『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』企画も3回目。

 

前回の内麻呂の息子にあたる、藤原鎌足から数えて6代目・藤原冬嗣から、いつものようにまったりやってみますw

 

 

冬嗣は、内麻呂の次男。

同母兄の真夏を越えて本流となっていく流れは、前回紹介しました。

 

平城上皇の側近だった兄・真夏と、嵯峨天皇の腹心だった弟・冬嗣は、「薬子の変」で大きく運命を分かちます。

この政争劇の時、嵯峨天皇はある秘策を練って、冬嗣に任せていました。

 

それは蔵人頭(くろうどのとう)」という役職の創立。

 

天皇と太政官(政府)を繋ぐのは内侍司(ないしのつかさ)」と呼ばれる役職が担っていたのですが、「薬子の変」の頃、これに就いていたのは平城上皇サイドの藤原薬子でした。

 

嵯峨天皇が動くと、その情報はすべて薬子に上がり、平城上皇の知る所となります。これでは、命令の類は全て平城上皇に耳打ちしているようなもの。圧倒的に不利です。

 

そこで、機密情報を「内侍司」を通さずに太政官に伝えるために編み出された策蔵人所(くろうどのところ)」の存在

 

蔵人所は字面の如く、元々は天皇の所有物を入れる蔵を管理する職だったものが、やがて天皇家の私的諸事も担うようになっていました。

そこに、秘書的機能を追加するべく、蔵人の長官「蔵人頭」を設置したのだとかなんとか。

 

冬嗣は、秘書機関に発展した蔵人の初代長官に任ぜられたのでした。

 

後世、蔵人所は「公卿への登竜門・出世コース」として存在感を見せた…とされるのですが、嵯峨天皇の側近として冬嗣がこの職に就き、大きく功績を上げたことが、その礎になっているのかもしれませんねー。

 

歴史オタク的に注目なのは、謀反事件が発生した時に真っ先に現れる機関だということ。「薬子の変」もそうですし、今回取り上げる「承和の変」(842年)の時もそうでした。

 

その後、承和10年(843年)に文室宮田麻呂(ふんや の みやたまろ)が謀反の嫌疑を受ける事件が起きるのですが、この時もまず蔵人所に呼びだされ、その後に左衛門府(今でいう警察署みたいな)で取り調べを受けています。

 

謀反事件で真っ先に出てくるのは、謀反の当事者の「武装」を没収して蔵に収める役割だったから(=武装解除を担っていた?)のようですが、逆に謀反をでっち上げるのも容易だったかもしれま…おや、誰か来たようだ←

 

 

「薬子の変」後、真夏が参議を解かれて政治生命を断たれると、弘仁2年(811年)に冬嗣が兄に代わって参議に就任。

 

天長2年(825年)には左大臣にまで登り詰め、嵯峨天皇の鐘愛のもと、すっかり藤原氏本流の地位を築いています。

 

冬嗣が登場してから亡くなる(826年)までの、冬嗣の影響力が強まっていた期間、気になるポイントが2つあります。

 

1つ目は、叙任した公卿の顔ぶれ

列挙してみると、以下のようなかんじ。

 

弘仁3年(812年)

藤原藤嗣(40歳・北家)

弘仁7年(816年)

良岑安世(32歳)

藤原三守(32歳・南家)

弘仁8年(817年)

多治比今麻呂(65歳)

弘仁10年(819年)

藤原貞嗣(61歳・南家)

安倍寛麻呂(63歳)

春原五百枝(61歳)

弘仁12年(821年)

直世王(46歳)

弘仁13年(822年)

小野峯守(45歳)

橘常主(36歳)

弘仁14年(823年)

藤原道雄(53歳・北家)

大伴国道(56歳)

清原夏野(42歳)

天長2年(825年)

藤原綱継(63歳・式家)

南淵弘貞(49歳)

天長3年(826年)

藤原愛発(39歳・北家)

 

これを見ると、冬嗣が優先しそうな藤原北家の昇進は、藤嗣(鷲取の子)、道雄(鳥養の孫)、愛発(冬嗣の異母弟)のたった3人だけ。

 

そして、意外と藤原氏以外の人が重用され、入閣(って言うの?)しているな…というかんじがします。良岑氏、多治比氏、阿倍氏、春原氏、小野氏、橘氏、大伴氏、清原氏、南淵氏…。

