この1ヶ月、秀吉強化月間になっていたので、せっかくですし「系図で見てみよう」シリーズで取りあげてみようと思います。
秀吉と言えば、裸一貫で天下人まで成りあがった立身出世の代表格。
そのため譜代の家臣がおらず、また本人も子供に恵まれませんでした。
これは、武家として天下に覇を唱えようとする者としては、大きなハンデ。
そこで、秀吉は「親類縁者から後継者や子飼いの武将を育てる」…という方針を取りました。
親類縁者というのは、具体的には自分の実家「木下家」と、妻・ねねの実家「杉原家(≒浅野家)」。
そのあたりを整理して紹介して見ると面白いかな…というのが、今回の試みとなります。
まずは、秀吉の実家・木下家から。
秀吉の母「なか」は最低でも3回の結婚歴があったそうで、そのうちの1回が秀吉の実父・木下弥右衛門でした。
弥右衛門は秀吉がまだ少年の頃に亡くなっているみたい。
後に関白にまでなった秀吉は、身分の低かった父についてあまり語りたくなかった(というか、むしろ抹消した形跡すら…)ようで、その実像は不明瞭なのですが、名主だったとも、貧農だったとも、織田家の足軽だったとも言われます。
同父姉に「とも」がいます。出家後の名は日秀尼(にっしゅうに)。
弥助という男に嫁いで3人の息子をもうけ、いずれも秀吉政権では名を残しています。
長男は治兵衛。永禄11年(1568年)生まれ。後に秀吉の跡を継いで関白となる「秀次」。
秀次は関白になる前、三好康長の養子になっていて、この時に父の弥助も「三好吉房」に名を改めています。
(ちなみに三好康長は、畿内を制覇した三好長慶の叔父にあたります)
「関白秀次事件」で自害。連座して父の三好吉房も改易され、秀吉の死後まで軟禁される憂き目にあってしまいました。
次男は小吉。永禄12年(1569年)生まれ。
後に「秀勝」と改名。大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』の主人公・お江の2番目の夫となった人物ですねー(最初の夫は、佐治一成。信長の甥っ子)
豊臣秀勝@AKIRAサン
2011年大河ドラマ『江 ~姫たちの戦国~』より
『江』では好青年でしたが、秀吉から丹波亀山10万石をもらった時に「少な過ぎません??」と異論を唱えたため、秀吉の怒りを買ってしばらく昇進が停滞…というような面もある人物だったようです。
「小田原の役」の後、甲斐・信濃に領地をもらうのですが、母の日秀尼が「僻地で遠すぎる(=離れると寂しい)」と秀吉に嘆願したため、美濃に鞍替えとなりました。
天正20年(1592年)、最初の朝鮮出兵「文禄の役」において、巨済島での滞陣中に病死。享年24。
お江との間に生まれた完子(さだこ)は、後に摂関家の九条幸家に嫁いで九条家の血筋となっています。
その末裔にあたる九条節子(さだこ)が大正天皇の皇后となったので(貞明皇后)、秀勝は昭和天皇の遠い祖先ということになりますねー。
三男は辰千代。天正7年(1579年)生まれ。後に名を改めて「秀保」。
叔父・秀長が亡くなった跡を継いで大和・紀伊2か国を継承し、大和郡山城主に。
この時、秀保13歳。こんな若年で城主など務まるわけがなく、藤堂高虎(家老。秀長の右腕)と桑山重晴が後見役を務めたといいます。
次兄・秀勝の10歳年下で、母ともが46歳の時に生まれた計算。ゆえに、本当は実子ではないのでは…?とも言われます。
ただ、秀長はすでに丹羽長秀の子を養子にしていたのに、秀吉に命じられて秀保と入れ替えさせられたという経緯がありまして。
そこまでして秀長の後継者に据えたのは、秀吉の血族だったから以外に考えられないなぁ…となっているみたい。
文禄4年(1595年)、急死。享年17。病弱だったとも、怒らせた小姓に崖から投げ落とされて事故死したとも言われます。
次男・三男が早死。長男が切腹し、孫の多くが処刑され、夫の三好吉房も連座して改易・軟禁。
一家が歴史の悲劇に見舞われた日秀尼は、悲嘆して嵯峨野の地で寺を建立し、秀次一族の菩提を弔いながら暮らしたと言われます。
寛永2年(1625年)、死去。享年92。
秀吉政権の安定に無くてはならなかった重鎮・秀長は、秀吉の異父弟とされます。
