今日は、こちらのニュースからネタを引っ張ります。

 

奈良時代の斎王宮殿、初確認 井上内親王の正殿か 三重・明和(外部リンク)
https://yomotto.jp/2023/10/13/1436056/

 

斎王というのは、皇室の祖神であるアマテラスを祀る伊勢神宮に仕える未婚の皇女さまのこと。

 

飛鳥時代の40代・天武天皇の時代に整備されて、建武親政時代に消滅するまで(何度かの危機に晒されながらも)続いた制度でした。

 

斎宮跡は1989(平成元)年から発掘が始まり、平安時代の方格街区や内院(斎王の居所)、寮庁(役所の中心)や飛鳥時代の斎宮の正殿跡は見つかっていたが、奈良時代の遺構は見つかっていなかった。斎王の住まいとしては飛鳥時代に次いで2カ所目で、規模も2倍近くだという。

 

ほほう。奈良時代の様子が伺える遺跡は、見つかっていなかったんですか。

 

飛鳥時代も見つかっていなかったのなら、まだ分かるけれども、間の奈良時代だけスッポリ抜け落ちているっていうのは、何故なんでしょうかねぇ(天武朝だったから=王統が違っていたから?)

 

 

で、今日反応してみたいのは、ここの部分。

 

今回の正殿は、721年から斎王を務めた聖武天皇の第1皇女・井上(いのえ)内親王などが住まいや儀式で使ったとみられる。

 

井上内親王!!

 

このニュースをSNSで見ていた時は、会社で仕事中だったのですが、思わずヘンな声が出ちゃいそうになりましたよっと。

 

 

井上内親王は、引用文にもあるように、45代・聖武天皇の皇女さま。

後に49代・光仁天皇(50代・桓武天皇の父)の正妃となっています(もっとも、夫が即位したのは結婚してから18年前後経ってからのことですが)

 

彼女は10代から20代後半にかけて斎王を務めておりまして、今回発掘された斎王宮殿跡の場所に居住していた…というわけなんですかね。

 

というのをダラダラしゃべっても分かりにくいだけなので、系図で確認してみると、このようになります。

 

 

聖武天皇には、二男三女の皇子・皇女がおりました。

 

井上内親王は縣犬養広刀自(あがたいぬかい の ひろとじ)という夫人を母として、聖武天皇の第一子として誕生しました…が、どちらかというとマイナーな部類に入る女性(^^;

 

有名なのは、阿倍内親王。井上内親王の1歳年下の異母妹。母は藤原不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ。別名「光明皇后」)。

 

聖武天皇から譲位されて「孝謙天皇」となりました。晩年には弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)という僧侶と、皇統をゆるがす事件「宇佐八幡宮神託事件」を起こした女帝…というと、「ああ」となる方もおられるのではなかろうか。

 

同じく光明皇后を母として、基王(もといおう)という弟も生まれているのですが、生後1年にして夭折。

落胆した光明皇后が基王の面影を残した仏像を作らせた…それが興福寺の、あの少年の顔をした阿修羅像だった…なんて言われていたりもしますねー。

 

基王が亡くなった神亀5年(728年)、井上内親王の同母弟・安積親王(あさか)が誕生。

 

しかし、その前年の神亀4年(727年)に、井上内親王は斎王としての勤めに入っていたので、弟が出来たことは遠く伊勢の地で聞いたものと思われます。

 

というわけで、2人の姉弟が会ったことがあるかどうかは微妙な所だとは思うのですが、後に8歳の安積親王が、斎宮として勤める19歳の井上内親王のために写経を行ったりしています。これはもう、姉として可愛くて仕方がなかったのではなかろうかw

 

ところが、天平16年(744年)、安積親王は17歳の若さで急死してしまいます。

あまりの突然の死に、藤原仲麻呂が暗殺したのではないかとも言われます。

 

この年、おそらくは安積親王の薨去を受けて、井上内親王が斎王を解かれて退下とななり、帰京しています。

 

まとめてみると、井上内親王は養老元年(717年)生まれで、神亀4年(727年)に伊勢へ下向、天平16年(744年)に退下。つまり、10歳から27歳まで斎王だったわけですねー。

 

天平勝宝元年(749年)、皇太子であった井上内親王の異母妹・阿倍内親王が、聖武天皇から譲位されて即位しました(=孝謙天皇)

 

ということは、もし井上内親王が男子を産んだとしても、もはや阿倍内親王の地位を脅かすことはない…こうして警戒が解かれたことで、井上内親王の結婚が解禁。

 

天平勝宝4年(752年)頃、井上内親王は7歳年上の白壁王(しらかべ)と結婚することになりました。

(ちなみに、山部王…後の桓武天皇…は天平9年(737年)生まれなので、成人した前後の出来事になりますね)

 

白壁王は、後に即位して「49代・光仁天皇」となる人物ですが、それはいくつもの偶然と不幸が重なった結果であって、この頃は「政争に巻き込まれる可能性のない凡庸な皇族」でした。

 

天平勝宝6年(754年)、38歳で初子である酒人女王(さかひとじょうおう)を出産。

天平宝字5年(761年)、45歳で待望の男児、他戸王(おさべおう)が誕生。

若い時期を斎王の勤めに捧げたのもあって、高齢出産となっておりますな。

 

