大河ドラマ『光る君へ』第17話「うつろい」見ましたー。

 

 

長徳元年(995年)4月10日。関白・藤原道隆薨御。

正二位・摂政関白内大臣。43歳没。

 

 

道隆役の井浦新さん、大河ドラマは『平清盛』での「崇徳天皇」役に続いて2回目の出演ですが、『平清盛』での退場回は、ロンドンオリンピックで1時間遅れて放送となっておりました。

 

納経クエスト(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11315429052.html

 

今回は衆院補選で、10分遅れの20:10から放送。

 

退場回で放送が遅れてスタートは、12年ぶり2回目。

井浦サン…何か持ってるんですか??(笑)

 

 

そして、ついに。ワタクシの趣味の範囲ですが。

酒飲み友達の藤原朝光と藤原済時とのリーマン3人卓呑みシーン無し…(大泣)

 

まさか、まさか朝光と済時が、まじでロクな台詞もないまま終わってしまうなんて…。

 

後の道長の歴史にも結構重要だったと思うのですが、平安大河のスリム化は止まりませんな…。

 

 

というわけで、今回も他に気になった所などを列挙していきたいと思います。

 

 

 

◆仲良き兄弟

 

明子女王のもとに、第一子が顔を見せておりましたね。

 

藤原頼宗(よりむね)。幼名は巌(いわお)。

正暦4年(993年)生まれの道長の次男(第3子)

 

『百人一首』75番歌の詠み人・藤原基俊の祖父にあたる人物です(頼宗-俊家-基俊)

 

ちぎりおきし させもが露を命にて
あはれ今年の秋もいぬめり


藤原基俊/千載集 雑 1026

 

基俊は祖母が伊周の娘なので、伊周の曾孫、道隆の玄孫にあたります。

ということは、つまり頼宗は後に伊周の婿となるわけですねー。

 

伊周の信用のなさと権力基盤の陰りが浮き彫りになった今回に、頼宗が初登場したというのは歴史オタク的には胸アツ。

 

…なのですが、大河ではこれまでのやり方を見る限りやるような気がしない…。ゆえにネタバレではありませんw(ぇ

 

頼宗の子孫は「中御門流」と呼ばれるようになって、『平清盛』の時代に大きく飛躍し、『鎌倉殿の13人』の頃になると "とある事情" から大々々注目の一門になっていくのです。が…

 

系図で見てみよう(一条家曖昧さ回避/中御門流)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12770667978.html

 

ワタクシのブログただでさえ長ったらしいのに、あんまり赤ちゃんに紙面を割くのもアレなので(笑)、以前に触れたのでリンクを回すとして、このへんで切り上げます。

 

頼宗を抱っこする明子のもとに、俊賢が登場。

可愛い甥っ子にたまらず破顔しておりましたw子供はいつでも人類の宝。

 

「次は女の子を産まないとな」と、現代の政治家だったらメディアにフルボッコされそうな発言を涼しい顔で発信。「男ってみんなそう」と、妹に呆れ返られております。

 

今回、定子も道隆に「はやく皇子を」「皇子を」「足らぬ、足らぬ」とせっつかれていて、貴族の娘はプレッシャーにさらされていたんだな…というかんじがしましたね。

 

親戚の娘や近所の娘や孫なんかに「はやくお嫁さんになって」「はやく子を産んで」「2番目のご予定は?」と、世間話に子作りネタを繰り出すデリカシーの無いおじいちゃん・おばあちゃんが平成の中ごろまで(今でも?)おりましたけど、千年前も変わらない根の深い関心事なんですね。

 

ともあれ、俊賢と明子、仲良き兄妹の姿が見れてほっこりしました(明子の同母弟・経房も出してくれ)

 

 

詮子のもとには、道長と道兼が揃い踏み。

 

この3者の仲良き姿が見れてほっこり…しないのが不思議のような不思議でないような(笑)

 

道隆の先が長くないことを予期して、今後のことを相談しておりました。

 

「バチがあたったんだわ」
「私は道兼の兄を推します」

「道兼の兄は好きではないけれど」

「年の順からして当然でしょ」

「あの伊周よりはマシ」

 

と、実資ばりに歯に衣きせぬ女院さま(笑)

