大河ドラマ『光る君へ』は、次回(というか明日!)いよいよ「寛和の変」が描かれます。
「寛和の変」は、寛和2年6月23日夜(986年)、時の帝・花山天皇が、元慶寺において突如として出家し、勝手に皇位を下りてしまった事件。
↑この予告のサムネールが秀逸すぎるww
最愛の寵姫を失ってしまった悲しみにくれる天皇を「后さまのために出家されては」と言葉巧みに連れ出した、藤原氏による政変であったとされています。
黒幕は、藤原兼家。これによって次期天皇となる一条天皇の祖父にあたる人でした。
藤原兼家@段田安則さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より
もしも、しくじってしまったら、兼家たちは「謀反事件」を起こした政治犯に転落し、「東三条家」の命運は終わってしまいます。
おそらくは懐仁親王も「廃太子」の憂き目にあってしまう、決して失敗は許されない大博打でした。
結果から見ると、一滴の血も流すことなく、若き帝から幼少の皇太子へと、大円満な皇位のバトンタッチとなった事件。
その政変の舞台となったのが「元慶寺」。
実は、当ブログでは以前から「神社仏閣の歴史シリーズ」という企画ものを、やらかしておりまして…。
今日は、大河ドラマに関連して「元慶寺」の歴史を、いつものようにまったりとやってみたいと思います。
「元慶寺(がんけいじ)」は、貞観10年(868年)に建立された寺院。
場所は、「平安京」から東山を越えた先にある盆地・京都「山科」。
山科というと、紫式部の出自である「勧修寺流藤原氏」の由来となった「勧修寺」のことを、以前ちらっと触れたりしました。
系図で見てみよう(藤原氏/紫式部周辺)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804259307.html
「元慶寺」は、そこよりもずっと北に4km(徒歩で1時間)ほどの場所にある寺院です。
開山は藤原高子(たかいこ)。
以前にも紹介しましたが、藤原良房の養女で、基経の実妹にあたる女性でした。
伝説的歌人「六歌仙」の1人・在原業平とのアバンチュールでも知られ、それを含めた様々な困難を乗り越えて、高子は清和天皇の皇后となりました。
藤原の兄弟たち(権力者選抜編)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12802109450.html
「元慶寺」が創建された貞観10年(868年)は、清和天皇と高子の間に、貞明親王が生まれた年です。
貞明親王は、後に即位して陽成天皇となる人物。
『百人一首』13番の詠み人でもあります。
つくばねの 峰より落つる みなの川
恋ぞ積りて淵となりぬる
陽成院/後撰集 恋 776
高子が、貞明親王(陽成天皇)の誕生に際し、無事の出産と成長、立派な天皇になることを発願して建てられた…それが「元慶寺」なのでした。
ちなみに、「元慶寺」の「元慶(がんぎょう)」は、実は元号。
清和天皇の「勅願寺」となったことから、寺名とすることが許されたのです。
877年、陽成天皇が即位したことで「貞観」から「元慶」へ改元。陽成天皇が事実上の廃位となり、光孝天皇が即位した885年に「仁和」に改元されています。
「元慶」は、陽成天皇を象徴する元号ですなー。
創建当初から「勅願寺」になるまでの、868年~877年の間は「華山寺」と呼ばれていたみたい。場所も現在地とはちょっと違っていた…とも言われています。
ところで、山科と天皇家との関係を遡ってみると、飛鳥時代の天智天皇に辿りつきます。
というのも、山科には天智天皇の御陵「山科陵(御廟野古墳)」があるから。
天智天皇は38代天皇。626年、飛鳥(奈良県)の生まれ。『百人一首』の冒頭を飾る、1番歌の詠み人でもあります。
秋の田の かりほの庵の苫を荒み
わがころも手は露に濡れつつ
天智天皇/後撰集 秋 302
