先日までに京都にある4つの「法○寺」の歴史と、6つの「○勝寺」の歴史をご紹介しました。

 

一応、京都のインバウンド需要の爆上がりから着想を得て語ったんですが…。

その割には現存していないお寺ばかりで、旅行の予習みたいにはならないという(^^;

 

これはちょっと…と思ったので、現存しているお寺を語ってみようと、そんなブログです。

 

京都はいっぱいお寺があるんですが、その中でも以前にも触れたことがあるお寺から選んで、今日は「大徳寺」をご紹介します。

 

 

ちなみに、ワタクシは「大徳寺」に行ったことはありません…。

ここの近場だと、金閣寺(鹿苑寺)ならあるんですけどね…。

 

なので、現地で得た知識ではなく、あくまで旅行誌から得た情報を、歴史妄想で膨らませたお話になります。

 

一応、前置きとして宣言しておきますねー。

 

 

「大徳寺」があった場所は、かつて「紫野院(しのいん)」という、淳和天皇の離宮が営まれていた場所と言われています。

 

 

淳和天皇とは、平安時代初期に在位されていた天皇(第53代)。

 

桓武天皇の第七皇子で、先代の嵯峨天皇、先々代の平城天皇からみると異母弟にあたります。この頃の皇位継承は「兄弟間」で行われていたんですねー。

 

系図で見てみよう(天皇家/平安時代初期)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12806096006.html

 

淳和天皇は甥の仁明天皇に譲位し、その皇太子に息子の恒貞親王が立てられていました。

 

しかし、「承和の変」を受けて恒貞親王は廃太子され、出家して大覚寺の祖となっています(「大徳寺」ではなく「大覚寺」ね…これはまた機会があったら、ということで)

 

ところで「紫野」という言葉を見ると、飛鳥時代の大海人皇子と額田王のあの贈答歌を思い出してしまいません?

 

あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る

額田王


紫草の にほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

大海人皇子


万葉集/20~21

 

「あかねさす紫野(むらさきの)』行き標野(しめの)行き」。

読みこそ違うけど同じ字。

 

でも、この和歌が交わされたのは「蒲生野」という、近江(滋賀県)のあたりでのことなので、「紫野院」とは直接的関係はないんだそうな。残念。

 

ともあれ、「紫野院」は「淳和天皇」→「仁明天皇」→「常康親王(つねやす。仁明天皇の皇子。母は紀名虎の娘・種子)」と相続されるにつれ、「御所」から「寺院」に転身していきます。

 

常康親王は、この寺を僧侶の「遍昭」に譲り、「雲林院」となりました。

 

父・仁明天皇の崩御の無常から、将来ある身分を捨ててでも僧侶になった遍昭に、恩義を感じて譲りたくなったのでしょう…と解釈。

 

遍昭と仁明天皇の話は以前にも触れましたねー。

 

系図で見てみよう(桓武天皇御後)(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12784649757.html

 

遍昭&素性法師の歌僧父子が住んでいた「雲林院」は、歌壇のサロンとしても機能していたそう。

 

来年の大河の主役・紫式部も、このあたりで生まれたと言われ、紫式部産湯の井戸があるそうな(現・大徳寺の「真珠庵」)。『源氏物語』にも「雲林院」は登場するそうです…ワタクシは読んだことないので、あくまで伝聞ですが。

 

ついでに…前から気になっていたことながら、「紫式部」の「紫」は、『源氏物語』に登場する「若紫(紫の上)」から来ているそうですけど、そもそもの由来は生まれの「紫野」から採った名前なんですかね…?

 

紫式部の墓も、かつてはこのあたりにあったようです(「大慈院」のあたり?)