 

「藤原氏」というと「他氏を排斥して藤原氏が独占する政治状態を作った氏族」というイメージがあるけれど、冬嗣の頃はそうでもなかったのかな…?というと、そうではなく。

 

冬嗣は「藤原四家の勝ち残りをかけてこの布石を打った」という指摘があります。

 

実は、この昇進に声をかけられている人は、本来は出世を望めない氏族藤原氏でも庶流の人ばかり。そして、叙任も「1代限り」という特徴があるのです。

 

良岑安世は冬嗣の叔父にあたり(内麻呂の異父弟)、元皇族ながらミウチ。息子の宗貞は出家して僧侶になっています(僧正遍昭。「百人一首」12番「あまつかぜ~」の詠み人)

 

南家の三守は冬嗣の義兄弟で(姉が冬嗣の妻)ほぼミウチですが、息子の有貞は近江守止まりで終わってます。

 

同じく南家の貞嗣は、「藤原仲麻呂の乱」で処刑された巨勢麻呂の子で、庶流の人。息子の岑人は安芸守、高仁は宮内卿で極官となりました。

 

式家の綱継は、42歳の若さで没した蔵下麻呂の子で、庶流。息子の吉野は「承和の変」で失脚してしまいます(まぁ、これは冬嗣の計算ではないんでしょうけど)

 

北家の道雄は、鳥養の孫(小黒麻呂の子…なので、冬嗣とはやや離れています)という血統の良さでしたが、息子の氏範は遠江権守までで終えました。

 

一方で、当時の有力者たちは、定員の壁に阻まれて公卿の列に加えてもらえていません

 

淳和天皇のもとで権臣となっていた式家の緒嗣(おつぐ。百川の子…つまり淳和天皇の叔父)の家では、息子の家雄は公卿を目前に若死(832年)、春津は52歳で没する(859年)まで参議になれず、緒嗣の弟・継業も、位階こそ三位にあがりましたが、参議にはなれませんでした。

 

平安時代、貴族の子の昇進は蔭位(おんい)」といって、父が達した位階・官職が参考にされていたので、父が公卿になれたかどうかで子孫の出世に影響が出ます。


つまり、将来自分の子たちの脅威になりそうな者たちは、定員の壁で阻んで昇進レースから除外する。

これにより、藤原式家は以降振るわなくなり、藤原南家も「院政期~源平期」に藤原通憲(信西入道)が出てくるまでは、(中央政権では)なんだかぱっとしない感じになってしまいました。

 

一方で、本来出世が見込めない者たちには声をかけて、次世代に恩が返ってくるようにする(おそらく「1代限り」の条件をちゃんと提示して)

こうして、冬嗣の引き立てで高いポストにありつけた諸家たちは、冬嗣の息子たちをサポートするという「恩返し」をするようになり、彼の子孫は日本最大の名門「摂関家」への道を上がっていくことになりました。

 

弘仁9年12月(818年)、右大臣の藤原園人(北家)が薨去。

しかし冬嗣は、何故か弘仁12年(821年)まで右大臣にはならず、左大臣には亡くなる前年(825年)までなりませんでした。

 

これ、自分が「上がらない」ことで、公卿の「ポストの数を抑える」狙いだったのでは…と、言われる向きがあるみたい。

 

「冬嗣殿を越えて右大臣・左大臣に上がりたい!」なんて言える貴族はいないですからねー。

「冬嗣殿が左大臣になってくれたら2人分の枠が空いて、うちの息子が参議に入れるのに…」という恨み言が聞こえてきそうですw

 

藤原四家生き残りレースは、父の内麻呂がうまく立ち回って他家を追い落とし、そして息子の冬嗣が人事権を使ってトドメを刺した…といっても過言ではないのかもしれませんね。

 


そしてもう1つは、嵯峨天皇の夫人・橘嘉智子(たちばな の かちこ)の優遇。

 

嵯峨天皇の妃には、高津内親王という桓武天皇の皇女(坂上苅田麻呂の娘の所生)が就いていたのですが、跡継ぎに恵まれず、妃の身分を降りることになります。

 

そこで嘉智子は、跡継ぎ有力候補の正良親王(後の仁明天皇)を生んでいたこともあり、弘仁6年(815年)30歳で「夫人」から「皇后」へ昇格となりました。

 