 

「私も女院様にお助けいただけるとは思ってもおりませんでした…」←視聴者もついこないだまで誰も思ってませんでしたよw

 

では大納言の誰かを味方に付けますか…という道長に「私が推せばみんなついてくるから大丈夫」と女院さま。

 

唖然とする道兼と道長。政治は心理学だよ、兄弟。

 

 

◆パンデミック

 

道綱「3月20日に大納言朝光殿が亡くなったんだって…」

道長「皆さん、もうご存知です」

道綱「…あ、そう。……疫病らしいな…怖いことだ…」

顕光「この前の『陣の定』の時は、まだかかっておらなんだと思いたいな…」

公季「かかればあっという間らしいな…。『陣の定』の時はまだかかっておられなかったでしょう」

顕光「我らはもう邸から出ない方がよいのではないか?」

実資「邸に籠っておっては、政はできません!」

道綱「それはそうだが…恐ろしいなぁ…」

 

コビッド19が流行り始めて4年、どことなく周囲で聞いてきた会話とまるで同じ(笑)

 

あの時の混乱ぶりを今になって思い返すと、大変だったなぁと思うと同時に、ヒステリック過ぎだったとも、思ってしまいますね。

 

この『陣の定』での発言、自分はどの人と同じだったかなぁと探してみるのも、今後何か起きた時の足しになるのではなかろうか。

 

ワタクシは公季に近かったかな…。「まぁ、大丈夫でしょ。マスクと手洗いで乗り切りましょ。感染経路の情報があればなお良しですけど(←ここはついに行政レベルでは常に頼りなく)」みたいな、「予防をしっかりやって楽観視」なかんじでしたかね…。

 

ワタクシみたいなヤツ、周囲では何人か感染しているので、いまだに罹患していないのは運のいいことだったなと思います…もっと真剣に不安視しても良かったかも(-"-;

 

ちなみに亡くなったと言う朝光は、兼家の犬猿の仲だった兄・兼通の子で、この場にいる顕光の異母弟。弟が亡くなったのに…もうちょっと悲しむ素振りとか、ないもんなの??

 

あと、「長徳」の悪口を言ってましたけど、これを勧申したのは中納言の大江維時なので、あの場にいたはず…。顔をそむけていたんでしょうか(笑)

 

「陣の定」では「内大臣」伊周に対するヘイトが増していて、伊周も平然とした表情をするしかなくなっておりました。完全に孤立、というかんじ。

 

詮子の「周囲から嫌われているから、私の一押しでコロっとなります」の通り。詮子の政治眼は中々ですねw

 

 

◆定子覚醒、内覧復活。

 

父・道隆の先が短いことを悟り、定子が唐突に「政治家」の顔を見せ始めます。

 

…賢そうな女の子、というのは前から感じられましたけど、もうちょっと変化の過程を丁寧に描けませんでしたかね…。「女院さまに鍛えられました」みたいなこと言ってたけど、おままごと夫婦を冷たく見られただけでしょ(笑)

 

道隆が急に横暴になっていったのは、父がいなくなった環境の変化と病気の症状のせいかなって、無理矢理に理解できなくもなかったですが(それでも「急変だな」って思いましたけど)

 

そこで定子から伊周に提案された言葉が「内覧(ないらん)」

 

道長を語る上で外せない言葉ですねw

 

「内覧」は、天皇に奏上する内容を予め見ることができるという、いわば検閲職。

 

上げられた政策案が気に入らなかったら議会に差し戻せばいいのですから、実質「自分の意に沿った意見書だけを上げることができる」中々オイシイ職掌です。

 

「内覧」が初めて現れるのは寛平9年(897年)、醍醐天皇の御時のこと。

 

醍醐天皇は父・宇多天皇から譲位され、12歳にして即位するのですが、その時のトップが藤原時平(26歳・大納言)と菅原道真(52歳・権大納言)でした。

 

年少の帝なので「摂政」を立てたい所ですが、時平も道真も外戚ではありませんし(醍醐天皇の生母は勧修寺流藤原氏)、大臣でもありません。そもそも宇多上皇自体が存命でピンピンしていたので、ばっちり後見できます。

 

「摂政は要らないか…上皇後見のもと天皇親政で行こう!」ということになりました。

 