 

 

…と、ここまでは、いわば大徳寺の前史。

 

「大徳寺」となったのは、鎌倉時代の終わりごろ。

 

元応元年(1319年)、播磨の守護大名・赤松円心が、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう。赤松円心の甥)に帰依して、この地に「大徳庵」を建立したのが始まり。

 

赤松円心は、元弘元年(1331年)から始まった後醍醐天皇の倒幕運動に応じて「建武政権」樹立に尽力。

 

後醍醐天皇が足利尊氏と対立する建武2年(1335年)以降は、足利氏サイドについて「室町幕府」成立に活躍…という、なんとか混乱期を泳ぎ切った人物です。

 

「大徳庵」は、鎌倉幕府から「国教」とも言える手厚い扱いを受けていた「臨済宗」(禅宗の1つ)のお寺でしたが、宗峰妙超は厳格な人柄として知られて天皇や貴族たちの尊敬を集めていたようで、花園天皇(持明院統)や後醍醐天皇(大覚寺統)の帰依も受けていました。

 

ところが、後醍醐天皇が行幸するくらいお気に入りだったことが、逆に災いしてしまいます。

 

「南北朝の争乱」で後醍醐天皇が足利尊氏に敗れて南朝へ逃れると、「政敵の後醍醐帝が重んじた寺だったから」と言いがかりをつけられて、軽んじられることになってしまったのでした(赤松氏は足利氏サイドだったんですが…)

 

「京都五山」と呼ばれる「室町幕府のお気に入り寺院ベスト5」があります。

 

順位を見てみると、「南禅寺(別格)/天龍寺(1位)/相国寺(2位)/建仁寺(3位)/東福寺(4位)/万寿寺(5位)」というランク付けで、見事に「大徳寺」は入っていません

 

しかし、この冷遇がかえって禅寺としての厳しさを養う要因になったようで、その気風が多くの者たちの尊敬を得て、大勢力として今日まで続く礎となった、とも言われています。

 

 

時は流れて、室町時代の僧である一休宗純も、「大徳寺」ゆかりの名僧。

 

一休は、第100代・後小松天皇の御落胤と言われています。幼名は「千菊丸」。

 

後小松天皇は北朝の天皇ですが、母親が南朝方の貴族の娘(花山院流藤原氏、あるいは日野流藤原氏の娘)だったことから、世を憚って幼少の頃に寺に預けられた…と伝承では語られます。

 

誕生は応永元年(1394年)。南北朝統一から2年後のことでした。

 

天皇家略系図 両統迭立・南北朝・後南朝

 

初めは、「安国寺」の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん。アニメ版「一休さん」の和尚さん…外鑑和尚のモデル)のもとで少年時代を過ごしました。当初の名は「周建」。

 

その後、「西金寺」の謙翁宗為(けんおうそうい)の門下を経て、応永22年(1415年)、22歳で「大徳寺」の22世住職・華叟宗曇(かそうそうどん)に弟子入り(華叟宗曇は、宗峰妙超の孫弟子(徹翁義亨の弟子))となりしました。

 

禅宗公案「洞山三頓棒」に対して、

 

有漏路より 無漏路へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け

 

と詠み答え、「一休」の道号を授かったそうな。

 

「洞山三頓棒」とは、禅思想を考えさせる哲学的クイズ(公案)で、かいつまんで紹介すると、

 

洞山守初という僧が若い頃、遥か長旅を経て師匠の雲門分堰に参じた折、「どこから来たか」「どこで過ごしたか」と聞かれました。

正直に答えたら「愚か者!貴様のような奴は三頓棒(頓棒=20回×3=60回の棒叩き)だ!」と滅多打ちにされてしまいます。

心路窮め絶した一夜を明かした翌朝、納得いかず再度訪ねて教えを請うたら「この穀つぶしめが!」と激怒される始末。

しかし、その瞬間に師の言わんとしている禅旨を得て、悟りを開くことができました。

 

…さて、その禅旨とは何だったでしょう?

 

という問いです。

 

この公案を与えられた一休は、ある日、琵琶法師が語る『平家物語』「祇王失寵」段を聴いて、その答えを得た…と言います。

 

「祇王失寵」は、大河ドラマ『平清盛』でも、ちらっと触れられましたね。かいつまんで解説すると、

 

平家全盛期の頃のお話。

白拍子の「祇王」は、妹の「祇女」、母の「刀自」とともに清盛の寵愛を得て、西八条の館で幸せに暮らしておりました。

 

ある日、「仏御前」という白拍子が清盛の邸にやって来て、「舞いたい」と願い出るのですが、むべもなく追い返されてしまいます。

同じ白拍子として憐れに思った「祇王」は、清盛に取り計らって「仏御前」が舞う機会を作りました。

 

