京都旅行の予習編を狙ってぶち上げた「京都にいっぱいあるお寺の歴史」シリーズ。

 

現存しないお寺ばかりを語った初回、前々回を反省して、現存する「大徳寺」を前回ご紹介しました。

 

今回は、京都に行くとなると、どうしても気になってしまう、あのお寺の歴史についてやってみようかと。

 

「東本願寺」と「西本願寺」。これです。

 

京都駅を出ると、すぐにあるお寺。しかも「東西」の違いがあるだけで、同じ「本願寺」。

 

 

似ている名前なだけにややこしい…。

 

「『家康が本願寺の力を殺ぐために』分立させたと聞いたような…?」という方も、多いのではなかろうか。

 

そのあたりの検証も含めて、いつものようにまったりとやってみたいと思います。

 

 

「東本願寺」と「西本願寺」は、どちらも親鸞が開いた「浄土真宗」のお寺で、宗派は同じですが、所属が違っています。

 

「東本願寺」は、「真宗大谷派」の総本山。

分裂時の門首は教如(きょうにょ)。11世門主・顕如(けんにょ)の長男でした。

 

「西本願寺」は、「浄土真宗本願寺派」の総本山。

分裂時の門主は准如(じゅんにょ)。教如の19歳年下の同母弟に当たります。

 

どちらも、16世紀の戦国時代から江戸時代に至る、動乱の時代を生きた人物でした。

 

 

「東本願寺」「西本願寺」に分かれた事の発端は、「石山合戦」の終わり間際にあります。

 

「石山合戦」というのは、織田信長と本願寺が全面対決した戦い。場所が「石山本願寺(大坂本願寺)」なので、この名があります。

 

元亀元年(1570年)から始まって、10年以上も戦い続けるハメになった、泥沼の戦争です。

 

本願寺が、この戦いに身を置いた理由の一つが、「信長包囲網」という足利義昭の構想によるもの。

 

この同盟の一環で、西国の毛利から水軍で食料を運んでもらうなどして、なんとか凌いでいましたが、信長が毛利の補給線を断つ作戦に出たことで、苦しい状態に追われます。

 

信長としても、「天下布武」を成したいのに、こんな所で10年も浪費してしまうのは、本意ではありません。

 

両者は正親町天皇の勅命により、和睦を結ぶことになります。

 

この時、本願寺の僧たちは和睦を是とする「和平派」と、それを拒否する「抗戦派」で真っ二つに分裂。

 

「和平派」のトップは、もちろん門主である顕如。ところが、長男の教如が「抗戦派」の筆頭となってしまいました。

 

信長と和議を結び、条件でもあった「大坂本願寺(石山本願寺)の退去」を果たした後、事もあろうに教如はこれを反故にして大坂本願寺を占拠し、立て籠もる姿勢を見せます(「大坂拘様」)。

 

結局、近衛前久たち朝廷の説得が続けられたことで、教如も和議を受け入れましたが、「退去を受け入れるだけで、信長に従うわけではないっ!」と突っぱねて、信長と対峙を続ける北陸へと去っていきました。

 

顕如率いる本願寺は、本拠地を失った上に約束を反故にしたバツの悪さもあってか、紀州へ逃亡。無力な存在になり果てました。

 

これが原因となって、顕如と教如は不仲な父子となったと言われています。

 

ちなみに、「准如は父とともに和平派だった」みたいに語るケースをたまに見かけますけど、准如は天正5年(1577年)生まれなので、「石山合戦」が終わった天正8年(1580年)は3歳。どっちに属するかなんて判断できないでしょうね…(^^;

 

なので、「准如は和平派だった」という言説は、「石山合戦」が遠因となって「西」と「東」に分裂した…という結果から逆算した「早とちり」に過ぎないよな、と思います。

 

 

やがて「本能寺の変」(1582年)で信長が世を去り、秀吉の時代。

 

顕如と教如は、和解して「天満本願寺(大坂)」に住んでいましたが、天正19年(1591年)に秀吉から京都・六条堀川の地を寄進され、「本願寺」を建立することになりました。

 

これが、現在の「西本願寺」(浄土真宗本願寺派)。

「西」と「東」で比べるなら、古いのは「西」のほうなんですねー。

 