しかし、仁和寺に籠って仏道修行をしたかった宇多上皇は、後見を万全にするためにトップ2人に「奏請」と「宣行」の権限を与える詔を下しました。

 

これが「内覧」の始まりだったというわけ。最初は2人体制だったのですねー。

 

この時の「内覧」は昌泰4年(901年)に道真が大宰府に左遷され(「昌泰の変」)、延喜9年(909年)に時平が薨去すると、一旦消滅。

 

次に出現するのは、兼家の犬猿の仲だった兄・兼通の時代。

 

天禄3年(972年)10月23日、兼通たちの兄である伊尹が重病のため、摂政を辞しました。

 

時の帝・円融天皇は13歳。先代の冷泉上皇(同母兄)は健在でしたが、精神に難があるとして譲位した存在でもあり、後見人が必要でした。

 

この時、後見人として選ばれたのが兼通。兼通は「年齢順に」という安子(円融帝の生母で兼通の同母姉)の直筆書を持っており、円融帝がその遺命に従ったのです。

 

しかし、兼通はこの時「権中納言」で、「摂政・関白」になる条件を満たしていません。

 

そこで、与えられたのが「内覧」の権限。時平以来、63年ぶりの復活となりました。

 

伊尹は11月1日に薨御。この時、兼通の「内覧」も止められたという説と、「関白」に就任するまで続けられたという説があります。

さらに兼通の「関白」就任も、「伊尹没後の11月27日」説と、「太政大臣」になった後の「天延2年(974年)」説とがあり。

 

都合3つの説があるわけですが、『光る君へ』では「20年ぶりに…」という発言があったことから「974年以来の復活」、つまり「兼通が太政大臣になった時に停められた」説を採っていることが分かりますね(まぁ、時代考証の倉本氏が、この説の支持者なので、当然と言えば当然か)

 

「定子が男であったなら、私なぞ敵わなかっただろう」と伊周。

 

まひろに詮子に定子…このドラマには「男だったらひとかどの人物と言われたであろう女」が沢山出てきますねー。何かの対比になっているのかな。


 

◆100年目の左大臣

 

実資が「帝が心配だ」と言っているのを、陰でこっそり聞いていた一条天皇(14歳)

 

自分の政治力、自分の政治的立場に自信がなくなっていくご様子。

 

言っても14歳ですよ…まぁ、当時の感覚からすれば、現代の18歳くらいになるようですけれども…。

 

道隆から「伊周を次期関白に」と散々要請されても、道理を重んじて跳ね除けます。

 

「私は伊周が嫌いではないが…」と、戸惑う様子も見せつつ…板挟みは、いつでもつらいね…。

 

「聡明でございました」とナイスフォローする蔵人頭の俊賢。ここもポイント高いですw

 

当初の一条天皇が、あまりに政治に長けていないように見えるのは、輔弼するはずの道隆が「芸能には達者ながら御政道は疎かだった」ことを否定しない上で、もう1つ要因があったと思います。

 

それは、菅原道真の存在があったのです…というと、面白そうに思います?


前述のとおり、菅原道真は宇多天皇~醍醐天皇の時代の人。

 

昌泰4年(901年) に「宇多上皇を欺き惑わし、醍醐天皇を廃して斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、流罪の如く大宰府に左遷。

 

延喜3年(903年)、現地で薨去してしまいました。

 

ということは『光る君へ』からは100年ほど前の人ですが、この時代に、ある影響が及んでいます。

 

正暦4年(993年)、疫病が蔓延し出した時、「梅を口にしたら疫病が治った」という噂が広まり、「梅と言えば菅原道真」という連想が、京雀たちを賑わします。

 

「ということは、この疫病は道真公の祟りなのではないか…?」

 

その噂は朝堂にももたらされ、さっそく道真の祟りを鎮めるための政策が施行されるのですが、それが「贈左大臣」。道真が左遷される前は「右大臣」で、後に名誉回復して復位していたのですが、そこからさらに1つ進めたわけですね。

 

ところで、その疫病があった正暦4年(993年)といえば、長年「左大臣」を務めた源雅信がその職を辞した年(同年に薨御)

 