諱は葛城皇子(かつらぎ)ですが、『日本書紀』などで通称として登場する「中大兄(なかのおおえ)」の方が知られていますかね。
「中大兄」と言えば…?そう。中臣鎌足(藤原氏の祖)とともに、時の権力者・蘇我入鹿を討ち、蘇我本宗家を滅ぼした「乙巳の変」(645年)で有名。
大化の改新の黒幕(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11441484993.html
「大王家を蔑ろにし、自分が王位につこうとしている、けしからん!」という理由で入鹿を討ったと言われていますが、全方位外交をやろうとしていた入鹿に対し、滅亡した百済の再興をやりたかった葛城皇子…という、本当の原因は「外交政策の決裂」にあったのでは…とも言われているみたい。
蘇我氏を打ち払った後、百済復興を企てて朝鮮半島に渡り「白村江の戦い」(663年)を起こしますが、唐・新羅の連合軍に大敗して撤退。
667年、何故か飛鳥に戻ることなく(外征に敗北したため、国防上の問題だったとも)「近江大津宮」(滋賀県)に遷都して即位。669年、この地で崩御しています。
…と歴史を振り返って見てみると、天智天皇は全く「山科」と関係なく…。何故ここに御陵が?というかんじ。
『扶桑略記』によると、ここで遭難(または暗殺)されて行方不明となり、天皇の靴が片方だけ落ちていた場所に御陵が築かれた…と書かれているのですが、平安時代末期に編まれた書なので、真相を語っているかは疑問満載w
一応、史実としては、天智天皇は趣味の「遊猟」のために度々山科を訪れていたので、山科に愛着はあったかもしれません。「愛する山科に墓を造って欲しい」と、遺志によって定められた可能性はあります。
あるいは、中大兄の腹心だった中臣鎌足の妻(鏡女王)が、このあたりに「山階寺」を建立しているので、その関係かもしれません。
また、天智天皇の娘・鵜野讃良(うののさらら。41代・持統天皇)は、「平城京」に都が移る前に「藤原宮」を造営して遷都しているのですが(694年)、山科の地は「藤原京」のはるか真北に位置しており、国家鎮護のために父帝の御陵をここに定めたのではないか…とも言われています。
(ついでに言うと、奈良「平城京」の真北でもあります)
まぁ、正解は分からんということですな…というか、話がはるかにそれてしまった(汗)
「元慶寺」のあたりの地名は、天智天皇の時代には「華頂(かちょう)」と呼ばれていたみたい。
「華頂」は中国における仏教の聖地「天台山」の別称。天台山の最峯(山頂)には、いつも花が咲いていたことから、こう呼ばれたようです。
「平安京遷都」の頃に「華→花」「頂→山」と変更されて「花山」と称したと言われています。
崇仏派の蘇我氏を滅ぼした中大兄(天智天皇)の御陵が、仏教の聖地「華頂」を冠する場所にあるというのが、なんだか面白いなーと思ったので、ついでに紹介してみましたw
ちなみに、持統天皇は『百人一首』で父帝に続いて、2番歌の詠み人ともなっています。
春すぎて 夏来にけらし白たへの
ころもほすてふ あまの香具山
持統天皇/新古今集 夏 175
さて、話を平安時代に戻して…。
「元慶寺」の開基は、遍昭。俗名は良岑宗貞(よしみね の むねただ)。
『百人一首』12番の詠み人ですねー。
あまつ風 雲のかよひ路吹きとぢよ
をとめの姿しばしとどめむ
僧正遍昭/古今集 雑 872
良峯氏は桓武天皇系の皇別氏族で、遍昭は桓武天皇の孫に当たります(桓武帝-良岑安世-遍昭)
遍昭が俗世時代に蔵人として仕えた仁明天皇は「はとこ」の関係で(桓武帝-嵯峨帝-仁明帝)、昵懇の仲でした。
しかし、嘉祥3年(850年)、仁明天皇は41歳の若さで崩御。その悲しみのあまり、遍昭は35歳で出家してしまいます。
桓武天皇の孫という高貴な生まれで、将来を嘱望されていた若貴族が、主君との死別に悲嘆して、世俗を棄てて僧侶となった。