天正20年11月24日(1592年)、京都で本願寺再興の夢を追っていた顕如が、50歳で示寂。教如が葬儀などを執りしきり、「本願寺」の「門主」を継承しました。

 

しかし、門主継承の時に必要とされる「譲状」がないという手続き上の不備と、教如がかつての抗戦派を重用して和平派を冷遇したことへの不満や不安が、教団による「事実上の教如追放」につながってしまいます。

 

文禄2年閏9月(1593年)、有馬温泉で静養中の秀吉のもとを、顕如の妻である如春尼が訪れ、「顕如が准如を後継に指名した譲状」を秀吉に提出します。

 

たしかに顕如と教如は不仲だった時期がありましたから、顕如が「准如を後継者とする」という譲状を書いていてもおかしくはありません。

 

でも、今更「実はありました」なんて言って出すなんて、なんだかウソクセー(笑)

 

譲状の日付は「天正15年12月6日付」と書かれていたそうで、天正15年(1587年)といえば、和解した顕如と教如がともに大坂「天満本願寺」に移り住んだ頃。和解したとはいえ、不仲状態から回復できていたかどうか絶妙な日付…とも言えそうな?

 

ちなみに、准如はこの時まだ10歳。得度(出家)もまだしていません(天正19年に天満本願寺で得度しています)。これに「譲ると言っていた!」とするのは無理が過ぎる気がしますな…。

 

しかし、秀吉はこれを「ニセモノではない」と信用して、教如を引退させて准如に継がせるように裁断します。

信長と結んだ和議を拒否して立て籠もったあの一件から、教如を法主に据えるのは危険だと判断したようです。

 

その後、なんだかんだあった後に教如は退隠を承諾し、本願寺門主の座は、准如が継ぐことになりました。

 

 

秀吉によって門主の座を追われ、一介の僧侶となった教如でしたが、そのカリスマ性は健在。

 

なんてったって、あの信長相手に徹底抗戦を主張した豪の者。

「教如さまについていく!」という門徒は多く、隠居の身であっても、その潜在能力はあなどれないものがあったと言われます。

 

本願寺(現西本願寺)の北隣に大きな屋敷を構えて「裏方」と呼ばれていたのですが、布教活動にいそしみ、本願寺を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建を行う姿は、隠居とは思えないほど活発。

 

これには准如も危機感を覚えていたようで、対抗するかのように自身の活動も活発化させていったようです。

 

やがて秀吉も亡くなり、力を増していた家康が「関ヶ原の戦い」の前哨戦となる「会津討伐」に出立した慶長5年(1600年)、教如も准如も家康に面会しようとするのですが、石田三成に阻まれてしまいます。

 

准如はやむなく撤退。しかし教如は強行突破し、家康との面会を果たしました。

強硬派だった頃の魂は、この頃もまだ輝きを失っていなかったということですかね。

 

危険を冒してでも家康に会いに行った教如の行動は、家康の信用を得るのに有効な布石となりました。

 

一方の准如は、家康の信用を得ることに失敗したばかりか、「関ヶ原の戦い」の直後、さらなる危機に晒される事件に巻き込まれてしまいます。

 

本願寺の末寺が、安国寺恵瓊を匿ってしまったのです。

 

恵瓊は禅僧ですが、毛利氏のもとで外交僧として活躍し、後に秀吉にも高禄を持って仕えたという人物。「関ヶ原の戦い」では西軍の重要な役割を果たし、敗戦後は戦犯として指名手配を受ける身でした。

 

前述したように、本願寺と毛利氏はともに「信長包囲網」時代から関わりの深い間柄(ちなみに、毛利氏の支配地域には本願寺の門徒が数多くいます)。両者の連絡役を果たしていた僧の端坊明勝が、恵瓊を見殺しにできなかったのでした。

 

結局、恵瓊は追手に捕えられて処刑。匿っていた端坊明勝も処刑となり、本願寺の心証はガタ落ちとなります。

 

恵瓊を助けたことは、西軍に与したのと同じこと。家康は「准如を引責辞任させて、教如を門主に据えようか」と考えたのですが、側近の本多正信がこれに異議を唱えます。

 

「本願寺は『石山合戦』から現在まで20年、ずっと二派に分裂しています。教如が今の本願寺を統率するのは困難でしょう。准如は赦して今後の忠誠を誓わせるに留め、教如には隠居地を与えて、分裂した二派を引き離して安定させた方が得策です」