その「空位」に菅原道真を収めて、怨霊鎮魂の儀としたことになります。

 

ベテラン政治家の雅信がいなくなって政治力がガタ落ちになったというのに、新たな人事をすることなく、そこに「道真公」を入れて、実質「空位」のままにしてしまった…。

 

これが、一条天皇の政治がぱっとしなかった原因の1つではなかろうかと、ワタクシは思ったりしています。

 

もちろん、表向きは「怨霊鎮魂」といいつつ、本当は「朝堂の影響力を弱めて関白の権力を強めたい」道隆の陰謀だった可能性もありますねw

 

『光る君へ』では、花山天皇が早期に退位するように、町に悪い噂を流してやる気をそぐ策を立てて、早々と実行していた道隆。

 

どうせだったら、このような描写もあったら、あの時のエピも活きて面白そうだったんですけどねー。

 

(まぁ、道真公の影響というのは、ワタクシの戯れ言なんですけどね。なお「左大臣」には、1年ちょっと経った994年の夏に雅信の弟・重信が上げられています)


 

◆夢うつつの和解

 

まひろはいつものように(?)自邸で文書を書き写しております。これ慰みでやっているのか、代筆の仕事なのか、よく分からんですが(仕事だとしたら、印刷業?)

 

書き写していたのは「胡蝶の夢」…ワタクシも大好き『荘子』ですね!

 

昔者荘周夢為胡蝶

栩栩然胡蝶也

自喩適志与 不知周也

俄然覚 則蘧蘧然周也

不知 周之夢為胡蝶与 胡蝶之夢為周与

周与胡蝶 則必有分矣

此之謂物化

昔者むかし荘周そうしゅう夢に胡蝶と為る(昔、荘周は胡蝶となる夢を見た)

栩栩くくぜんとして胡蝶なり(ひらひらと飛んでいる様は胡蝶そのもの)

自らたのしみて志に適えるかな。しゅうたるを知らざるなり(胡蝶であることを楽しみ、満足して、自分が荘周であることを忘れていた)

にわかにして覚むれば、則ち蘧蘧きょきょぜんとしてしゅうなり(突然目が覚めて我に返ると、自分は紛れもなく荘周であった)

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを(荘周が見た夢で胡蝶になったのであろうか。それとも胡蝶が見た夢で荘周になったのであろうか)

周と胡蝶とは、則ち必ずぶん有らん(しかし、荘周と胡蝶は違う存在である)

此れをこれ物化ぶっかと謂う(このことをまさしく「万物の変化」というのである)

 

 

荘周というのは、荘子の姓名。眠った時、胡蝶になって空を舞う夢を見たのですが、目覚めた時、もとの荘周に戻っていました。

 

なんだ夢だったのか…いや、それは本当なのか?本当は私は胡蝶で、荘周である今の方が夢の中の出来事なのではないか?そうではないと、なぜ言い切れるのか?

 

そもそも、万物は変化を繰り返し、その時に見えているものは全て変化のうちの1つに過ぎない。荘周と胡蝶も本来は区別なんてないのではないか。全く別の存在であると、何を根拠に言い切れるのか?

 

「今見えているのは、変わり続ける万物のほんの1つの姿」…という、粗いような精錬されているような、なんとも言えない『荘子』らしいお話。

 

「だから現実を決めつけ、捕らわれ、しがみつくのは愚の骨頂」のような意味合いも持っています。

 

『荘子』は中学・高校生みんな大好き。

ワタクシも当時「諸子百家」では『孫子』とトップを争っておりましたなー。

 

ちなみに「老荘思想」といって『老子』と『荘子』は同じ「道家」と括られるのに、中高生は『老子』はそんなに好きじゃないですよね。

 

これは、関心事が『老子』は「自分の外(処世)」にあって、『荘子』は「自分の中(自在)」にあるため、なのかなぁ…というあたりで、ずっと止まっています(笑)

 

『荘子』がいつ日本に伝わったのかは、ワタクシもよく分かりませんが、奈良時代にはあったみたい。平安時代編纂の『古今和歌集』には、これに影響されたような和歌が収録されています。

 

世の中は 夢かうつつか うつつとも
夢とも知らず ありてなければ


よみ人しらず/古今集 雑 942

 