父は竹阿弥(ちくあみ)。こちらも実像は不明瞭で、一説には弥右衛門が後に改めた名とも言われるほど(となれば、秀吉と秀長は同父兄弟となりますな)
秀長は、信長の「長」と秀吉の「秀」をもらった名前で、当初は「長秀」と名乗っていたようです(そりゃそうだ、偉い方を最初に持ってくるのは当然)
秀吉が全国統一したあたりで「秀長」に変更。なので、「秀長」時代は7年ほどと意外と短いんですねー。通称は「小一郎」。
「但馬平定戦」「三木合戦」「備中高松城の戦い」「賤ヶ岳の戦い」「紀州征伐」「四国攻め」など秀吉の重要な戦いに参加。
大友宗麟が島津軍に苦しめられて秀吉に泣きついた時、「表向きのことは秀長に、内々のことは宗易(=千利休)に相談なされませ」と言われたという。
秀吉の軍事・政権運営の頼りになる人物にまで大成した彼も、生まれは百姓。
秀吉に仕える前とは無縁の生き方に、どうやって大成長したんでしょうね。
天正19年(1591年)、病死。享年52。
秀長の死後、秀吉政権が急速に傾いて行った(ように見える)のは、周知の通り。
「もし、もっと長生きしていたら~」の話題で、よく取り挙げられる人物の1人ですね。
旭姫は、秀長の3つ年下の同母妹(ということは秀吉の6歳下)
天正12年(1584年)、「小牧・長久手の戦い」で徳川家康に辛勝した秀吉は、家康次男・秀康を養子(人質)にしましたが、さらに家康との主従関係を強めたいと考えていました。
そこで思いついたのが、「旭姫を家康に嫁がせて妹婿にする」ということ。
家康は築山殿を失って以来、側室は何人かいましたが、正室は娶っていなかったのでした。
問題は、旭姫はすでに既婚者だったこと。
ですが、離縁させてしまえば何の問題もありません。なーんだ簡単w
前夫は500石を捨扶持として与えられましたが、心痛から自害したとも、出家して隠居したとも言われます(あるいは既に故人だったとも)
天正14年(1586年)、旭姫は44歳の時に45歳の家康の妻になりました。年齢的にはお似合いw
その後、家康は(色々ありながら)上洛して秀吉との和議に応じ、対面して主従関係を披露。旭姫の役目は無事、果たされました。
天正18年(1590年)、聚楽第で死去。いつの間にか豊臣家に帰っていたんですね。
徳川家の嫁時代は、たったの4年間でしたが、秀吉の死後もずっと、家康は旭姫の菩提を弔ったといわれています。
続きまして、秀吉の妻・ねね(北政所・高台院)の実家・杉原家について。
ねねの父・杉原定利は、ねねが幼い頃に亡くなったとか亡くならなかったとか。
ともあれ、ねねは妹・ややとともに、母(朝日殿)の姉妹(七曲殿)が嫁いだ家・浅野家の養子として育てられたとされています。
浅野家当主の長勝は、信長の弓衆。男子がなかったため、姉妹の子の安井長吉を養子に迎えました。
(安井家は、婚姻関係から蜂須賀家に吸収されたとされています)
この安井長吉が、後の浅野長政。
ねねの妹・ややの婿となっているので、秀吉とは相婿の関係にあたります。
長政は行政手腕も優れていたようで、前田玄以とともに京都奉行として、都における複雑な問題を次々に処理。
こうしてメキメキ頭角を表して秀吉政権で重用され、五奉行の筆頭にまでなっています。
浅野長政と言えば、家康の囲碁仲間。この私的な関係は終生変わらなかったそうで、長政が亡くなると、家康は以降の人生で囲碁を遠ざけたとまで言われています。
そして、「朝鮮出兵」の時、秀吉に真っ正面から異を唱えたことでも知られます。
あまり侵攻が進まないことにイライラしていた秀吉が「自ら大軍を率いて渡海する」と言い出して、一同は仰天。
徳川家康が「いや、私が行きますから、どうか殿は…」と押しとどめ、秀吉の機嫌が悪化した時。すかさず長政が口をはさみます。
「殿は最近、奇怪なことばかり申される。狐でも憑いたのではありますまいか?」
この言葉に秀吉の怒りが爆発。刀を抜いて長政の首元に刃を向けるのですが、長政は全くひるみません。
「私の首など何回刎ねても天下に何の影響もありません。しかし、殿が朝鮮半島に渡るとなったら、天下は一大事です」
ここで家康と前田利家の取り成しによって事なきを得たのですが、この日以来、秀吉は「自ら出陣する」とは言わなくなったそうです。
危ない所の一歩手前まで緊迫しましたが、効果は覿面。さすが長い付き合いだけあって秀吉の扱い方も心得ていたということなんでしょうかね。
