2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

今日は配役の第三次発表がありました。


毎回、胸躍り心踊る発表になっているのですが、今回もまた期待と想像力と妄想力をくすぐる内容となっていますw


中でも、八嶋智人さん。

三谷さんが大河脚本に決まった去年、「僕も出たい」とtwitterで手を上げておられて。

もし配役されるとしたら誰になるかなぁ?とワタクシも考えていたんですが、まさかの武田信義!


<鎌倉殿の13人>武田信義役に八嶋智人 「新選組!」以来18年ぶり大河(外部リンク)



ピッタリですさすがです

そうきたか!と感動しました(笑)

もしかしたら、『新選組!』武田観柳斎→武田繋がりで…なのかもしれませんが(笑)、武田信義の生涯と重ねてみると、意外としっくりきます。


といっても、武田信義って割りとマイナーな人物。

「武田信玄の祖先」くらいしか…って方が多いのではなかろうか。

そこで、武田信義について語ってみようかと。

久しぶりのブログになりますが(笑)、今日はそういう試みです。


武田信義は、大河ドラマ『平清盛』にも登場した時代の人物。

武田氏は源氏、それも頼朝と同じ「河内源氏」の支流です。

そのあたりを系図で確認すると、次のようになります。



武田氏は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の子孫です。

新羅三郎義光は、相当のワル。
平安時代で「最強の悪役」だった(笑)と以前にも紹介しました。

平安時代最凶の悪役(再掲)

「甲斐源氏」と呼ばれていますが、元々は常陸国を拠点にしていた一族でした。
そもそも、「武田」というのは常陸国武田郷が由来。義光自体は「武田」は名乗っていないようなのですが、これを根拠に武田氏は「自分たちこそが義光流の正統!」と言い張っていたそうです。

しかし、義清(祖父)と清光(父)の時代、在地の在庁官人・大掾氏(桓武平氏)や伯父にあたる義業(佐竹氏の祖)と紛争を起こし(「常陸合戦」)、敗北。

甲斐へと流罪になってしまったのでした。

配流先で、父子は甲斐の地の開拓に着手。

続いて、信濃攻略にも着手し、領土を手中に収めていきます。
この辺は300年後の子孫・武田信玄とあまり変わりないですね(笑)

その中に信義の姿もあったわけです。


源平合戦時、信義は50代の働き盛り(少なくとも本人の気持ちではw)

かの「富士川の戦い」で対平家方の大将として顔を見せます。

いや、実はそれよりももうちょっと前。
「鉢田の戦い」で平家方をけちょんちょんに蹴散らし、駿河を占拠するというエポックポイントを築いていました。

「富士川の戦い」は、実は「鉢田の戦い」で勝負がついていたのではないか、というのは以前に語りました。

武士ゆえに負けた「富士川の戦い」(再掲)

清盛が「重盛の庶子だから箔を付けさせたい」と目論んで送り込んだ孫の維盛は、駿河を奪って東海道を制した武田信義によって、あっさりと敗走することになったのでした。

え?「富士川の戦い」の勝者は頼朝ではないのか…って?

もちろん御存知の通り、「富士川の戦い」には頼朝も参戦しています。

「石橋山の戦い」で大敗して三浦半島から海に逃げ、房総半島で勢力を集めて舞い戻った頼朝は、武田氏に手柄を立てさせると名声によって河内源氏の棟梁の座を奪われるからマズイと、分かっていました。

そこで、まず待ち受ける大庭景親と梶原景時を「追撃してこれない」と読んで華麗にスルー(笑)
馬上で寝ながら2日で駿河にたどり着く猛強行で、開戦前の到着を間に合わせることができました。

しかし、そこは煮ても焼いても食えない武田信義…

翌日を決戦の日と決めた上で、頼朝に「明後日の決戦、力を合わせて頑張りましょう」と手紙を送ったそうです。

「あんなお手紙書きましたケド、明後日、鎌倉殿が来た時には、もう終わってるンですワ!(わっはっは)」
騙して抜け駆けする気マンマン(笑)

頼朝は思惑を見抜いて、きっちり対処したとされています。

ですが、九条兼実の日記『玉葉』には、「武田氏が4万騎も率いて着陣したので平家は撤退した」と書かれています(ちなみに、水鳥のことは書かれていません)。

伝聞とはいえ、「富士川の戦い」は甲斐源氏が勝利したと認識されていた、ってことになりますね…。


「富士川の戦い」で平家の脅威が一旦は引いた後。

南は諏訪氏、西は木曽氏、北は信濃の豪族衆と戦線が広がっていた信義は、頼朝と手を結ぶ道を選びます。

といいつつ、ウラでは気炎を吐く木曽義仲とも誼を結んでいます…鎌倉殿に従うと言っていたのに(笑)