遍昭の出家は当時大変驚かれ、憐みと尊敬の眼差しを持って注目を浴びた…と言われています。
一方で、遍昭の祖母である百済永継(くだら の ながつぐ)は、桓武天皇の後宮に入る前は、藤原内麻呂の妻となって、冬嗣を生んでいました。
冬嗣は高子の祖父(冬嗣-長良-高子)。つまり高子にとって遍昭は、祖母の永継を通じて従叔父(祖父の異父弟の子)。
「元慶寺」の開基に遍昭が任されたのは、本人の能力や名声もあったのでしょうけど、こうした高子との縁戚の近さも、あったのでしょうかねー。
「元慶寺」ゆかりの陽成天皇が、伯父である藤原基経によって、事実上の「廃位」となった後。
皇位継承者に選ばれたのは時康親王。遍昭と仲良しでその死が出家のきっかけとなった仁明天皇の、第3皇子でした。
時康親王は、即位して光孝天皇。『百人一首』15番歌の詠み人です。
きみがため 春の野にいでて若菜摘む
わがころも手に雪は降りつつ
光孝天皇/古今集 春 21
光孝天皇は、父帝のために世を棄てて出家した遍昭に、感謝と尊敬の念を抱いていたようで、厚く尊重したと言われています。
仁和元年(885年)、光孝天皇により遍昭は「僧正」となり、花山の「元慶寺」を住寺していたことから「花山僧正」と呼ばれることになりました。
ちなみに、「花山」というから花が沢山ありそう…だけど地名なんだよね…と思ってしまうのですが、「花山」の花が登場するエピソードもあります。
遍昭の顔見知りの女官たちが、近江の志賀寺参詣の帰り道、遍昭の住持していた「元慶寺」に立ち寄って、藤の花を見物した時のこと。
女官たちは、そのまま満足して帰ってしまい、風流ではないふるまいを遍昭はこんな和歌で窘めています。
志賀よりかへりける女どもの 花山にいりて藤の花のもとにたちよりて 帰りけるに、よみておくりける
よそに見て かへらむ人に 藤の花
はひまつはれよ枝は折るとも
僧正遍昭/古今集 春 119
花だけ見てさっさと帰ろうとする人に、藤の花よ、絡みついて引き留めてくれよ。枝が折れてしまおうとも…みたいな意味。
「藤の花だけでなく、もっといろいろお花ありますのに」ということですかね。
また、「花だけ見て仏さまを拝まないの?」という意味も込められている…とも言われています。
まぁ、どのみち厳しく怒っているわけではなさそうで、遍昭のおおらかな性格も見出せそうだな…と思います。
光孝天皇の子・宇多天皇も遍昭を尊重したようで、退位・出家後に「元慶寺」を行幸しており、そのお帰りの際に遍昭が詠んだ歌が、「元慶寺の御詠歌」として掲げられているそうな。
春花山に亭子法皇おはしまして かへらせたまひけれは
待てといわば いともかしこし 花山に
しばしと啼かん 鳥の音もがな
僧正遍昭/拾遺集 春 1043
法皇さまに「お待ちください」などと畏れ多くて申し上げることもできません…「しばし」とでも啼く鳥でもいたらいいのになぁ…みたいな意味の、別れを惜しむ和歌となっています。
こんな風に、皇室とも所縁が深く栄えた「元慶寺」でしたが、室町時代に「応仁の乱」(1467年~1477年)の兵火を被災してからは荒廃したようで、小堂があるだけの寺院となり果てたみたい。
江戸時代の安永8年(1779年)になって再建が始まり、天明3年(1783年)に落慶し、入仏供養が行われたようです。
訪れると一際目を引く(らしい)「唐風龍宮造鐘楼門」の山門は、寛政4年(1792年)の建立。
江戸時代の山科といえば、「赤穂浪士討入事件」の指導者・大石内蔵助(1659年~1703年)が隠棲した場所としても知られていますが、もしも彼が「元慶寺」を見ていたとしたら、平安時代とも現在とも全く異なる小堂状態の「元慶寺」だったことになりますねー。
というわけで、「元慶寺の歴史」は以上…なのですが。
ここからは、ほぼ今回の本題である、花山天皇が「元慶寺」で出家したことについて。
そもそも、どうして花山天皇を出家させるのに「元慶寺」が選ばれたのだろう?
