばさに託して、手紙をくださいね。私の名がかき消えないように、雁が雲を掻くように、書き絶やすことなく…みたいな意味(「うはがき」は「上書き」で「お手紙」の意味)

 

これに対する「筑紫の君(西の海の人)」の返事が「津の国」から送られ、月日が巡れば「かへる山」の名の通り、いつかは誰もが帰るというけれど、「いつ?はたして?」と聞きたくなるくらい、はるか遠い先のことに思われますと、頼りないかんじになっています。

 

それに対する紫式部の返し。難波潟で群れている鳥たちのように、一緒に暮らしていられるものと信じていたいのに、それができないのが悲しい…みたいな意味。

 

「立ちゐ」は、越前への旅路では「漁師たちの動き」、こちらの別れを惜しむ歌群では「暮らす」の意味で使われていますが、同じ言葉で「繋がりがある」ことを意味しているのかもしれません。

 

となれば、そこから「又」で繋がっている「磯がくれ〜」は「別れを惜しむ和歌=往路の和歌」と解釈することができます。

 

そして、こうやって見てみると「雁」や「群れたる鳥」など、紫式部にとって「鳥」は「=友」というイメージを持っているように見えます。

 

ちなみに後年、「筑紫の君」が亡くなったと聞いて、その死別を悲しんだ時に詠んだ和歌にも「鳥」が詠み込まれています。

 

 

遠き所へ行きにし人の亡くなりにけるを
親はらからなど帰り来て
悲しきこと言ひたるに

いづ方の 雲路と聞かば尋ねまし
つら離れけむ 雁がゆくへを


紫式部/紫式部集 39

 

どちらの雲路を進んでますかと聞くことができたなら、訪ねて行きたいものです。親しい人々から離れて、飛び立ってしまった雁のようなあの友の行方を…みたいな意味。

 

「鶴の声」を詠んでいる21番歌は、都を離れて別れてきた「友の声」を思い起こして詠まれたとも見え。

 

ゆえに歌順の通り「往路で詠んだもの」とすることも可能かな…なんて思ったりもするのですが、どうでしょうかねー。

 

 

さて、「21番歌」の和歌の謎については以上として…。

 

塩津浜に上陸した一行は、「塩津神社」で旅の安全を祈願したようです。

 

 

その後、陸路を取って「塩津街道」を北上し、「敦賀」を目指します。

 

このあたりは、戦国時代に「賤ヶ岳の戦い」(1583年)があった近隣ですねー。

 

「賤ヶ岳の戦い」は、織田信長亡き後の天下人の座を争って、秀吉と柴田勝家が近江で決戦に及んだ戦い。柴田勝家は豪雪で進めない「北国街道」を早々に諦めて、敦賀から「塩津街道」ルートで南下し、秀吉軍打倒を目指しています。

 

「賤ヶ岳の戦い」はワタクシの好きな戦いの1つですが、今回はリンクだけ回しておいて…。

 

要塞vs要塞(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12736496594.html

 

近江と越前との国境には「深坂峠」があり、うっそうと木が茂っていて進むのが大変。

 

紫式部の乗っている輿をかつぐ賤男たちが「何度通ってもやはり、険しい道だなあ」と言っているのを聞いて、和歌を1つ詠みあげます。

 

 

塩津山といふ道のいとしげきを
賤ののあやしきさまどもして
なほ からき道なりや といふを聞きて

知りぬらむ 往来ゆききに慣らす塩津山
世に経る道は からきものぞと


紫式部/紫式部集 23

 

いま知ったことでしょう。何度も通い慣れた塩津山でも、越えるのはつらいのです。まして世の中を生きていくという道は、一層険しいものなのです…のような意味。

 

「からい=つらい」と「塩津山=塩=塩からい」をかけて、中々の出来。

 

 

そして、琵琶湖には「老津島」という島が「童べの浦」という浜の近くにあるという話を、峠越えの休憩中にでも聞いたのか、着想を得て和歌を詠みます。

 

 

湖に 老津島といふ洲崎に向ひて 
童べの浦といふ入海のをかしきを 口ずさびに

老津島 島守る神や いさむらむ
波もさわがぬ わらはべの浦


紫式部/紫式部集 24

 

「童べの浦」が名ほどには騒がしくない穏やかな浦であったのは、老津島の老いた島守神が童たちを子守り諌めているからなんでしょうね…のような意味。

 