嘉智子の祖父は橘奈良麻呂(ならまろ)。「橘奈良麻呂の乱」(758年)で処刑された謀反人でした。

父の清友は有能な官僚として頑張り、なんとか家の名誉を回復しましたが、延暦8年(789年)に32歳の若さで病没。嘉智子、この時4歳。

 

祖父は謀反人、父は早死にで後ろ盾なし…どう考えても行く末は暗い…。

そんな嘉智子が、嵯峨天皇の皇后にまで登り詰めたわけです。

 

一見、運命に捨てられたような彼女を、この地位まで引き上げたのは誰なのか…というと、どうやらそれは藤原氏だったみたい。

というもの、藤原北家は(中でも特に冬嗣の家は)橘氏と親戚関係だったから。

 

橘氏は、奈良時代に縣犬養美千代(あがたいぬかい の みちよ)という女官が、「橘」の姓を賜って生まれた氏族。

この三千代の娘・牟漏女王(むろ の おおきみ)が、藤原北家の祖・房前に嫁いで、生まれたのが真楯。

 

つまり、内麻呂の祖母が橘氏だったのです(ちなみに牟漏女王は葛城王=橘諸兄の同父妹にあたります)

 

嘉智子の入内は、祖母の縁を受けた内麻呂が後見を買って出たことで実現したのかもしれないですねー(入内した頃と思われる802年前後、内麻呂は中納言なので、十分あり得そう)

 

 

内麻呂は812年に亡くなっているので、嘉智子が皇后になった815年は、冬嗣の代でのこと。

 

前回ちらっと触れましたが、嵯峨天皇のもとには冬嗣の妹・緒夏も入内しています。

本来なら冬嗣は、この妹こそ皇后にしたかったはずですが、冬嗣は惜しげもなく、嘉智子を皇后へと押し上げてくれたのです。

 

緒夏には皇子がなかったので、それも大きな要因の1つでしょうけれど、別に嘉智子を「皇后」にせず「夫人」のままにしたって、冬嗣は何も困らなかったはず。

 

内麻呂・冬嗣父子のおかげで、皇后にまで立身することができた嘉智子。返しても返しきれない大きな恩…。

 

この華やかな重荷は、冬嗣の子・良房の代に「恩返し」することになるのですが、これが嘉智子をして橘氏の運命を大きく変えてしまうことになります。

 


藤原氏本流に連なる、冬嗣の子は良房(よしふさ)

 

母は藤原南家・真作の娘の美都子(先程の昇進話で出て来た、藤原三守の姉)

良房は次男で、同母兄に長良(ながら)がおります。

 

何故、良房は同母兄の長良を越えて本流となったのか…については、実は次回に先延ばししてしまいます…なんと、なんと(笑)

 

今回は、上記のような経緯で冬嗣の妹分だった…とも目される、橘嘉智子にスポットを当ててみます(ちなみに、786年生まれなので、冬嗣の11歳年下。良房からは14歳年上になります)

 

 

平安時代初期の皇統は、桓武天皇の3人の皇子である、安殿親王・神野親王・大伴親王の3兄弟から交互に後嗣が立てられる…という特徴がありました。

 

まず、安殿親王=平城天皇が、同母弟の神野親王=嵯峨天皇に譲位。

皇太子には、平城天皇の子・高岳親王が立てられたのですが、平城上皇が起こした「薬子の変」に連座して廃されてしまいます。

 

そこで、嵯峨天皇は異母弟の大伴親王を新太子に指名。

弘仁14年(823年)、大伴親王は譲位を受けて即位しました(=淳和天皇

淳和天皇は皇位継承について、感謝の念は覚えながらも「迷惑だな」とも思っていたみたい。

 

「そもそも『薬子の変』がなければ、兄たち両統の迭立で皇統は進んで、自分なんて皇位とは関係なかったのに…」

 

そこで、皇太子には嵯峨天皇の皇子・正良親王を立てています。

「皇位は迷惑だけど、わたし一代だけだったら…」という思いがにじみ出ているかのよう。

 

この正良親王は、先程も触れた通り、橘嘉智子の所生。

嘉智子は皇太子の母になったのです。

 

淳和天皇は10年間の在位を経た833年、皇太子に譲位。

正良親王が即位して、仁明天皇となりました。

 

皇統は再び嵯峨天皇の系統に移った…ここで、淳和上皇にとって驚愕の人選が行われます。

なんと、仁明天皇の皇太子に、淳和天皇の皇子・恒貞親王(つねさだ)が立てられたのです。

 