 

慶長7年(1602年)、家康は烏丸七条を寺領として、教如に寄進。

この地に阿弥陀堂はじめ伽藍を建てたことが「東本願寺」の始まりとなります。

 

こうして見ると、東西2つの本願寺を作ることは、本多正信の献策であったことが分かりますが、この時に正信が最後に言った言葉が記録されています。

 

「天下ノ御為ニモヨロシカルベク存じ奉る」

(天下のためにも、そうした方がいい)

 

なぜ、東西の本願寺を作ることが「天下のため」だったのか?

 

広く知られる解釈は、「本願寺を分離・対立させれば、力を殺ぐことができるから、危険因子になりにくくなる」というもの。

 

確かに「石山合戦」や「一向一揆」など、本願寺がこれまで繰り返してきた武闘派としての歴史は、徳川幕府にとっても脅威として受け取られるに十分なものがありました。

 

家康にとっても、一向一揆で大ピンチに陥った過去がありますしね(その時、本多正信は「一揆側」で活躍していたんですがw)

 

しかし、本多正信が言っているように、本願寺はすでに20年前から分裂していて、もしも力を殺ぎたいのなら、まとめておいた方が得策ではなかろうか。

顔を合わせていがみあっているうちに、自壊して消滅する可能性だってあるでしょう。

 

むしろ、家康たちがやったことは「すでに分裂していた本願寺を追認した」ようなもの。

離しておくことで、衝突することを防いだ。そのように見えます。

 

自壊した時に発するエネルギーで、天下泰平が崩れたり治安が悪くなったりする可能性を潰しておく。

 

本多正信が言う「天下のため」って、そういうことだったのではなかろうかと思うのですが、どうでしょうかねー。

 

(まぁ、離しておきたいんだったら、現在の東西本願寺の「近さ」は、どうしたことなんだろう?とも思ってしまうんですが^^;)

 

 

徳川幕府に優遇された東本願寺と、消極的ながらも継続を追認された西本願寺。

 

この距離感は、幕末動乱期になるとそのまま「佐幕派の東本願寺」「尊攘派の西本願寺」というスタンスにスライドしていきました。

 

幕末の西本願寺といえば、「新選組が屯所を置いた」ことで知られていますが、これは西本願寺が尊攘派だった長州の志士に密談所を提供したり、保護したりと、尊攘派の総本山だった長州に加担していたことが、京都守護職・松平容保の怒りを買って、慶応元年3月上旬(1865)、新選組を派遣されたことに始まります。

 

「京都守護職に協力した」のではなく、「京都守護職の監視下に置かれた」わけだったんですね(そして実態は「新選組の嫌がらせだった」という^^;)

 

そして、この時に垣間見える「露骨な長州びいき」は、「石山合戦」時の毛利氏との繋がりが、幕末になっても途切れていなかった現れでもありそうですなー。

 

 

薩長の新政府が維新回天を成し遂げると、今度は幕府への協力姿勢を貫いていた東本願寺の立場が悪化。

 

「鳥羽伏見の戦い」の時、山科へ退去しようとしていたのですが、これを察知した新政府がすかさず接触を図り去就を問われると、「もはやこれまで…」と新政府への帰属を決断。

「戊辰戦争」では西本願寺に歩調を合わせて資金提供を行い、以降も新政府の政策路線に参画するようになります。

 

これは、味方が少なく資金も乏しい新政府にとって、有難いことだったようです。

 

以来、東西の両本願寺は、不仲を是正して共に進む共同体のようになっているんだそうですよ。

 

 

というわけで、「西本願寺と東本願寺の違い」は以上。

 

分裂の経緯だけ触れるつもりが、江戸時代~幕末の話まで思わずつけてしまいました…相変わらず長々としてスミマセン…。

 

しかし、内容としては全く語りつくせてないんですよな…。

 

なぜ浄土真宗は「大坂本願寺」を本拠としていたのか?

なぜ本願寺は、他の寺院・宗派と比べて、「まるで戦国大名」と言われるまで強力な集団になれたのか?

「加賀一向一揆」や「長島一向一揆」との関係は?

「築地本願寺」とは何者?