「勝手にやったこと」として安田義定(弟)と一条忠頼(息子)を木曾軍の上洛戦に従軍させ、平家を「都落ち」に追い込みますが、義仲が失脚すると、今度はあっさりと義仲を見捨てて、自ら上洛して義仲を討伐(ひどい…)

「一ノ谷の戦い」では、兵糧不足と準備不足から撤収を視野にいれていた頼朝を尻目に、これまたやる気マンマンな義経と組んで甲斐源氏、出撃。

義経が行ってしまっては、鎌倉軍も出ざるを得ません。引きずり込まれる形で参戦となり、大勝利を収めることになりました。

武田信義、誰の目から見ても勲功バツグン。
息子の一条忠頼は、後白河法皇から武蔵守に任命されています。

ただし、信義自身はやりたい放題やってばかりでなく、頼朝に警戒されないように、自ら鎌倉に出向いてご機嫌伺いをしたりします。

12世紀にマキャベリズムを地で行くなんて、本当、煮ても焼いても食えない御仁(笑)

面従腹背、表裏比興、卓越した戦術眼と決断力。

東海道を抑え、法皇の覚えめでたく、鎌倉軍の生命線「武蔵国」の支配権も握った、武田信義。


しかし…そんな信義も、日本史上トップレベルの政治魔人・頼朝には敵わなかった…。


頼朝が仕掛けた伏線は、いくつかあります。


まず、信義の弟、加賀美遠光安田義定を優遇。

加賀美遠光は「富士川の戦い」の時に誤って鎌倉軍に参陣していた縁がありました(甲斐源氏が自軍に参陣したことを、頼朝は非常に喜んだと言います)

安田義定は最前線に近い遠江を支配しており、頼朝はこれを利用してすぐに軍事同盟を結んで誼を通じ、何かある毎にすぐ援軍を出して友好関係を築いていたそうです。


続いて、父・義朝の頃から従っていた甲斐源氏庶流(信濃源氏)の平賀氏を、信濃調略に利用。


そして、信義の五男・信光を懐柔。

信光の妻は、新田義重の娘でした。

新田義重は足利義康の兄弟。
足利義康は頼朝とは幾重にも結ばれた親族の間柄。

この縁の近さを利用して、いざという時は自分に味方するように調略しました。




こうした事前の準備を整えた元暦元年(1184年)。

時代は木曽義仲が滅亡し、平家は四国に撤退、そして武田信義は在京で不在という隙をついて、頼朝が動きます。


まず、木曽義仲の遺児・義高を殺害

「恨んだ木曽軍の残党が蜂起する可能性がある!」と言い張って、留守警護の名目で自軍を甲斐と信濃にそっと進駐させます(加賀美遠光と息子・小笠原長清が受け入れ態勢を整えました)

次に、一条忠頼を宴会に呼び寄せ、その席で暗殺。
「一条忠頼謀反」を口実に、進駐させていた自軍を一斉に動かして、重要拠点をすべて占拠(中心となって動いたのは武田信光と、縁戚の足利義兼)

信濃の勢力は加賀美・小笠原父子と平賀氏が調略で切り取りました。


かくして、武田信義が気づいた時にはすでに手遅れ…。

「…えっ…俺…味方も帰る場所もないんだが…」

信義は隠居。その後のことは不明で、頼朝の手によって消されたとも言われています。


かつて、頼朝・木曽義仲よりも源氏の棟梁に相応しいと武士団に目された武田信義。

そんな彼も、頼朝の妖術…もとい、政治力によって、知らない間に手足をもがれ、失脚してしまいました。

腹の黒いクセ者策士、有頂天から地べたへ

この落差、八嶋さんならシリアスかつコミカルに熱演してくださるに違いない(笑)

本当、来年の大河も楽しみですねー。


と、やっぱり長くなったので、今日は以上ここまで。

信光以降の武田氏については、また機会があったらということで。

もしかしたら、オタノシミニー。



余談。


「富士川の戦い」の時に間違って鎌倉軍に参陣した、武田信義の弟・加賀美遠光。

息子の長清が病気のために出陣が遅れ、そのために現地集合となっていたのですが、本当は向かう途中でどうも迷子になったみたい(笑)

このためにいち早く頼朝に味方したことになり、「源氏の一門(御門葉)」として優遇されるきっかけを得ることになりました。

病気だった長清は小笠原氏の祖となり、本来であれば甲斐源氏の庶流となるはずだったのが、頼朝の覚えによって武田氏とは異なる別の独立勢力として活躍することになれたのです。

急がば回れというか、迂直の計というか。

迷子になるって鬱陶しいですが、運を開くにはいいルートなのかもしれないですね…たまにはね(笑)