すると、清盛はたちまちに魅了され、挙句には寵愛を移して「祇王」を遠ざけてしまうのでした。

愛の無常を知った「祇王」は、形見の和歌を残して、母妹と3人で嵯峨の山里に隠棲することになりました。

 

萌えいづるも 枯るるもおなじ野辺の草 いづれか秋に あはではつべき

祇王/平家物語

 

[芽生えたばかりの草も枯れかけた草も、野辺の草は秋になったら、みな枯れ果ててしまうのです。人間の恋も同じことですよね]

 

季節は移ろい、いつかの夕暮れに、出家姿となった「仏御前」が「祇王」の庵にやってきます。

 

「祇王」の温情に背いて、1人栄華に身を置く我が身が悔やまれ、あの和歌の言うように、いずれ同じ運命をたどる身の上ならば「祇王」とともに念仏に生きたいと、訪ねて来た理由を述べました。

「祇王」は快く受け入れ、4人で念仏三昧の暮らしを送って、終には往生の素懐を遂げることになりました。

 

というかんじ。清盛の自分勝手な権力者ぶりを演出するお話の一つですね。

 

「洞山三頓棒」に「祇王失寵」をかけて「一休み」の和歌に至ったという…。

その心は分からないけれど、なんとなく分かるような気もしてしまう、不思議な方程式ですな。

 

(一休も、敬愛する師匠が亡くなった時に自害を思い立ったことがあり、様子がおかしいことを心配した母が使者を派遣して制止させて事なきを得ています。その後、母の隠棲する嵯峨野に戻って己を取り戻したという話があって、上記の祇王の話とは「嵯峨野に隠棲」という共通点があります。だから何?と聞かれても、何もない単なる思い付きですが…笑)

 

(『平家物語』に触れたかったために、ここまで長々と語りましたが、今回のメインテ-マとはあまり関係なかったな…失敬失敬)

 

 

ところで、華叟宗曇には養叟宗頤(ようそうそうい)」という弟子がいて、華叟の入寂後に「大徳寺」を継ぐことになりました(26世住職)。

 

一休にとっては兄弟子にあたる人物なのですが、これがまた一休とは非常に相性が悪かったみたい。

 

「大徳寺」は禅寺で、ここに勤める僧は「禅」を修行するわけですが、一休は「厳しく質素な禅」を目指す思想の人だったのに対し、養叟は「世に迎合する禅」をやっていたので、徹底的に反目することになったと言われます。

 

その対立の舞台となったのは、大坂の「堺」

 

特権と強欲で「中世」に存在感を誇示した荘園領主は力を失い、富の集積は地方の大名や豪商たちに移ろっていく、「近世」の薫りを感じさせるこの時代。堺は物流経済や遣明貿易で急速に発達し、国内最大級の「貿易都市」へと成長を遂げていました。

 

カネの集まる所に人が集まる…それは僧侶とて例外ではなく。

 

一休自身も何度も堺へ足を運んで布教活動をし、東西の文物が集まる堺の情緒を楽しんだというのですが、そこで見たのは、大徳寺を継いだ兄弟子の「けしからん姿」でした。

 

養叟は禅を分かりやすいものに変化させ、「都会人」や「女性」に迎合した布教をしていたばかりか、歓心を買うために「印可状」を乱発していたのです。

 

その結果、禅の「公案」は都会人たちの「茶飲み話」としておしゃべりの種になり、比丘尼たちも「悟りの境地」を面白おかしく我がものとするようになっていました。

 

一休たち一派は『自戒集』を著して徹底批判の構えを取ります。

 

「陽春庵(堺に開いた養叟の庵)は今日も仏法の真似事をやって売りつける芝居小屋になっている。堕落の極みよな」

「我が兄弟子の所業とも思えない。こんな禅なんてさっさと捨て去って、念仏宗か法華宗にでもなった方がマシかもしれんな」

 

どうしても有名な一休の方が主役格になるので、こうした話は養叟の方が悪役となってしまうのですが、実際にはどうだろう?