天皇を秘密裏に連れ込んで出家させる。
その舞台とするなら、最有力候補と思われるのは北山の「仁和寺」。
ただ、ここは円融上皇が御所としておりました。そこにおしかけるのは憚られますし、花山天皇も円融上皇に近寄るのはイヤだったと思うので(笑)、ここは除外。
平安京の入り口には、空海が密教道場に魔改造した「東寺」があります。
でも、平安京の最北にある大内裏から、南端にある「東寺」に行くには、平安京を縦断しなければなりません。秘密裏に行いたいのに、これでは目立ちすぎてダメ。
ならば、平安京から鴨川を越えると、兼家の祖父である藤原忠平が建立した「法性寺」があります(現在の「東福寺」のあたり)。藤原の寺で天皇が出家というのも難ですが、そんなに御足労願わずに行けるので、迅速に事を運ぶなら適地です。
ただ、同じ藤原氏とはいえ、兼家・道兼たち東三条家の者たちと「法性寺」の関係は、ワタクシにはよく分かりません。
もしかしたら、九条流でも嫡流に当たる伊尹の子孫たちが管理していたのでしょうか?そうだとするなら、管理者は義懐だったかもしれず…。だったら、ゼッタイにダメです(笑)
とすると、次の有力候補は「比叡山延暦寺」。けれども、ここは遠過ぎる…。
しかし、「元慶寺」だって、平安大内裏からは鴨川を渡り、東山を越え、山科まで入った所にあるお寺。十分に遠過ぎます。
途中で露見したら大変なのに、悠長なことのようにも感じられます(まぁ、遠いからこそ露見まで時間がかかり、もし露見しても時間稼ぎになる…ということだったかもしれませんが)
そもそも、「元慶寺」まで行くのなら、その途中のような場所にある「清水寺」でも良かったのではなかろうか。「元慶寺」なら良いけど「清水寺」ではダメな理由って、何だったんだろう?
こうやって考えると、絶妙な場所にあるようでいて、「元慶寺」で出家を…と考えるのは、結構「謎」なかんじがしてしまいます。
花山天皇を出家させるのに「元慶寺」が選ばれた、その理由。
それは、もしかしたら今も「元慶寺」の北隣にある「華山寺」にあったかもしれない…といったら、面白そうに思います?
「寛和の変」の時、「一緒に出家しましょう」と道兼が花山天皇を誘惑した、その場にいた者の1人に、「厳久(げんきゅう)」という僧侶がおりました。
厳久は出自不明。しかし、天皇のそばにいたということは、そこそこ徳はあったか、あるいは偉い誰かの差し金で侍っていたということですかね。
そして、花山天皇の出家の意思を高めていたのは、『光る君へ』では安倍晴明が演出していましたが、実際に厳久が吹き込んでいたようです。陰陽師が出家を勧めるのは「ん?」となりますが、僧侶がささやいていたなら、自然な感じがいたしますな。
「寛和の変」当日、有明の月が雲隠れした暗がりを縫って、山科へと足を運んだ花山天皇御一行に、厳久も同行。
「元慶寺」に着いて、花山天皇が髪を落とした時、道兼は「父に最後の姿を見せたい」と言って、さっさと引き返してしまったのですが、厳久はずっと天皇(すでに法皇ですが)のそばにおりました。
一条天皇へと皇位が移って、永延元年3月(986年)、詮子が「慈徳寺」を創建するのですが、厳久は「初代阿闍梨」に任ぜられています。
その「慈徳寺」があった場所が、現在の「華山寺」のある所だったと言われています。
しかし、藤原実資の『小右記』によると、「慈徳寺」の落慶供養は長保元年(999年)。創建から13年の開きがあります。これはどういうことか?
