新潟も桜が咲き始めたようで。
特に花見の予定とかはないんですが、通勤路から桜並木が見えるポイントあるので、視界の隅にピンク色を感じながら運転しております。
そんな花見の季節になったので、夏仕様の服装で会社に行ったら「早っ」と言われてしまいました。
だって、暑いんだもん。
暑がりとしては、桜から衣替えまでが長いんですよね…。
そんな桜の季節に何故か手を出した(笑)、大雪から始まった「賤ヶ岳の戦い」、前回からの続きを。
夏の夜の…(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12736130028.html
天正10年10月15日(1583年)。
同年の6月に「本能寺の変」で横死した織田信長の遺徳を偲んで、京都・大徳寺で追悼法要が営まれました。
西暦にすると11月10日。越前は雪に閉ざされる冬になっていくところ。
柴田勝家が法要に参列しなかったのは、時季的なものなのか、秀吉主催の法要なんか不参加じゃ!ということだったのか、あるいはハナッから秀吉に呼ばれなかったのか。
「そもそも秀吉が勝手にやったから、呼ばれていなかったのでは」とは、よく言われます。
でも、信長の次男・信雄(尾張)と三男・信孝(美濃)も参列していません。これは、領地の境界線争いで不仲になっていたから。
結局、参列したのは秀吉と池田輝政、織田信勝(信長の四男)、細川藤孝というメンバーだったそうな。
これでは、後世「信長の法要は秀吉が勝手にやった」ように見えても仕方がなさそうですね(^^;
話を戻して、冬は身動きが取れなくなってしまう柴田勝家。
勝家を政敵と見なしていた羽柴秀吉は、鬼の居ぬ間にとばかりに、勝家が構築する「秀吉包囲網」を崩す行動に着々と出ます。
長浜城の柴田勝豊を調略で切り崩すと、岐阜の信孝を包囲。伊勢長島の滝川一益も、あっという間に追い詰めてしまいました。
「これでは…これではまずい!!春まで待つわけにはいかぬ!!」
春はまだ遠い3月2日、勝家はついに越前を発ちます。
最短ルートの北国街道は、豪雪で通行不能。仕方がないので、比較的積雪量の少ない敦賀ルートを取りました。
迂回して、残雪を踏みしめながら進んだにも関わらず、3月5日前後には先発隊が北近江に到着。
決断してからの行動は、かなり迅速。さすが、戦上手の鬼柴田です。
「賤ヶ岳の戦い」の勝利条件は、決戦の舞台となった地形を見ると一目 瞭然。
この場所は、せまい山の中を南北に「北国街道」が走っているのですが、南進して「木之本」に至ると、近江平野が開けてきます。ここから「長浜城」は、目と鼻の先。
「長浜城」まで出てこれれば、伊勢・長島城に向かって滝川一益を救援するもよし、美濃・岐阜城に向かって信孝を仰ぐもよし、安土を急襲して秀吉サイドを動揺させるもよし、などなど戦略的な選択肢がグンっと広がります。
よって、柴田勝家から見れば「木之本」に到達すること。これが勝利条件です。
逆に秀吉からすれば、柴田側の南進を「木之本」より北で抑えられるか。ここがポイント。
そのため「天神山」に要塞を作っていたのですが、思ったより迅速に南下してきて敵の前線部隊との距離が近くなり過ぎたため、ここを放棄。
代わって、余呉湖の北にある山地にそって要塞を築き、北国街道を封鎖します。
「神明山(木村重茲)―堂木山(木村久元)―塹壕防壁(小川祐忠)―東野山(堀秀政)」
これが「第一防衛ライン」
次に、塩津街道を下って余呉湖を南回りに迂回するルートを封鎖するため、余呉湖の南岸に要塞を築きます。
「賤ヶ岳(桑山重晴)―大岩山(中川清秀)―岩崎山(高山右近)」
これが「第二防衛ライン」
そして、万が一に備えて「田上山」に弟・秀長の大軍を駐屯し、「木之本」には本営を置きました。
「重厚な構えだな…。それならば」と、柴田軍は戦略を長期戦モードにチェンジ。
勝家は内中尾山に要塞を作って本営とし、各部隊も山頂に陣取って、次々に塹壕や砦を築いて持久戦の構えを取りました。
序盤は、こんな風に両軍そろって築城大会が開かれ、出来上がり次第どちらも要塞に篭もってしまって、戦況は膠着状態になります。
まさに、「要塞vs要塞」の戦い。
地図で確認すると、こんなかんじです。
長期戦に持ち込んで有利なのは、柴田勝家のほう。
なんてったって、各個撃破されそうな滝川一益と織田信孝を窮地を救うべく、秀吉軍にプレッシャーをかけるために積雪の中を行軍して来たんですからね。
加えて、毛利・長宗我部・徳川らの外部勢力との連携を模索する時間稼ぎができます。
また、筆頭家老の勝家が戦意を見せれば、去年から今年にかけて秀吉の強引な手法に疑問を感じていた旧織田家家臣が寝返ってくる可能性は、そんなに低くはないはず。
現に、秀吉軍の最前線・天神山に布陣していた山路正国を、寝返らせることに成功しました。
秀吉からすれば、秀吉包囲網が構築される前に、どこかに風穴を開けておきたいところ。
ところがここで、岐阜の織田信孝が、再び挙兵したという知らせが入ります。
「ええい、この忙しい時に…!」
柴田勝家、滝川一益に加えて信孝の三方面を同時に対処するのは、結構キツイ。
そして、柴田軍に2つの情報が飛び込んできます。
- 岐阜の信孝が再び挙兵したため、秀吉率いる本隊が叩きに向かった。秀吉はここにはいない(本陣は弟の羽柴秀長が守備)
- 「第一防衛ライン(北国街道封鎖)」は手堅いが、「第二防衛ライン(余呉湖南岸)」は手薄で、しかも油断している。特に大岩山は要塞が未完成の状態。
これは短期決戦のチャンスか?