 

確かに、養叟がやったことは禅の境地とはほど遠いものだったのかもしれない。

 

けれど、幕府の庇護を離れた大徳寺が単独自力で存続していくためには、主義主張を横に置くことも必要だったのかもしれません。

 

それに、時は「中世」から「近世」への転換期。「富裕層」や「女性」をターゲットにすること、そのために分かりやすく変質させた布教は、時代の要請にあったものだったとも言えます。

 

言ってしまえば、一休は視野が狭く頑なで、養叟は視野が広く柔軟でやり手だったわけです。

 

一休が大徳寺の住職となったのは、「応仁の乱」の後の話。

兵火で荒廃してしまった大徳寺を何とかする。それが使命でした。

 

この時、堺の豪商や庶民、茶人、武士たちの協力があって資金が集まり、大徳寺は再興されます。

 

その集金力には、一休の人気の高さが最大の要因だったのでしょうけど、養叟が堺との交流を強化していたことも一役買っていたのだとワタクシは思うのですが、どうでしょうかねー。

 

 

「大徳寺」と堺の繋がりは戦国時代も続いて、織豊時代になると、あの人が登場します。

 

千利休。堺の豪商にして茶人。本名は田中与四郎。

 

実家は「魚屋(ととや)」の屋号を使っていた豪商。ちなみに、魚問屋ではなく納屋衆(倉庫業)だったそう。今でも「ととやの与四郎」と聞けば、関西の人はみんな「ああ、千利休ね」と思い当たるらしいです…すごい(漫画家の椎名高志先生談)

 

祖父が「千阿弥」を名乗っていて、「千利休」の「千」は、ここから来ているとされるそうな。

 

利休は、同じ堺の豪商で茶人の権威でもあった武野紹鴎(たけのじょうおう)のもとに「茶の湯」の弟子入りをしています。天文9年(1540年)、19歳の頃のこと(紹鴎は38歳)

 

この時、「大徳寺」で剃髪して法号を「宗易(そうえき)」としたといいます(ややこしいので、ここでは呼称を「利休」で統一)

 

紹鴎は、村田珠光(むらたじゅこう)が始めた「わび茶」を完成させた人でした。

珠光は1422~1502年の人、紹鴎は1502~1555年の人なので、面識はありません(ありそうだったんですけどね…)

 

村田珠光は「闘茶」を好むあまり、実家からも所属の寺からも勘当されるという困った茶人だったのですが(笑)、大徳寺の一休から「禅」を学んだことで「茶禅一味」の境地に至って「わび茶」を創始させるに至りました。

 

「書院の広間」から「草庵の四畳半」へ茶室を移し、装飾も「唐物」から「名禅の墨蹟の掛け軸」へ、茶杓も象牙や銀から竹製へ、茶会の精神にも通俗的・競技的な「遊興」から人間平等、客振り・亭主振りの「礼式」に刷新して、精神文化の世界に昇華させた、それが「わび茶」です。

 

ただ、「質素な和風の茶室に、唐物の名物茶器。この対比の中に思いがけない美がある」という、ギャップ萌えのような「美の主観」が置かれていて、茶人は「唐物茶器の収集家」になるという一面があったそう。

 

紹鴎は「唐物」ではなく信楽・瀬戸などの「日常的な雑器」を茶道具として選ぶなど「わび」にさらに磨きをかけ、これが「わび茶」の完成に至る大事な過程になったようです。

 

…なんだか、長々と「茶の湯」の歴史を述べちゃいましたが、ここで触れたいのは、利休と一休には、「大徳寺」と2人の茶人を通じて繋がりがあったということ。こうやって利休の「茶の湯」には一休の「禅の精神」が入り込んでいたわけですなー。

 

紹鴎は「皮革製の軍需品」を商売する家業だったそうで、この縁から「わび茶」は戦国武将たちにも広まっていったんですかね。

 

また、紹鴎の弟子には、同じく堺豪商の今井宗久(いまいそうきゅう)がいて、こちらは薬問屋を営み、鉄砲の弾薬を取り扱っていたそう。

 

この縁で、鉄砲大量購入者の織田信長とコンタクトがあり、「茶の湯」も信長に取り入れられて、「御茶湯御政道」と呼ばれた「茶の湯の政治利用」に繋がっていきます。

 

永禄11年(1568年)、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛。

この時、堺に2万貫文の矢銭(軍資金)を課すと言い出しました。

 