「秀吉を真っ正面から止められる男」といえば、弟の秀長が真っ先に挙げられますが、昨年死去していたタイミング。ほかにも直言できる人がいたんですねー。
浅野長政の息子・幸長は、池田恒興の娘を正室に迎えていました。
そして、豊臣秀次の正室も、池田恒興の娘。長政と秀吉のように、幸長と秀次も相婿の関係だったわけです。
この関係で「関白秀次事件」が起きた時、幸長は秀次をかばってしまいます。
秀吉は激怒(またか…)。幸長は秀次に連座して能登に配流となってしまい、徳川家康と前田利家の取り成しで復帰したといいます(これも、またか…)。
幸長の娘・春姫は、家康の九男・義直(尾張徳川家の祖)と結婚。
とても豪勢な結婚式だったようで、名古屋の豪華な結婚式のルーツとなった…とまで言われています。
(ちなみに、尾張徳川家の子孫は側室から生まれた子の末裔です)
このように浅野長政・幸長の父子は、家康に近しい立場にいました。
一方で、石田三成とは折り合いが悪かったようで(特に武断派だった幸長)、「関ヶ原の戦い」では東軍についています。
幸長は先鋒を務めて岐阜城攻めに参加、長政は秀忠の軍に属して功績をあげ、紀伊和歌山の藩主になることができました。
幸長が嫡子ないまま亡くなると(慶長18年=1613年)、徳川秀忠の小姓を務めていた弟の長晟(ながあきら)が後を継ぎ、安芸広島に転封。以後、明治維新まで、浅野家が広島の領主となりました。
幸長・長晟の弟にあたる長重は、秀忠の小姓から常陸笠間の藩主に栄達。
孫にあたる長友の代に、播磨赤穂に転封。有名な赤穂事件の浅野内匠頭は、長重から見ると曾孫にあたります。
話を大きく戻して、木下家定は、ねねの5歳年上の兄。
秀吉が天下人になると、備中足守の藩主となりました。
「関ヶ原の戦い」の時、家定は「東軍」にも「西軍」にもつかず、「北政所を警護する」と言い張って不参加を表明。
家康には「西軍につかなかった」ことが評価されて、地位を失わずに済みました。
この家定の五男が、「関ヶ原の戦い」の去就で有名な小早川秀秋。
天正10年(1582年)、「本能寺の変」前後の生まれ。幼名は「木下辰之助」で、秀吉の養子となり「羽柴秀俊(豊臣秀俊)」となります。
秀次に次ぐ後継者候補として全国の大名が注目。7歳で元服させられて以降、毎晩のように酒盛り接待され、アルコール依存症になってしまいました(子供なのに…)
この頃、秀吉から秀秋に、1通の「訓戒状」が出されています。
秀吉が目についた注意が箇条書きで並べられている内容の手紙で、「勉強しろ」「鷹狩ばっかりやるな」に続いて「水浴びは裏でやれ」「爪を切れ」など、身だしなみに関することがズラズラと…。
最後のシメは「これを守らなかったら仲良くしないぞ」。
秀頼が生まれる前の、まだ溺愛されている頃にもらった手紙で、コレ。秀秋が相当「だらしない人物だった」ことが分かります(^^;
秀頼が生まれると、毛利家の養子になることが画策され、小早川隆景がこれを阻止して、文禄3年(1594年)、小早川家の養子となります。
「関白秀次事件」で秀次が切腹すると、連座(?)で丹波亀山領を改易。養父・小早川家領の筑前に移住しました。
慶長2年(1597年)に隆景が亡くなると、筑前を太閤直轄地として召し上げられて越前北ノ庄への転封が命ぜられます。
約30万石の大名から15万石への大幅減封。昔からの頼りになる家臣たちを泣く泣く手放すハメに…。
しかし秀吉が死去したことで、徳川家康を始めとする五大老の取り成しで、復領が叶っています。
秀吉から捨てられるように小早川家に養子に出され、さらに大幅な減封となる転封命令。「関ヶ原の戦い」で西軍から翻意した背景には、こうした積年の想いがあったのでしょうか。
豊臣家を見放したことに罪悪感があったのか、「関ヶ原の戦い」の直後に「秀秋」の名を捨て、「秀詮(ひであき)」となりました。
戦後、徳川家康により、宇喜多秀家の旧領である備前・美作の岡山領を拝領。功労として50万石を超える評価を受けた秀秋は、「関ヶ原の戦い」の2年後、慶長7年(1602年)に死去。享年21歳。
鷹狩りの最中に体調を崩し、3日後に亡くなったそうです(そういえば、秀吉の訓戒状に「鷹狩ばっかりやるな」と書いてありましたな…)