それとも、リスクを避けて持久戦を続けるべきか?
風雲急を告げる中、猛将・佐久間盛政が「大岩山」の奇襲を提案。
GOサインが出て、勝家サイドから戦況が動くことになりました。
ただし「大岩山を攻略したら、即時に撤退せよ」という条件が出されます。
「大岩山」は敵中深くにあり、長居すれば孤立してしまうためでした。
盛政は8000の兵を率い、夜陰にまぎれて「行市山」を下山。
余呉湖の西岸をひそかに迂回し、攻撃目標の「大岩山」を目指します。
同時に、柴田勝家の本隊が北国街道を「狐塚」まで南下。
前田利家も別所山を下山して「茂山」まで移動。
「第一防衛ライン」ギリギリまで迫って相手を牽制し、盛政の突撃部隊を支援します。
盛政隊は「大岩山」を奇襲・猛攻して攻略。
ここを守っていた中川清秀の率いる1千の防衛隊は、玉砕して果ててしまいました。
この戦況を知ると、高山右近は「岩崎山」の要塞を即刻で放棄して本陣の「木之本」へ後退。
「賤ヶ岳」の桑山重晴は降伏勧告を受諾して、要塞を明け渡す約束をしました。
戦略的に見れば、秀吉が構築した「第二防衛ライン」は、完膚なきまでに崩壊。
勝家も、まさかここまで戦果を上げられるとは思いもしなかったのではなかろうか(だから「大岩山を落としたら撤退せよ」と条件を出したのだと思う)
この劣勢を秀吉サイドが挽回するには、総大将の秀吉と彼が擁する大軍の本隊が不在のまま「第一防衛ライン」をどうするか判断し、「木之本」を守り抜かねばなりません。
「秀吉だったら、中国大返しの時のように迅速に戻ってこれるのでは」と考えてしまいますが、その「中国大返し」だって、本当は驚くほどには早くはありません。
「本能寺の変(6月2日早朝)」を知ってから(6月3日深夜)、「備中高松城」を囲んでいる部隊を撤収して(6月6日)「姫路城」に到着し(6月7日夜)、摂津の各部隊と合流して「尼崎」を出発(6月11日午前)したのが「中国大返し」
前線部隊を撤収するのに2〜3日、「備中高松~姫路~尼崎」の約150キロを移動するのに4日かかっています。移動速度は単純計算で1日35キロ。
「岐阜城」から「木之本」までは、約65キロ。
岐阜城を囲んでいる部隊の撤収に1~2日、北近江まで移動に2日。「中国大返し」の調子でやっても3日~4日はかかります。
秀吉サイドは「第二防衛ライン」が総崩れの状態で、秀吉本隊が来るまで持ちこたえられるか?
柴田サイドは、まだ元気いっぱいの「第一防衛ライン」を、秀吉本隊が来る前に突破し、勝利条件の「木之本」まで到達できるか?