堺は騒然。町衆は「抗戦派」と「和平派」に分断されるのですが、和平派として信長に接近した今井宗久、津田宗及(ともに紹鴎の高弟)とともに、利休も「和平派」として信長に助力

 

こうした経緯もあって、信長の茶頭として仕えることになりました。

 

天正2年(1574)、信長が奈良東大寺正倉院御物の名香「蘭奢待」を一寸八分切り取った際、津田宗及と利休の2人だけに下賜しています。

 

天正10年(1582年)、「本能寺の変」で信長が横死。

跡を継いだ秀吉は「大徳寺」に信長の菩提寺「総見院」を創建しています。

 

「総てを見た」で「総見院」。信長に相応しい名前…かな。

 

何故に秀吉は、信長の菩提寺を「大徳寺」に創ったのか?

ここには、利休が関わっているみたいです。

 

京都には、信長が深く帰依したという清玉上人の「阿弥陀寺」がありました。

 

 

「本能寺の変」の時、明智光秀は信長の遺骸を見つけられなかったのですが、清玉上人が駆け付け、光秀の許可を取った上で遺灰を集めて阿弥陀寺に持ち帰り、埋葬した…という伝承があります。

 

その後、光秀を「山崎の戦い」で打ち破った秀吉が、「信長の葬儀をやりたい」と申し出たら、「私どもでやりましたので必要ありません」と否定されたんだそう。

 

秀吉が信長の葬儀を政治利用したがっている…そこを見抜いていたわけですな。

秀吉は立腹するのですが、どうしようもありません。

 

そこで、利休が自分と縁のある「大徳寺」に信長の菩提寺を作るのはどうだろうと勧めた…というわけです。

 

信長の菩提寺を提案できるくらい、利休は秀吉のブレーンになっていたわけですね。

 

そのあとの秀吉と利休を巡る出来事は、以前にも紹介した通り。

 

反体制派の10ヶ月(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788922939.html

 

「秀吉が『わしに利休の足元を通れと申すか!』と激怒した」…というあの山門があったのも、「大徳寺」ですねー。

 

こうして、信長・秀吉ゆかりの寺院となった「大徳寺」は、室町の守護大名だけでなく、戦国大名たちとも関わりを深めて行きます。

 

 

「総見院」は前述の通り信長の墓所がある塔頭。

 

ところが当初、秀吉は「黄梅院」で信長の菩提を弔う考えだったそうです。

 

というのも「黄梅院」は、信長が父・信秀の追善供養のために創建した塔頭だったから。永禄5年(1562年)というので、「桶狭間の戦い」の2年後、信長が家康と同盟を結んだ頃のこと。

 

信長の上洛と言うと、先程も触れた将軍義昭を奉じて行った永禄11年(1568年)が有名で、それより前に創建…?と思ってしまうのですが、初上洛は永禄2年(1559年。尾張統一後、13代将軍・義輝に謁見するため)、そして「黄梅院」創建は2回目の上洛で…となります。

 

ともあれ、信長ゆかりの「黄梅院」は、信長の菩提寺としてピッタリではあるんですが、「信長さまの塔所としては小さ過ぎる」とのことで選ばれず、新たに「総見院」を設けたわけなんですねー。

 

その後「黄梅院」は、豊臣五大老の1人・小早川隆景の帰依を受け、以降毛利家の京都での菩提寺になっていきました。現在も織田家(信秀・信長・弟の信行など)、毛利家(元就と隆元・吉川元春・小早川隆景の三兄弟など)の墓所となっています。

 

考えてみれば、信長の存命中は、織田家と毛利家は敵対関係。まさか死後に毛利と同じ寺で弔われることになるなんて、泉下の信長もビックリでしょうな(笑)

 

そうそう、戦国大名として知られる「蒲生氏郷」の墓所も「黄梅院」にあります。

 

第1次朝鮮出兵「文禄の役」(1592年)の時、氏郷は肥前名護屋城で体調を崩し、京都で養生していたのですが、40歳で病死。在京で亡くなったこともあり、遺骨は「黄梅院」に葬られたわけですね。

 

何故にここなのかというと、やっぱり織田家の菩提寺だったことが大きのでしょうね(氏郷にとって信長は「烏帽子親」で「舅」=氏郷は織田家のミウチ)

