4月に入り、新潟もすっかり暖かくなってまいりました。

週末には桜も咲くかな?

 

今年の冬は、あんまり雪が降らなかったですね。

酷暑&厳冬を告げる「ラニーニャになった」と聞いた時には、ちと覚悟したんですがねー。

 

豪雪で大変だった去年とは比べ物にならないくらいな少雪で、本当に良かった。

いやー、あの2021年冬の大雪は一体何だったんでしょうかね?

 

 

日本史で「大雪」といえば、上杉謙信が真っ先に思い浮かぶでしょうか。

 

関東管領職を上杉憲政から譲り受けた謙信は、関東で俺様街道を爆走する小田原北条氏と幾度も対決。

 

しかし、冬になると雪のために越後に帰れなくなってしまうので、年の暮れまでには関東から撤退しなければならない…という「欠点」を持っていました。

 

それまでは"戦の化身"謙信公に押され気味だった北条氏も、ヤツが帰ってしまえばこっちのもの(笑)

奪った拠点を冬のうちに取り返され、謙信の関東管領双六は毎年「振り出し」に戻る…というのを繰り返すハメになってしまいました。

 

謙信の領国が越後ではなかったら、小田原北条氏もあそこまで好き勝手にはできなかったんでしょうかねぇ。

 

 

「日本史で大雪」といえば、もう1人。

 

柴田勝家を挙げることもできます。

 

「本能寺の変」で主君・信長が横死した後、メキメキと頭角を表した羽柴秀吉に、天正11年(1583年)決戦「賤ヶ岳の戦い」に敗れて歴史から去ってしまった柴田勝家。

 

勝家が秀吉に負けてしまった敗因を1つ、厳選するならば、

 

「領地が雪国だったから」

 

これに尽きるでしょう。

 

当時の勝家の本拠地は越前。福井県~富山県にいたる、北陸の豪雪地帯を支配圏としていました。

織田信長の「天下布武」方面軍司令官の1人として、北陸に派遣されていたからです。

 

越前の柴田勝家は、越後の上杉謙信と同様に、冬の間は積雪に見舞われて身動きができなくなってしまいます。

 

「冬になったら出てこれない」

これは誰もが知っていることなので、敵は冬になったらやりたい放題。

 

越前に領地を持つものは、この戦略的ハンデを背負わなければならない宿命にあるのでした。

 

 

柴田勝家も、そこは重々承知。

 

今後、秀吉と天下を争うならば、「雪が積もらない南の地域をなるべく確保して、非積雪地帯に陣取る秀吉に対して戦略的挽回を狙う」。これが負けないための条件となります。

 

しかし、「清須会議」で勝家がゲットできたのは「長浜城」だけ。

 

長浜城は、琵琶湖の東湖岸にある交通の要衝で、ここを抑えるのは戦略的にかなり得策。

 

でも、長浜城から越前の間をむすぶ一帯は、東北地方にも匹敵する豪雪地帯なので、冬の間は連絡線も補給線も引けません

いわば、飛び地のような場所。ここを本拠にしたくても、危険過ぎてできません。

 

長浜城は柴田勝豊(甥で養子)に任せて、自分は本拠・北ノ庄に帰らざるを得ませんでした。

 

ならば、次の作戦。北ノ庄で外交作戦を展開して「秀吉包囲網の構築」を急ぐしかありません。

そのために、勝家は3つの方針を決めていました。

 

  • すでに協力関係にある「美濃」の織田信孝「伊勢」の滝川一益「長浜城」の柴田勝豊の三方面の拠点を、春まで確保する。
  • 書状を送って「中国地方」の毛利輝元「四国土佐」の長宗我部元親「三河」の徳川家康を外交で味方につけ、包囲網を拡大する。
  • 春の雪解けとともに自ら出兵。連携して秀吉をつぶす。

 

しかし、脂の乗り切った天才戦略家・秀吉には、こんな戦略はすべてお見通し。

 

まず孤立している「長浜城」を、あっさりと攻略

 

次に、肝心の勝家が身動きができなくなったのを見計らって、「美濃」にいる織田信孝を大軍で包囲

 

続いて、伊勢の滝川一益を攻撃すると、さすがの名将一益も、あっという間に大ピンチに陥ってしまいます。

 

勝家が豪雪に足止めされている間に「秀吉包囲網」は各個撃破の餌食にされてしまったのでした。

 

信孝と一益が潰れてしまっては、包囲作戦が台無しになってしまいます。

勝家自身が、少しでも秀吉のプレッシャーを引き受けて、彼らを持ちこたえさせる必要があります。

 

ここに至ってしまっては、もう雪掻きしてでも出撃するしかありません。

 

間の悪いことに、天正10年~11年(1582~1583年)の冬は、「50年に一度の大雪」が降るめぐり合わせでした。

遠慮なく降り積もる雪を、この時ばかりは勝家も恨めしく思ったことでしょうね…。

 

こうして、雪解けを待つ暇もなく出陣を余儀なくされた柴田勝家は、「賤ヶ岳の戦い」への運命の道を進むことになってしまったのでした。

 

 

タイトルは、柴田勝家の辞世の句から。

 

北ノ庄城にて、一緒に自害することを決めたお市が、まず詠みます。

 

「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れをさそふ ほととぎすかな」

意訳:それでなくても夏の夜は短いというのに、ほととぎすが呼んでいるから、そろそろお別れしなくちゃね。

 

それに応えて勝家が詠みます。

 

「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲居にあげよ 山ほととぎす」

意訳:夏の夜のように短い間のことだったけれど、ほととぎすよ、我らの名を生きた証として、雲の高みまで届けておくれ。

 

「夏の夜」という言葉は、一般に「短い時間」を表しているとされています。夏は夜が短いですからね。

 

でも、よくよく考えてみると、なんで「夏の夜」が出てくるのか謎。

 

二人が自害したのは、天正11年4月24日まだ春なんです。

短い時間を表すために、「夏の夜」なんて使うだろうか?

 

まぁ、使うんでしょうけど(笑)、そこであえて考え詰めてみると、二人が結婚したのは天正10年の6月から7月にかけて。つまり

 

「夏の夜」って、これのことなのではなかろうか…?

 

「結婚1周年さえ迎えられなかった、短い間だったな」

 

そんな想いが、二人の辞世の句には遺されているのではなかろうか…考えてしまうんですが、どうでしょうかねー。

 

 

そして、冬の雪のハンデを挽回できなかった勝家が、辞世に夏を詠むのが何とも歴史の皮肉かなと、そんな想いにも駆られてしまうのでした。

 

 

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