恒貞親王は、淳和天皇と正子内親王(仁明天皇の同母妹…つまり嵯峨天皇と嘉智子の娘)との間に生まれた皇子。

 

いわば嵯峨統と淳和統の両統が合流する人物で、嵯峨上皇もそのために立太子を望んだ…と言われているのですが、両親ともに皇族である以上、有力貴族の後ろ盾を持たない皇族でした。

 

 

一方、新帝・仁明天皇には、有力貴族の藤原冬嗣の娘・順子(のぶこ。良房の同母妹)が嫁いでいて、道康親王(827年生まれ)が生まれています。

 

良房は道康親王を天皇にしたいはず。となると、恒貞親王は邪魔な存在。もしかしたら危険な目に遭うかもしれません。

 

慌てた淳和上皇と恒貞親王は、口を揃えてこれを断るのですが、嵯峨上皇たっての願いを断り切れず、ついに立太子。

 

嵯峨・淳和の両統迭立状態が、嵯峨上皇の強い希望により続いてしまうことになりました。

 

嵯峨上皇が亡くなったら、改めて皇太子を辞退すればいいや…くらいに考えていたのかもしれません。

 

不穏要素を抱えながらスタートした仁明朝は、7年目の840年に淳和上皇が崩御、そして842年に嵯峨上皇も崩御して、2人の上皇という重石がなくなると途端にバランスが崩壊。一気に不穏な空気が噴出します。

 

嵯峨上皇が亡くなって2日後の承和9年7月17日。

 

伴健岑(とも の こわみね)橘逸勢(たちばな の いつせ)が、謀反の疑いで逮捕されるという「事件」が発生しました。

 

伴健岑は、恒貞親王の側近・春宮坊帯刀(皇太子の家政機関に仕える武官)

橘逸勢は、伴健岑の盟友でした(ちなみに、嘉智子にとっては従兄弟の関係)

 

2人は、恒貞親王の身の上を不安視していたみたい。

 

「嵯峨上皇が亡くなったら、道康親王を戴くべく、良房は必ず動く」

「恒貞親王が危うい…。どうしたら良かろうか」

「恒貞親王を東国に移して、身の安全を図るのはどうだろう」

「しかし、我々では力不足だ…誰か頼れるものはいないものか」

 

そこで思いついたのが、阿保親王を頼ること。

 

阿保親王は平城天皇の皇子で、有力皇族だったのですが、「薬子の変」に連座して傍流の皇子になっていました。

(ちなみに、阿保親王は以前紹介した在原業平の父に当たります)

 

時が過ぎて仁明天皇の頃までには、上野国や上総国の太守に任命されるなど、それなりの地位と権威を有していた模様。

 

王位継承争いの悲惨さを知っている人だから、きっと助力してくれるに違いない…というのもあって、頼ろうとなったようです(上野・上総太守=東国を知行されていたのもポイントだったんですかね)

 

恒貞親王を東国へ移してお守りしたい。だから助力を願いたい(皇子を請け奉りて東国に入らむ)」

 

そんな話を持ち掛けられた阿保親王は、驚愕。

「皇太子殿下を東国に移すなんて、安全どころか死地に追いやるようなものではないか」


かといって、止めることもままならず…。

困り果てた阿保親王は、皇后の橘嘉智子に事の次第を密告して解決を委ねる…という一手に出ました。

 

「皇子を請け奉りて東国に入らむ」とは、「東国で兵を募って兵乱を起こすぞ!」というよりも、「騒動に巻き込まれないように親王を東国に避難させたいんです」というような、消極的な策にも見えます。上手く立ち回れば、謀反事件未満で収められるかもしれません。

 

そして、この策略の真の主謀者は、親王の側近である伴健岑。橘逸勢は盟友に誘われて同調しているだけ。

同じ橘氏である嘉智子が、従兄弟として、同族として、秘密裏に逸勢を説得し、事態を揉み消し、この無謀な賭けを阻止してくれるのではないか。

 

阿保親王は、そう期待したのだと思います。

 

しかし嘉智子は、逸勢を説得するでもなく、恒貞親王に事情聴取をするでもなく、この話を全て良房に打ち明けて、事態の収束を任せてしまいます

 