 

そして、開祖・親鸞の生涯。

 

などなど…

 

これらについては、また機会が出来たら改めて…ということで。

もしかしたら、オタノシミニ。

 

 

 

以下、余談。

 

 

 

余談、その1。

 

以前にも触れましたが、顕如の妻(如春尼)は、武田信玄の正室・三条夫人と姉妹の関係。

 

系図で見てみよう(三条家/藤原氏閑院流)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12773800822.html

 

顕如は信玄と義兄弟の関係にあったんですねー。

(そして、教如と准如は血縁上でも三条夫人の甥っ子)

 

信玄は元亀4年(1573年)、「信長包囲網」の一環として尾張へ向かう陣中で病没。

その後は四男の勝頼(ちなみに母は三条夫人ではない)が継ぎましたが、天正10年(1582年)、織田軍の「甲州征伐」により追い詰められて自刃。

 

平安時代から500年続いた甲斐武田氏の歴史は、ここに幕を閉じました。

 

武田信義が往く(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12671112368.html

 

勝頼には4人の男子がおり、長男の信勝は父と共に自害、次男は早世していますが、三男と四男は「甲州征伐」の難を逃れて生き延びています。

 

三男・勝親は、家臣に救出されて鎌倉に落ち伸びた後、播磨(兵庫県)の尼崎で出家。

その後、浄土真宗本願寺派の僧侶になったと言われています。

 

本願寺派…つまり、西本願寺。准如のもとということですねー。

本願寺派に身を置いた経緯には、「信長包囲網」を共に担った歴史や、三条夫人を通じた縁が関係しているんですかね。

 

(ちなみに、四男の信継は高野山で出家して密教僧になっています)

 

 

 

余談、その2。

 

寛永18年(1641年)、東本願寺(教如は1614年に入寂して、宣如の時代)は、境内から東にちょっと離れた場所に、3代将軍・徳川家光から1万坪の土地が寄進され、飛び地境内を得ました。

 

西本願寺はもらってないのに…ここでも、「関ヶ原の戦い」の差が出てしまったということでしょうか。

 

東本願寺は儀式や饗宴に使用する場所として活用し、後に作庭が施され、現在でも「渉成園」として現存しています。

 

 

この場所、元は平安時代の嵯峨源氏・源融(「百人一首」14番の詠み人・河原左大臣。「源氏物語」光源氏のモデルとも)の「河原院」があった場所なんだそうな。

「河原院」は六条河原に近い所に、源融が作った風光明媚な別荘。確かに鴨川に近いですね…。

 

源融の没後、荒れ果てた河原院を紀貫之が訪れ、哀傷歌を詠んだ…というところまでで、その後の経歴は知らなかったのですが、その約600年後、東本願寺の境内になっていたんですね…。

 

 

 

余談、その3。

 

「浄土真宗本願寺派(西)」と「真宗大谷派(東)」は、仏壇の色とか、仏具の色とか、数珠の持ち方とか、細かい所で色々と違いがあるのですが、大きな所でも違っている所があります。

 

その1つが、開祖・親鸞の墓所。

 

西本願寺は「大谷本廟」、東本願寺は「大谷祖廟」を墓所に治定しているのです。

 

「大谷本廟」と「大谷組廟」…。これまた名前が似ていてややこしい(笑)

(ついでに言うと、東本願寺は正式名称が「真宗本廟」なので、ややこしさプラス1ですな)

 

西の「大谷本廟(通称「西大谷」)」は五条、場所的には「清水寺」の近く。

 

 

親鸞は京都「善法院」で入滅したと言われます。弘長2年11月28日(1263年)。御年89歳の大往生でした。

 

その後、鳥辺野の「延仁寺」で荼毘に付された後、遺骨は覚信尼(親鸞の娘)によって「吉水」に葬られ、「大谷廟堂」が建立されました(後に「本願寺」に改称。ここが、元祖「本願寺」というわけですな)

 

「吉水」は、親鸞の師匠である「法然」が庵を結んでいた地ですねー。現在の「知恩院」のあたりとされています(確か石碑も立っています…たぶん)

 

慶長5年(1600年)、徳川幕府は「知恩院」の拡張造営を計画するのですが、この際に「大谷廟堂」は移転を余儀なくされます。

 