「世の中は夢なのか現実なのか、自分には分らない。何故ならば、それは有って無いものだから」みたいな意味。「有って無いもの」という言葉には「永遠」味がありますね。

 

ちなみに「有り無し」といえば、在原業平の有名な和歌「都鳥」のアレにも詠まれています。

 

名にしおはば いざ言問はむ みやこ鳥
わが思ふ人は ありやなしやと


在原業平/古今集 羇旅 411

 

「都鳥よ、『みやこ』の名を持つお前に問いたい。私が思う人は、都で元気にいるのかどうかと」みたいな意味。

 

こちらは「元気かどうか」という意味になっています。「元気でいる」がすなわち「確かにある」となるのは、当時の死生観が見えてくる…のかもしれません(たぶん)

 

 

「胡蝶の夢」が画面にアップになった次の瞬間、喧嘩別れしたさわが訪ねて来ます。

 

「石山詣で(第15話「おごれる者たち」)」以来なので、ドラマ中では2年ほどが経過しておりますね。

 

これまで、まひろから送られてきた文を筆写して、少しでも まひろに近づこうと努力していたと、書き写しを見せる さわに、まひろ感動。

 

「書くことの意義」を見出し、将来の「紫式部」への道が、だんだん鮮明化してきています。

 

SNSでリツイート(今だとリポストか)やトラックバックされた時の驚きと高揚感を思い浮かべると、近い感覚が分かるのかもしれないですねw

 

何者かになるために一所懸命に何かを書き写すといえば、『鎌倉殿の13人』の上総広常を思い出しますねー。あちらはむさ苦しい坂東武者、こちらはちょっと抜けた貴族令嬢で、印象はだいぶ違いますけどw

 

しかし、まひろの方から、これまで何があったのかを語るシーンはなし。

 

要所要所で助言してくれた宣孝は筑紫に赴任中。尊敬する女主人・倫子には接近できず、弟は出世街道を歩み始めて不在。まひろはひとりぼっち…でも、それを言うことはなかったんですなー。

 

 

◆かすんだ目の視界

 

笛を吹くこともままならず倒れてしまった道隆は、安倍晴明を呼びます。

 

「目がかすむ…手がしびれる…咽が渇く…これは誰ぞの呪詛…!」

 

しかし、晴明は冷たく否定。

 

「恐れながら呪詛ではございませぬ。寿命が尽きようとしております」

 

寿命を伸ばせ…という道隆に、難しいですがやってみます、と告げるも無駄だからやらない(笑)ビジネス陰陽道w

 

こういう症例を、たくさん見てきたんでしょうな。だから助かるかどうか分かる…と。「せめて苦しまないように祈ってあげます」という従者すまるがいい人で。

 

「兼家とのやり取りが好きだった」という晴明ですが、道隆とは話していても楽しくなかったのかなぁ…と思うような淡白な会話でした。先を知って内心では見限っていた…とも取れますけども。

 

しかし呪詛に「心当たりがありますか」と問われた道隆が挙げた名前が「道兼、詮子、道長…」と兄弟ばっかりなのはどうしたの…。

 

発言も今回は「伊周を関白に」「定子は皇子を産め」「喉が渇く」ばっかり。

 

身体的にも精神的にも政治的にも視野が狭くなっていますね…。

 

それ以外だと、高階貴子と昔のことを思い出す下りでは、記憶がしっかりしておりましたね。

 

忘れじの ゆくすゑまでは かたけれは
今日をかぎりの命ともがな


儀同三司母/新古今集 恋 1149

 

「いつまでも忘れず想って下さると仰いますが、将来それが続くのは難しいことです。そう言って頂いた今、この命が尽きてしまえばいいのに」みたいな意味。

 

道隆と貴子は職場恋愛(朝廷恋愛?)の末の結婚だったそうですが、日本トップの摂関家と中流貴族の高階氏とでは、家格が釣り合いません。

 

猛アタックをかけてくる道隆に「嬉しいけれども立場が違い過ぎます…」という返事を込めて送った和歌が、『百人一首』に採られています。

 

それを道隆の今際の際に持って来て「ずっと忘れずに覚えていたよ」としたのですね。中々ににくい演出ですな。

 

これ、兼家が寧子に見守られながら昔の思い出の和歌を詠んだのとシチュエーションが同じ…。

 

東三条家の皆さんは、こうやって亡くなっていくのでしょうか?(道兼はどうすんだろ)

 

 

 

というわけで、今回は以上……なのですが。

 

 

「胡蝶の夢」の話。長々と触れた割りには、ドラマとの関わりはおざなりで。

 

単にワタクシが『荘子』が大好きだから、いつものように脱線したんだろうな…程度に思っていません?