「童」と「老」の対比が、よほど面白かったのでしょうねw

 

なお、「童べの浦」は、琵琶湖の東湖岸にあります。

 

(↑ここに「紫式部の歌碑」があるのですが、Google Mapではピンがありません…なので、勝手に座標でご案内w)

 

東湖岸だから「帰路」で詠んだ…とするサイトさんもいくつか見受けられるのですが、収録の順番的には「深坂峠」で詠んだ和歌(23番歌)と、国府に着いてから「越前日野岳」を詠んだ和歌(25番歌)の間。

 

なので、「往路」の途中で話を聞いて着想を得たのではないかな…と、ワタクシは思います。先の「謎の21番歌」と同じ、「収録順は詠んだ順」の法則ではないかなとw

 

しかし、紫式部の元気もここまで…。


「深坂峠」から「敦賀」を経由して「越前」までたどり着く、その旅路では和歌を詠む元気もないほど、疲れ果ててしまったようですw

 

途中には「三関」の1つ「愛発の関」があったと思われ、それも本当は詠みたかったのではなかろうか…残念。運動不足ですね(^^;

 

 

『光る君へ』でも描かれていた通り、宋人たちが留め置かれていたのは「松原客館」という迎賓館だったのですが、これは「敦賀」にあったとされます(「気比」にあった…という説もあり)

 

ということは、『光る君へ』21話は「敦賀」で終わっている…のですが、当ブログでは強気に行って、越前まで進んでしまいます。2回に分けるのもナンだし(笑)

 

 

「敦賀」から「武生(越前国府)」へは、最短距離ながら険しい道のりの「木ノ芽峠」を通るルートと、途中で海路もはさむ「山中峠」を通るルートとがあります。

 

紫式部たちが、どちらを使ったのかは、よく分かっていないそうな。力尽きて和歌を詠むのをやめてしまっていますからね(笑)。どっちが有力…というのもなさそう?

 

そこで考えてみたいのが、さきほど紹介した紫式部と「筑紫の君」の贈答歌

 

「筑紫の君」が詠んだほうの和歌は、実は越前と浅からぬ関係があります。

 

 

行きめぐり 誰も都に かへる山
いつはたと聞く 程のはるけさ

 


「かへる山」「いつはた」は、実はどちらも越前にある歌枕。

 

紫式部が越前へ行くことになったのを念頭に、歌枕に織り込んで、贈ったことになりそうですね。

 

「五幡(いつはた)」は、敦賀湾から船に乗って「山中峠」へ行く途中にあります。

 

 

「いつはた」という語感から「いつ?」「はたして?」を呼び起こされる枕詞として使われるわけですね。

 

ワタクシが調べた限りで『紫式部集』には、紫式部が「五幡」を詠んだ和歌は見つかりませんでした。

 

もしも「山中峠ルート」で越前を目指した…と仮定した場合。

実際に目にしたであろう「五幡」の和歌を詠まないなんて、あり得るだろうか…?

 

「筑紫の君」も詠んでいて、それを収録しているにも関わらず…?と考えると、「五幡を詠んで収録するだろうなぁ」という気がします。

 

でも、そんなものはない。ということは、紫式部は「五幡」を目にするルートは通ってないのでは…?

 

というわけで、ワタクシは「山中峠」ではなく「木ノ芽峠」を通るルートで越前を目指したのではないかな…と、考えております。実際にはどうだったんだろう。

 

 

もう1つの「かへる山(鹿蒜山=かひるやま)」は、「木ノ芽峠」から「武生」へ向かう街道近くにあったようです。

 

 

こちらは「五幡」とは違い、『紫式部集』にも使用例があります。

 

降り積みて いとむつかしき雪を掻き捨てて
山のやうにしなしたるに 人々のぼりて
なほ これ出でて見たまへ といへば

ふるさとに 帰る山路の それならば
心やゆくと ゆきも見てまし


紫式部/紫式部集 27

 

越前の冬、降り積もった雪を掻き分けて、集めてできあがった大きな雪山に登った人々から「登って御覧なさいませ」と言われたことで、詠んだ和歌。

 

その山が京へ帰る途中にある「かへる山」だったら、喜んで登ってみようとも思うけれどもね…のような意味。

 

帰りたい気持ちでいっぱいになっている頃の、憂鬱そうな和歌ですね(笑)

 

ちなみに、「かへる山」は結構使用例が多いようで、探した限りを列挙してみると…。

 