その時、「親鸞が荼毘に付された」という「延仁寺」と伝わる場所に、移転する運びになりました(ちなみに、東本願寺は前述の通り1602年の創建なので、その前の出来事となります)

 

というわけで、「西大谷(大谷本廟)」は、「親鸞が荼毘に付された場所」に立っています。

 

 

東の「大谷祖廟(通称「東大谷」)」は四条、場所的には「八坂神社」の近く。

 

 

まだ教如が西本願寺の北部に隠居所を建てて居住していた頃、親鸞と歴代門主の墓を営み菩提を弔っていたのですが、「東本願寺」が創建された際、これを大谷に移して「廟」としたのが始まり。

 

なぜ、この地を選んだのか…?は、よく分かりませんでした…。

先程触れた「元祖・本願寺(親鸞の墓所があったところ)」に近そうですけど、関係あるのかな。

 

延享2年(1745年)、8代将軍・吉宗が、隣接する「長楽寺」の寺領を1万坪没収し、それを東本願寺に寄進したことで、「大谷祖廟」は現在の規模に拡張。

 

なぜ「長楽寺」は寺領を没収されたのか?これまたよく分かりません…。

 

なお、「長楽寺」は、平清盛の娘・徳子(建礼門院)ゆかりのお寺。

 

「壇ノ浦の戦い」に入水したところを、源氏軍の兵士に髪を絡めとられて水揚げされ、生還してしまった徳子は、一門と息子・安徳天皇の菩提を弔うため、「長楽寺」で出家しています。

 

徳子はその後、大原の「寂光院」に移っていて、『平家物語』でも印象的なので、そこで出家したと思われがちなんですが、本当は「長楽寺」だったんですねー。

 

『平家物語』の冒頭「祇園精舎の鐘の声」の「鐘の声」は、長楽寺の鐘の音だと言われています。

 

…と、清盛関連のお話なので触れないわけにはいくまい!ということでご紹介しました。

 

 

 

余談、その4。

 

地図を見ると一目瞭然なんですが、「西本願寺」の南には「興正寺」というお寺が、くっつくように建てられています。

 

 

「興正寺」は「真宗興正派」のお寺で、本願寺とは兄弟のような寺院。

 

承元元年(1205年)、親鸞は流罪となり、越後へ配流されてしまいます(「承元の法難」)。

建暦元年(1211年)に赦免され、帰京途上の京都山科の地で一宇の寺を創建した…それが「興正寺」でした。

 

親鸞はその後、布教のために関東へ旅立ってしまうのですが、あとを任された高弟の「真仏」が、順徳天皇により「興隆正法」の勅願を賜って寺号を「興正寺」と改めた…と伝えられています。

 

「興正寺」は「本願寺」と運命を共にして戦乱に呑まれてしまうのですが、秀吉の赦しで顕如が京都に本願寺(西本願寺)を建てた際、その南部に「興正寺」が再興されます。

 

この時、顕如の次男(教如の弟で准如の兄)である顕尊が入寺。以降「西本願寺(浄土真宗本願寺派)」に属する本願寺の脇門跡として江戸時代を迎えます。

 

(ちなみに、本稿で端折ってしまいましたけど、安国寺恵瓊を匿った端房明勝は、興正寺の僧侶でした)

 

ずっと本願寺と苦楽を共にして来た興正寺ですが、平穏な江戸時代になると、「本願寺派から独立したい」という気持ちが強くなっていったみたい。

 

承応2年(1653年)の独立運動は激化してしまい、幕府が裁定を下して、准秀などが処罰を受けています。

 

乱時は運命を共にできるけど、平時は未来を共にはできない…ってことですかね。

 

結局、この独立運動は幕末維新まで続き、明治に入ると「浄土真宗興正派」を立ち上げて分離独立と相成ったというわけです。

 

「西本願寺」と「東本願寺」の分裂、「家康による弱体化政策」ではないだろう…というのはお話しましたが、もしも分裂を追認せず(東本願寺を建てず)に江戸時代を迎えていたら、西本願寺と興正寺が衝突して幕府の介入をうけたのは、教如派と准如派が見せていた姿だったかもしれない…?

 

やっぱり、弱体化政策ではなかったよなぁ…という気がしてしまいますなー。

 

 

【関連】

 

神社仏閣の歴史シリーズ