 

それは、51%外れています。49%当たっているけれど(笑)

 

というのも、道隆さまの最期のシーン。よく見てみると、庭に蝶が飛んでおりましたよね。

 

 

まひろが「胡蝶の夢」を書き写していたの、さわがやって来て「夢みたいな現実」あるいは「喧嘩別れしたのが夢のように変化の1つだった」の暗示だと思っていたのです。

 

庭に舞う蝶を見て、あれ「中関白家の栄華」の喩えでもあったのかな…と思いつきました。

 

とはいえ、それはどういうことなのか?

 

「中関白家」というのは「関白兼家」と「御堂関白道長」の「途中にあった関白家」という意味。

 

「中関白家=胡蝶の夢」は、その変化の1つに過ぎなかったね…ということだったのか…?

 

 

もしかしたら、脚本家はそういうつもりだったかもしれないけれど。

 

「そんなのは、なんかイヤだ」と、ワタクシの心がつぶやく。

 

 

『荘子』大好きなワタクシが「胡蝶の夢」や「無用の用」などと並んで好きな『荘子』の1つに「忘言之人」があります。

 

筌者所以在魚 得魚而忘筌

蹄者所以在兎 得兎而忘蹄

言者所以在意 得意而忘言

吾安得夫忘言之人 而與之言哉

せんは魚に在る所以ゆえんなるも、魚を得て筌を忘る(網は魚を取るためにあるが、魚を取ると網のことは忘れてしまう)

ていは兎に在る所以なるも、兎を得て蹄を忘る(罠は兎を取るためにあるが、兎を取ると罠のことは忘れてしまう)

げんは意に在る所以なるも、意を得て言を忘る(言葉は意味を得るためにある。意味を得たら言葉のことは忘れてしまうだろう)

われいずくにか忘言ぼうげんの人を得て、之れとともの言わんかな(私はそのように言葉を忘れることのできる人を探して、ともに語り合いたいものだ)

 

 

たくさんの言葉を残しながら、言葉を忘れ去った人と語り合いたいという、荘子らしいトリッキーなお話。

 

魚を得たら網は用が無くなり、兎を得たら罠は用無しとなって、忘れられてしまう。なんとも寂しいこと…と思います?

 

それは違うのではなかろうか。

 

言葉は意味を伝えるもの。だから、意味を理解されたら、言葉は用無しになる。

意味を分かってくれた人がいるなら、用が無くなっても別にいいじゃないですか。

 

無くなるなんて、どうってことはない。

すべては「有り」で「無し」、「無」のようでいて「有」なのだから。

 

「中関白家」だって、同じこと。

 

次の権勢の家が出たら、用無しの「中関白家」なんて忘れられてしまう。

 

で、だから?それが何だっていうのか。

 

「中関白家」は権力の世界から姿を消してしまった。

けれども「名」は残った。「華」は残った。

 

「名」や「華」を残すために人は働き、家名は輝き、歴史はあるのではないのですか。

 

後を受け継ぐことになった道長は、確かに「中関白家」を忘れようとしたかもしれない。

 

でも、「中関白家」が作り上げたエッセンスで成し遂げたことは、少なくない。

 

意味がなかったなんてことは決してない。

 

無くなることは寂しいことだけれど、決して愚かなことじゃない。

 

あの庭に飛んでいた胡蝶は、そんなメッセージもあったのではないかな…と。

 

 

…すみません。ワタクシはそう思ったりもしましたけど、普通に考えたら随分と強引な解釈ですな。

 

『荘子』と「中関白家」に思い入れがあり過ぎるあまり、だいぶ無理にこじつけてしまいました(御礼)

 

 

 


道兼役・玉置玲央サンのSNSより

 

 

 

 

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