神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御すると、政局とは無縁だったはずの夫が、皇位継承者として急浮上。

 

白壁王は天智天皇の孫で、井上内親王は天武天皇の玄孫。

その2人の間に生まれた他戸王は、両王統の合流を果たすことができる…おそらくは、それが白壁王が選ばれた理由でした。

 

白壁王が光仁天皇として即位すると、他戸王は親王宣下を受け、さらに立太子。井上内親王も皇后となりました。

 

ところが、藤原式家が「次の天皇は山部王にするぞ」と陰謀を画策。

 

宝亀3年(772年)、母子の後ろ盾だった左大臣・藤原永手(ながて。藤原北家)の薨去を「好機到来」と捉えたかのように、「○○は△△を呪詛した!重罪だ!処刑だ!」という藤原氏のいつもの得意技「濡れ衣の罠」に母子をハメます。

 

井上内親王は皇后を廃され、同じく皇太子を廃された他戸親王とともに、奈良の川原寺に幽閉されてしまいました。

 

 

宝亀6年(775年)4月27日、2人は幽閉先で同日に薨去。井上内親王、58歳。暗殺もしくは自害であったと考えられています。

 

長らく伊勢斎王を勤め、異母妹に警戒され、やがて自由となって高齢出産を乗り越え、皇后にまで登り詰めた果てに、廃后の挙句に息子と一緒に死を迎える最期が待っているだなんて、思いもよらなかったでしょうね…。

 

 

というわけで、今日はニュースをきっかけに、奈良時代の陰惨な事件を語るに避けては通れない1人、井上内親王の生涯についてご紹介してみました。

 

 

以下、余談。

 

 

 

 

余談、その1。

 

 

井上内親王と白壁王との間に最初に生まれた酒人内親王(誕生時は女王)は天平勝宝6年(754年)生まれ。

 

彼女は母が廃后、弟が廃太子された宝亀3年(772年)、突然「伊勢斎王」に卜定されて、「みそぎのため」として隔離されてしまいます。

 

宝亀5年(774年)、伊勢に下向。ところが宝亀6年(775年)、井上内親王と他戸親王の幽閉先での急逝により、わずか1年で退下となりました。

 

まるで、母子の冤罪事件に巻き込まれないよう保護されたかのように見える、一連の動き。父・光仁天皇が水面下で手を回したんでしょうかね。

 

帰京後、酒人内親王は、桓武天皇のもとに入内。

宝亀10年(779年)に朝原内親王が誕生しています。

 

天応2年(782年)、朝原内親王も「伊勢斎王」に卜定。御年4歳。

父・桓武天皇がわざわざ長岡京から平城京へ行幸し、大和国国境まで見送るという、異様な雰囲気の下向となりました。

 

桓武朝最初の斎王だったからなのか、他戸親王の姉・酒人内親王に配慮したのか、事情についてはよく分かりません。

 

ともあれ、井上内親王は、娘・酒人内親王、孫娘・朝原内親王と、母系3代に渡って、斎王を勤めることになったのですねー。

 

 

 

余談、その2。

 

 

井上内親王を非業の最期へと導くことになった「井上内親王呪詛事件」(宝亀3年=772年)。

 

本稿では「山部親王を即位させるために他戸親王を排除するための陰謀だった」と紹介しましたが、果たしてそうなのか?という疑問も、あったりします。

 

というのも、この事件の成り行きが「井上内親王が光仁天皇を呪詛した」というデッチ上げで始まっているから。

つまり、他戸親王を排除したいのなら「他戸親王が呪詛した」ってことにしません…?ということ。

 

事実、その後を時系列で紹介すると、まず3月2日に井上内親王が「廃后」され、他戸親王の「廃太子」は、それに遅れること3ヶ月弱の5月27日、「母后の罪の連座」となっているのです。

 

まるで、「狙いは他戸親王ではなく井上内親王だった」とでも言わんばかりの経過。

これはいったいどういうことなのか…?

 

井上内親王は元伊勢斎宮だったので、当時の人の目には呪詛しそうな雰囲気を纏っているように見えた…という小話もあります。

 

それを否定しない上で、「天智系の白壁王」が皇位に就いた時、「天武系の井上内親王が女帝として立たないように先手を打った」という指摘があります。

 

なんてったって井上内親王は、聖武天皇の娘で、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の姉。

女帝として即位できる資格は、なくはなかったわけです。

 

しかし、「元伊勢斎宮」では、即位する根拠としては弱すぎます。

そこで考えられたのが、「皇后」という踏み台。

 

飛鳥時代の女帝・推古天皇が「敏達天皇の皇后」だったから即位できたこと。2番目の女帝・皇極天皇(重祚して斉明天皇)が「舒明天皇の皇后」だったから即位できたこと。

 

これを踏襲しようと誰かが画策し、藤原式家がそれを阻止した…というわけ。

 

実際にはどうだったのか…それは、今後の宿題…ですかね(汗)

 

 

【関連】(光仁天皇・桓武天皇)

 

魚名が見た夢
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html

 

藤原の兄弟たち(奈良時代編)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12794812523.html