  • 可蒜流廻かひるみの 道行かん日は五幡の 坂に袖を振れ われおし思わば(大伴家持/万葉集)
  • かへる山 ありとはきけど春霞 たちわかれなば恋しかるべし(紀利貞/古今集 離別)
  • かへる山 なにぞありて あるかひは 来てもとまらぬ名にこそありけれ(凡河内躬恒/古今集 離別)
  • 白雪の やへふりしける かへる山 かへるがへるも老にけるかな(在原棟梁/古今集 雑)
  • 忘れなば 世にも越路の かへる山 いつはた人に逢はむとすらむ(伊勢)
  • 行きめぐり 誰も都に かへる山 いつはたと聞く程のはるけさ(筑紫の君/紫式部集)
  • ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし(紫式部/紫式部集)
  • いかばかり 深き中とて かへる山 かさなる雪を とへと待つらむ(藤原定家/内裏百首)
  • 春深み 越路に雁の かへる山 名こそ霞に かくれざりけり(藤原定家/拾遺愚草)
  • かへる山 いつはた秋と思ひこし 雲居の雁も今や逢ひ見む(藤原家隆/続後拾遺集)
  • あかずして 帰るみ山の白雪は 道もなきまで うづもれにけり(藤原朝光/続後撰集 恋)
  • ともすれは 跡たえぬべき帰る山 越路の雪は さぞ積るらむ(よみ人しらず/続後撰集 恋)
  • 越えかねて いまぞ越路を帰る山 雪降る時の名にこそありけれ(源頼政/千載集 冬)
  • たちわたる 霞へだてて帰る山 来てもとまらぬ春のかりがね(入道親王性助/続拾遺集)
  • 故郷に ふたたびかえる ここちして 帰の山を 見るがうれしき(松平春嶽)

 

などなど。

 

この中で実際に「かへる山」の実物を見ていると思われるのは、大伴家持(746年~751年:越中守)と松平春嶽(幕末の越前福井藩主)、そして紫式部を入れると、わずか3人だけという計算。

 

何処となく乗り気でなかったように見える紫式部の越前下向ですけど、歌人として貴重な体験もきっちりできていたわけですなー。

 

 

というわけで、「往路」については以上なのですが、ついでに「帰路」もやっちまうか…?と。

 

大河ドラマ、「往路」をあっさりカットしたから「帰路」も期待できないなぁ…って、なんだか悪い予感しかないので…。

 

もしも予感が外れてネタバレになってしまったらゴメンナサイ(汗)

 

 

紫式部が帰京したのは、長徳3年(997年)の秋から翌春にかけての何時か。

 

「木ノ芽峠」から「武生」の街道沿いにある「かへる山」は、「往路」では通ったのか不明なのですが(一応「通った」と考えられているようです)、「帰路」では和歌にも詠んでおります。
 

都の方へとて 帰る山越えけるに
呼び坂というなる所の いとわりなきかけぢに
輿もかきわづらふを おそろしと思ふに
猿の 木の葉の中より出で来たれば

ましもなほ 遠方をちかた人の 声交はせ
われ越しわぶる たごの呼び坂


紫式部/紫式部集 81

 

「呼び坂」というのは、どこを指すのか諸説あるようなのですが、「かへる山」から「木ノ芽峠」のあたりの険しい山道のことだろう…とされるのが、一般的みたい。

 

そこで猿が木々の中から姿を現したようで、詠まれたのがこの和歌。

 

猿たちよ、「たごの呼び坂」の名の通りに、遠くから呼び声を交わしておくれよ。越えるのに難儀しているこの坂を無事に通り抜けられるように…のような意味。

 

「まし」は「猿(ましら)」と「汝(まし)」の掛詞。「難儀な坂を越えたい」のと「呼び声を交わしてくれ」の「越え」と「声」も掛詞になっています。

 

「たごの呼び坂」というのは、「呼び坂」の地名から『万葉集』の和歌を思い出して、下敷きにしているのではないか…と言われているそうです。

 

 

あずま路の たごの呼び坂 越えかねて
山にか寝むも宿りはなしに


よみ人しらず/万葉集 東歌 巻1 3442

 

東国の「たごの呼び坂」を越えられなくて、山中に1人で寝るハメになるのかなぁ。宿はないのに…のような意味。

 

越えられるかどうか…の心細さを「田子の呼び坂」のフックで本歌から引き上げている…という技巧なわけですな(たぶん)

 