 

 

「総見院」の隣にある「聚光院」は、利休の墓所があるところ。

 

元々は、「最初の天下人」とも言われる三好長慶を弔うため、息子の義嗣が建立したお寺。永禄9年(1566年)というので、「永禄の変」(1565年。三好三人衆が二条御所を襲撃して足利13代将軍・義輝を討った事件)の翌年のことですねー。

 

三好長慶は、先程の武野紹鴎を皮革軍需品の取引先として、やがて「わび茶」の師として重用したという人物。この縁で「大徳寺」に菩提寺を設けたんでしょうかね。

 

開山の笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)は、総見院を開山した古渓宗陳の師にあたる人物です。利休の参禅の師でもあったそうな(だから「聚光院」が利休の菩提寺になったんですかね)

 

 

「大徳寺」の中で最も古い塔頭は「龍源院」

 

畠山義元(能登)大内義興(周防)大友義親(豊後)の3名の守護大名よって創建。文亀2年(1502年)というので、村田珠光が亡くなった頃ですねー。

 

創建に名を連ねる3人の関係性は、正直よく分かりません。創建よりも後になると、10代将軍・足利義稙のもとで協力体制にはなるようなんですが、当時の関係はどんなんだったんでしょうか…。

 

 

「瑞峯院」は、キリシタン大名としても知られる大友宗麟が創建。

 

天文4年(1535年)というので、松平清康(家康の祖父)が暗殺された(「森山崩れ」)頃のこと。大友宗麟は1530年生まれなので、この時5歳…(ってことは本当は父が建てたのかな?)

 

宗麟は、「龍源院」創建に名を連ねていた大友義親の孫にあたります(一説によると大内義興も母方の祖父)。隣接した場所にあるのは、これと何か関係があるんですかね。

 

宗麟の元の名は大友義鎮。1562年に出家した時に「瑞峯宗麟」と名を改めました。「瑞峯院」は、ここから来ているんですな(ちなみに、宗麟がキリスト教に改宗したのは1578年)

 

 

「興臨院」は、畠山義総の創建。

 

大永年間(1521~1528年)というので、12代将軍・足利義晴の頃のこと。

 

畠山義総は「龍源院」創建に名を連ねていた畠山義元の跡継ぎ(甥で養子)

 

義総の頃が能登畠山氏の最盛期。彼の死後に内紛で没落していくと、「興臨院」も為すすべもなく荒廃していくのですが、秀吉の頃になると、畠山氏と同じ能登の統治者となった前田利家が再興。以後、加賀前田家の菩提寺となっています。

 

 

前田利家の妻・まつも、大徳寺山内に塔頭を建てています。その名も「芳春院」。まつの法名と同じですな(なお、まつの法名の方が先)

 

前田家が大徳寺に2つも塔頭をつくることになった経緯は、よく分かりません。まつが大徳寺住職の春屋宗園(しゅんおくそうえん)と交流があった縁で、開山としています。

 

3代目以降の前田家は、まつと血統の繋がりがないのですが、前田土佐守家はまつの血筋を引いています。

その縁で、土佐守家が藩主の赦しを得て、まつの法要を「芳春院」で盛大に執り行った記録があるようです。

 

 

まつと交流があった春屋宗園は、他に「三玄院」「龍光院」を開創しています。

 

「三玄院」は、石田三成の墓所があることで知られる塔頭。

 

石田三成浅野幸長森忠政が建立。天正17年(1589年)なので、秀吉の子・鶴松(秀頼の同母兄)が生まれた年ですな。

 

浅野幸長は、三成の同僚である五奉行・浅野長政の子。秀吉の正室・ねね(北政所)の親戚です。以前にちらっと取りあげました。

 

系図で見てみよう(豊臣秀吉・高台院)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12739598796.html

 

ただ、浅野幸長は1576年生まれなので、この時13歳なので、お寺建立に拘わったとすると若過ぎのような…(ちなみに三成は30歳)。森忠政は、あの「森蘭丸」の弟にあたります。

 

「関ヶ原の戦い」の罪人・石田三成の墓が「大徳寺」にある

 

「よく許したなー」と思うのですが、これには沢庵和尚が関わっているみたい。

 