もしかしたら「慈徳寺」となる前にも、そこには寺があって、阿闍梨別当として赴任する前から、厳久はそこの住持だったのではなかろうか。
そのお寺は、もしかしたら前述した「現在の場所とはちょっと違っていたかつての元慶寺」で、「華山寺」という寺名だったのかも。
そして、厳久にゆかりの強い寺だったからこそ、花山天皇の出家に「元慶寺」が選ばれたのでは…。
考えてみれば、6月23日の深夜、御所に花山天皇の姿が見えないことに気づいた義懐は、そこから何時間も経たない翌朝に、遠方の「元慶寺」で「目もつぶらかな小法師」となった花山法皇を見つけています。
これは、御所中を探して、大内裏中を探して見つからず、「まさか厳久が関わっているのか!?」と気づいた時に「厳久が連れ去ったなら元慶寺」とすぐに連想できたからこそ、この速さで見つけられたのではなかろうか。
となると、「寛和の変」の真の実行犯は、厳久だったとも考えられます。
その後、厳久の立身出世はすさまじい。
阿闍梨となった年の5月、摂政兼家が主催した「法華八講」の講師に選ばれています。権力者が主催する大きな仏事で講師を務めることは、この時代の僧侶にとって高僧となる出世の第一歩でした。
長保元年(999年)に権少僧都に転じると、長保4年(1002年)には権大僧都へと昇進。
そして、詮子といえば正暦2年(991年)に出家して日本史上初の女院「東三条院」となった女性ですが、この出家に奉仕したのは「厳久」でした。
詮子が創建した「慈徳寺」の別当に指名されたのも、詮子の出家の戒師を務めたのも、厳久。
この厳久と詮子の近しさ…。
「寛和の変」は、兼家が主導し、道兼が斬り込み隊長となり、東三条家が一丸となって大博打を打った政変だと言われていますが。
もしかしたら、兼家が天皇のもとに道兼を送り込んでいたように、詮子は厳久を送り込んでいたのかもしれない。
そして、我が子・懐仁親王を早く即位させたかったがために、厳久を使って「花山天皇落飾事件」は引き起こされた…。
本当の黒幕は詮子だったのかもしれない?とも考えられるのですが、どうでしょうかねー。
ただ、「寛和の変」の時、詮子は24歳。別に待てない年齢ではなく…。
一方の兼家は57歳で、「花山天皇の譲位をのんびり待っていたら自分は摂政になれない」という焦りが、急変をもたらした事件に繋がったと言われています。
そう考えると、動機は兼家のほうにこそあって…。
まぁ、『光る君へ』では仲の悪い父娘ですが、実際にはそんなことはなかったと思うので(もし仲が悪かったら、懐仁親王ではなく居貞親王を次期皇位にと考えたと思う。冷泉皇統が正統でしたからね)、「やり手の父が生きている内に」と詮子が考えた…というセンも、あるのかなぁ。
以下、余談。
『光る君へ』で藤原兼家を演じておられる、段田安則さん。
wikipediaによると、ご出身はなんと「元慶寺」のある京都山科。
で、出身中学校が「京都市立花山中学校」なんだそうです。
Google Mapで調べてみたら…なんと「元慶寺」のご近所さん!!
偶然なんでしょうけれど、どうやって引いてきたのか分からんほどの、ものすごい縁…。
ご自身が黒幕の兼家となって「寛和の変」が演じられることのご感想。
NHKさん、どこかで伺ってくれませんか……(それとも、もうある??)
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