やがて、琵琶湖へと出航して、船上から名峰「伊吹山」が見えくると、それを詠む和歌が続きます。

 

水海にて 伊吹の山の雪いと白く見ゆるを

名に高き 越の白山 ゆきなれて
伊吹の岳を なにとこそ見ね


紫式部/紫式部集 82

 

越前の白山の雪を見慣れてしまったせいか、伊吹山の頂の雪も何ほどのものでもないと見えてしまう…のような意味。

 

「ゆき」が「行き」と「雪」の掛詞。

 

「伊吹山」といえば、ヤマトタケルが挑戦し、神を侮ったばかりに、ついに永遠に帰ることができなかったという悲劇伝説の山。

 

「私は帰るぞ!」という勢いも感じられますかね。

 

でも、「越前の雪山の方が美しかったよ」みたいなかんじもあって。

 

かつて雪山を見ても「京への帰路にある『かへる山』だったら見る価値もあるけどさ…」といじけていたのがウソみたい(笑)

 

いざ離れてみたら、1年半を暮らした「越前」との別れが惜しまれる気持ちが出て来たかのようにも読めます。

 

「伊吹山」は琵琶湖の東側にある山。なので、「帰路は東湖岸沿いに上京した」と分かるわけですねー。

 

(地図から思うに、長浜の沖あたりから伊吹山が見えたんでしょうかね…?)

 

そして、「帰路」最後の和歌が詠まれるのですが、これがちょっと抽象的で意味深。

 

卒塔婆の年経たるが まろびたふれつつ 人に踏まるるを

心あてに あなかたじけな 苔むせる
仏の御顔みかほ そとは見えねど


紫式部/紫式部集 83

 

何処なのか不明なのですが、年季の入った卒塔婆が転び倒れて、人に踏まれているのを見かけて詠んだ和歌。

 

もしかして卒塔婆かなと思ってみたら、勿体ないことにその通りだった。苔むしてぼろぼろで、とても仏様のお顔には見えないけれども…のような意味。

 

道に倒れている卒塔婆に気づき、思いやるかのような。

 

あまりにボロボロでとても仏様の顔には見えないと、突き放すような。

 

単身帰京を決意して歩み出した「帰路」。その最後の和歌に、この歌を持ってきた真意とは…?

 

「そとは見えねど」は「それとは」と「卒塔婆とは」の掛詞。無常な倒壊した卒塔婆も掛詞で遊び、帰京の喜びを表しているのでしょうかね…?

 

 

というわけで、今回は以上。

 

なんだか軽くやるつもりが、ずいぶんと長くなってしまった…(汗)

感想本文でやらなくてよかったかもしれない(笑)

 

でも、『光る君へ』本編で、紫式部の和歌を まひろが詠むシーン、ワタクシは見たかったですよ…。

 

 

 

【往路で詠まれた和歌】

 

近江の海にて三尾が崎といふ所に網引くを見て

20. 三尾の海に 網引く民の てまもなく 立ちゐにつけて都恋しも

 

又 磯の浜に 鶴の声々鳴くを

21. 磯がくれ おなじ心に田鶴ぞ鳴く 汝が思ひいづる人や誰ぞも

 

夕立しぬべしとて 空の曇りて ひらめくに

22. かきくもり 夕立つ浪の荒ければ 浮きたる舟ぞ しづ心なき

 

塩津山といふ道のいとしげきを 賤の男のあやしきさまどもして なほ からき道なりや といふを聞きて

23. 知りぬらむ 往来に慣らす塩津山 世に経る道は からきものぞと

 

湖に 老津島といふ洲崎に向ひて 童べの浦といふ入海のをかしきを 口ずさびに

24. 老津島 島守る神や いさむらむ 波もさわがぬ わらはべの浦

 

 

【帰路で詠まれた和歌】

 

都の方へとて 帰る山越えけるに 呼び坂というなる所の いとわりなきかけぢに 輿もかきわづらふを おそろしと思ふに 猿の 木の葉の中より出で来たれば

81. ましもなほ 遠方をちかた人の 声交はせ われ越しわぶる たごの呼び坂

 

水海にて 伊吹の山の雪いと白く見ゆるを

82. 名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の岳を なにとこそ見ね

 

卒塔婆の年経たるが 転びたふれつつ 人に踏まるるを

83. 心あてに あなかたじけな 苔むせる 仏の御顔 そとは見えねど

 

 

 

 

【関連】

 

大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html