沢庵和尚は春屋宗園の弟子。三成とは「三玄院」の建立で知り合ったんでしょうかね。

 

三成が領地の佐和山に亡母を弔うため「瑞嶽寺」を建立したとき、落慶供養に赴いて住職になっています。

 

「関ヶ原の戦い」の後、沢庵は落城した佐和山を去って「三玄院」に帰って清貧生活を送ることになりました。この時、「三玄院」に三成の墓所を作ったとされます。

 

佐和山で三成の近くで生活していた時、どうやら沢庵は「三成ファン」になってしまったみたい。

 

「関ヶ原の戦い」が過ぎ去った慶長16年(1611年)、豊臣秀頼が沢庵の噂を耳にし、大坂城に招待したのですが、これを断っています。

「三成を見殺しにした愚か者に会うつもりはない」とでも言いたげな態度。

 

他にも、細川忠興や浅野幸長、黒田長政らが、招こうとすると断り、会いに行くと避けて身を隠し…といったエピソードが散見されます。

 

自らの保身のために三成を死に追いやった連中を、どうしても許せなかった…そんな姿が見えて来るようです。

 

 

「龍光院」は、黒田長政が父・官兵衛の菩提を弔うために建立したもの。

 

慶長11年(1606年)というので、官兵衛の没後2年。徳川秀忠の次男・忠長が生まれた頃ですね。

 

開祖は春屋宗園だったのですが、間もなく亡くなったので弟子の江月宗玩(こうげつそうがん)が実質的な開山となっています。

宗玩は、堺の豪商・津田宗及(前述した、信長から「蘭奢待」を切り分けられた1人)の息子です。

 

「器の中に宇宙が見える」と謳われる漆黒瑠璃色の茶碗「曜変天目」(国宝)

 

世界にたった3つしかない…そのうちの1つがあるのが、この「龍光院」。津田宗及・江月宗玩に渡って受け継がれた「天王寺屋」伝来の名品なんですなー。

 

 

「高桐院」は、細川忠興が父・幽斎の菩提所として創建。開山は玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう。幽斎の弟)

 

慶長6年(1602)というので、「関ヶ原の戦い」の2年後。細川家にとっては、小倉城の大規模改修に取り掛かった頃です。

 

ただ、細川幽斎が亡くなったのは慶長15年(1610年)でして…父の菩提所って…?

 

細川忠興は「利休七哲」の1人。この関わりなのか、利休の邸宅(聚楽第邸)を移築して書院としたり、利休愛蔵の灯籠を墓標にしたりと、利休ゆかりの建造物がチラホラあります。

 

「関ヶ原の戦い」直前に人質となるのを拒否して自害させた、忠興の妻・ガラシャ(明智玉子)のお墓もあります。創建年から考えると、「高桐院」は父・幽斎ではなくガラシャのために創った塔頭なのではなかろうか(明智光秀をはばかって、表向き幽斎のためとしたとか)

 

あと、出雲阿国のお墓もあります。何故?と思ってしまうんですが、阿国の愛人だったとされる名古屋山三郎のお墓も一緒にある…という所がミソだと、ワタクシは妄想しています。

 

山三郎は戦国武将ですが、阿国とともに「歌舞伎の創始者」とされる芸能人でもあります。「大徳寺」で出家して「宗円」を名乗りました。

 

そして、山三郎の経歴が面白いんです。列挙すると、織田家の縁者で、もとは蒲生家の家臣で、妹が森忠致の妻だった縁で森家にも仕え、息子は加賀前田家に仕官しています。

 

これまで紹介して来た、大徳寺の塔頭の歴史で見て来た名前がいっぱい連なっていますよねー。もしかしたら、隠れ重要パーソンなのかもしれない…?

 

なので、本当は名古屋山三郎のお墓がメインで、阿国のお墓は後付けだったのではないでしょうか(愛人だったというのも伝承の域を出ないとも言われますしね)

 

 

というわけで、本日はここまで。

 

ずいぶん長くなったような…とカウンターを見ると、1万字越え。なんと、なんと…(汗)

 

長々と失礼イタシマシタ。ではでは、またー。

 

 

【関連】

 

神社仏閣の歴史シリーズ