戦況は混沌とし、どっちに転んでもおかしくはない状況。
この状況を秀吉が挽回できたのは、実は「ラッキー」のおかげ。
というのも、秀吉は岐阜を目指したものの、長良川と揖斐川が大雨で増水して渡れず、大垣で足止めを食らっていたのでした。
つまり「柴田勝家、動く!」の報を受けた時、秀吉は「岐阜」より手前の「大垣」にいたのです。
「大垣」から「木之本」までなら、約50キロの道のり。
おまけに部隊は城を包囲しているわけではなく、川も渡っていないので、撤収も方向転換も移動も、はるかに簡単。これなら間に合う目算が立ちます。
「佐久間盛政の部隊が大岩山を攻撃」の知らせを聞いた秀吉が、持っていた箸を落とすほど狂喜乱舞したというのも、このような計算が脳裏に閃いたからでしょう。
こうして、ラッキーと秀吉の智略が重なって、朝10時に「大岩山」が陥落した「4月20日」の同日中に、秀吉本隊が「木之本」に到着(21時着)という、敵も味方もビックリの早業を見せることができたわけです。
「なにッ…秀吉が戻ってきただと…盛政は何故兵を引かなかったのだ…!」
堀秀政に阻まれて、柴田勝家の本隊は「第一防衛ライン」を突破できず。
(石田三成は盟友・大谷義継とともに、ここで頑張っておりました)
秀吉到着を知った盛政は、即座に撤退するのですが、賤ヶ岳を放棄したはずの桑山重晴が退却中に丹羽長秀の軍と鉢合わせ、一緒に攻めかかってきたため、孤立して大苦戦。
「茂山」で「第一防衛ライン」を牽制し、盛政の退路を確保していたハズの前田利家が突然ナゾの撤退。
退路を断たれたうえに「第一防衛ライン」の連中も殺到し、北と南から挟み撃ちにあって盛政隊も壊滅。
柴田勝家の夢は、短期決戦の末に潰えてしまったのでした。
勝家と秀吉の優位がくるくる変わって、秀吉の大返しが成功するまでの長い1日。
柴田勝家・佐久間盛政・羽柴秀長・堀秀政らの葛藤と苦悩と奮戦。
「賤ヶ岳の戦い」はそこが面白くて、好きな戦いの1つですw
そういえば「要塞vs要塞」という状況といい、「相手の主将がいないらしい」状態から「帰ってきて勝ちを収める」結末といい。
「賤ヶ岳の戦い」って『銀河英雄伝説』の「イゼルローン攻略戦(ケンプver)」みたいですなw
ところで、こうやって見てみるとこの合戦って、本質的には「賤ヶ岳の戦い」って呼び名ほど「賤ヶ岳」にスポットが当たってないことが分かります。
呼び名だけ聞くと、勝家が目指したのが「賤ヶ岳」っぽく思ってしまいますが、本来の目的地は「長浜城」で、当初の目的地は近江平野の入り口の「木之本」だったはず。
本営を作ったのは「内中尾山」なので、最初に目指したのはここだったかもしれません。
「賤ヶ岳」は、戦略的に見るなら「第二防衛ライン」の拠点の1つであって、目指さないどころか通過地点にもならないし(無意味な寄り道になっちゃう)、勝家自身は踏み込んでもいません。
「賤ヶ岳」が出てくるのは、佐久間盛政が陥落させた時と、秀吉の大返しから盛政隊が返り討ちにあって壊滅した時の2回です。
だから、本当はこの戦いは「木之本の戦い」とか、戦局が大きく動いた「大岩山の戦い」とかが相応しい合戦名になるはずです。
じゃあ、なんで「賤ヶ岳の戦い」なんて呼ばれているんだろうか?というと、実は秀吉が意図的に「賤ヶ岳」を吹聴してまわったから。
秀吉は武士の出ではなかったので、譜代と呼ばれる家臣がいませんでしたが、親類縁者の子を集めて養育した、子飼いの武将たちがおりました。
しかし、家柄もなければ名声もない若者ばかり。秀吉は、彼らがいかに優れているかを宣伝して箔をつけてあげる必要がありました。
幸い、この子たちがこの合戦の最終章「賤ヶ岳」で、退却する盛政隊を追撃して大活躍をしたので、それを秀吉が殊更に強調して語ったために、「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれるようになったわけです。
福島正則・加藤清正・脇坂安治・加藤嘉明・糟屋武則・片桐且元・平野長泰の、いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」。
(実は、上記の7人に加えて石川一光と桜井佐吉も、秀吉から「感状(功労を評価した文書)」が与えられているのですが、かぜか除外される傾向があるようです)
「賤ヶ岳の戦いで活躍したから『賤ヶ岳の七本槍』」ではなく、
「賤ヶ岳の七本槍が活躍したから『賤ヶ岳の戦い』」だったんですねー。
【関連記事】
夏の夜の…
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12736130028.html
要塞vs要塞
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12736496594.html
信孝の無念と秀吉マジック
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12737005572.html