秀秋の去就で大きく戦況が動いたとされる「関ヶ原の戦い」は、秀秋の兄たちにとっても試練でした。
秀秋の13歳年上の異父兄・勝俊は、豊臣氏の一門衆として若狭小浜城主となっていました。
「関ヶ原の戦い」の時、勝俊は家康の命を受け、鳥居元忠と伏見城に籠城。
西軍の攻め手には小早川秀秋がおり、兄弟同士が戦場で相見えることになりました。
…と思った矢先、勝俊は戦うことなく城を退去。叔母の高台院と、それを警護している父・家定のもとに駆け込んでしまいます。
伏見城は落城。この暴挙に家康は怒りが収まらず、戦後、勝俊は改易され、妻(森可成の娘)も愛想をつかして家出してしまったといいます。
秀秋の9歳年上の同母兄・利房は、若狭高浜城主。
「関ヶ原の戦い」では秀秋と共に西軍につき、敗戦後、あやうく処刑されてしまう所だったのを、高台院の助命嘆願によって所領没収に減刑されて死だけは免れました。
こうして、勝俊・利房兄弟は、父の備中足守藩に落ちのびたのですが、ここで事件が起こります。
慶長13年(1608年)、父の家定が死去すると、遺領をめぐって兄弟で騒動を起こしたのです。
幕府は分割相続するように指示しましたが、勝俊はこれを守らずに独占。
不快感を隠せない家康は「言うこと聞かないなら両方没収じゃ」と、兄弟そろって改易となってしまいました。
その後、弟の利房は「大坂の陣」で奮戦し、功績が認められて足守藩を再興。
一方の勝俊は京都に隠居し、「長嘯子(ちょうしょうし)」と名乗って風流な文化人となりました。
松尾芭蕉や室井基角に大きな影響を与えたとされているようです。
秀秋の5歳年上になる三番目の兄・延俊(のぶとし)は、ねねが最も可愛がった甥っ子と言われています。
父の信任も厚かったようで、兄2人が若狭の領地持ちだったため、父の不在時は姫路城を城代として預かっておりました。
延俊の正室は細川藤孝(幽斎)の娘。この縁で義兄・細川忠興を通じて、「関ヶ原の戦い」では家康に協力的に振る舞うことができました。
舅・幽斎が籠る田辺城を攻めた報復として、忠興とともに福知山城めに参加。
これらの功績により豊後に移封され、日出藩3万石の初代藩主となりました。
ちなみに、延俊の四男・延由は、本当は「大坂の陣」から薩摩に落ちのびた国松(秀頼の子)である…という伝説があったりします。
真偽は分かりようがないですが、異母兄が藩主の座を継ぐ中、父から5千石の領地を分割相続していたりします。
というわけで、だいぶ駆け足でしたが秀吉・ねね夫妻の実家の群像を紹介してみました。
秀吉の実家・木下家の人たちは、秀吉の覇業に振り回されて本当に可哀想…。
異母弟妹の秀長と旭姫は使い潰され、同母妹のともに至っては息子2人に先立たれた上、長男一家が(秀吉のわがままで)悲劇的な最期を迎えています。
生き残っているのは、秀勝の忘れ形見・完子が九条家に嫁いで血脈を残したくらい。
一方、ねねの実家の人たちは結構したたか。
浅野家は広島と笠間(後に赤穂)の豊かな地をゲットして繁栄し、兄の子は、備中と豊後で幕末まで家を保っています。
この違いはどこから?ねねが秀吉を尻に敷いていたのが効いているのだろうか?
振り返ってみれば、秀吉の実家の人たちは、秀頼が生まれた途端に後継者問題をちゃぶ台返しされて、その煽りを喰らっています。
「関ヶ原の戦い」までさえ生き残っていません。
一方、ねねは秀頼が生まれてから、秀吉と(というか淀殿と)距離を取っていて、その結果、本人も「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」以降、社会的にも生き延びています。
秀頼の誕生。それによる、ねねの距離感。これなのではなかろうか。
もしも秀頼が生まれなかったら…。家督は秀次が継ぎ、日秀尼が悲嘆にくれて隠棲することもなく、淀殿が権力を握ることもなく、ねねもこれほど距離を取らなかったかもしれない。
もしも秀長が長生きしていたら…は聞くけれど、秀次が長生きしていたら…は、あまり聞かないなぁ。
あと、秀吉の母「なか」の姉妹が、後に秀吉子飼いの武将となる福島政則や加藤清正の母にあたる…とされているみたい。
なのですが、なんか伝承レベルのような気がするので、系図では一応取り上げましたが、解説は一旦切り上げにしておきますね。