良房は、首謀者と目された伴健岑と橘逸勢の逮捕。続いて、藤原愛発(56歳・大納言。良房の叔父)、藤原吉野(57歳・中納言)、文室秋津(56歳・参議兼春宮坊大夫)といった、皇太子派の閣僚の拘束を指示し、次々と罰していきます。

 

恒貞親王は淳和院に幽閉され、仁明天皇の詔により正式に廃太子。洋々たる将来は、ここに閉ざされてしまいました。

 

橘氏では、嘉智子の兄・氏公などは台閣に残れましたが、当の逸勢が配流先に向かう途上で病死。永名、末茂、清蔭、真直などが罪人とされ、失脚。

 

橘氏から皇后が輩出され、これから一族繁栄の礎を築き上げる…その大事な時期に、一族は未来を担うはずの人材を失ってしまったのでした。

 

 

以上が、世に言う「承和の変」(842年)のあらまし。

この一連の流れを見るにつれ、やっぱりどうしても、考えてしまいます。

 

「なんで橘嘉智子は、良房にバラしちゃったのかなぁ…」

 

良房にバラしたら、この出来事を恒貞親王の謀反未遂事件に発展させて最大限利用するだろう…なんて、子供でも分かりそうなもの。

 

そして、陰謀には橘氏の男が大きく関与している以上、氏族全体が連座して大打撃を受ける可能性は十分に考えられますし、事実そのようになってしまいました。

 

どうしても良房に言わなければならなかった…というと、実はそうでもありません。

 

この時、良房は38歳・正三位・中納言。首座でないどころか、朝堂で第6位の中間管理職でした。

 

そして、嘉智子の実兄にあたる橘氏公(たちばな の うじきみ。61歳)は、正三位・大納言。良房よりも上席で、年齢も相当上で経験豊富。決して不足ではありません。

 

橘氏や恒貞親王の保全を図るためにも、事態を穏便に収拾していた可能性は高く、またそうできるだけの権力もあり、センシティブな話を相談するのに兄妹の関係はとても信頼できます。

 

どう考えても、氏公に任せるのが最適解…。

 

むしろ、実兄で上位者である氏公を差し置いて、朝堂で第6位に過ぎない良房に事態の収拾を委ねていることの方が不自然です。

 

なのに、嘉智子は良房を選んでしまった…。

 

兄の氏公に任せたら橘氏をかばうに決まっていて、公正に欠けるから良房を選んだ…という見方もできます。

 

しかし、「承和の変」には藤原氏も絡んでいるから、この理屈では良房も不適任といえます。

 

と見てくると、嘉智子が良房を選んだのは、「冬嗣の子だったから」以外に、説得力のある見方はなさそう。

 

「自分を皇后にしてくれた」という「冬嗣から受けた大きな恩を良房に返す」という選択だったんでしょうかね。

 

 

嘉智子に密告をした阿保親王は、「承和の変」後には全く参内しなくなり、やがて3ヶ月後の10月22日に51歳にして薨去。

自害だったのでは…というほどの急死で、「自分のせいで恒貞親王の将来を失わせてしまった」という失意がにじみ出ています。

 

恒貞親王の母親で、嘉智子にとっては娘に当たる正子内親王は、大いに母を「恨んだ」と言われ、正史『日本三代実録』には、正子内親王の怒りが記されています。

 

(承和)九年七月 嵯峨太上天皇崩ず 皇太子 歘に讒搆に遭ひて廃せ見る 太后 震怒し 悲号して母太后を怨む 皇太子 退きて淳和院に居す 仁明天皇 諱親王を立てて 皇太子と為す 文徳天皇の斉衡元年四月 皇太后を尊びて太皇太后と為すも 后遂に当を肯ぜず

(『日本三代実録』元慶三年三月癸丑条(正子内親王の崩伝))

 

恒貞親王が無実の罪で(讒搆に遭ひて)廃太子となった時、太后(正子内親王)は母太后(嘉智子)を体が震えるほど激怒(震怒)して悲しみ怨んで(非号して母太后を怨む)、その憤りは文徳天皇(道康親王)が「太皇太后」の称号を贈った時に受け取りを拒否するほど(遂に当を肯ぜず)深いものだった…というわけです。

 

正史『日本文徳天皇実録』の嘉智子の崩伝には、こんな記事が載せられています。

 

太皇太后を深谷山に葬る 薄葬を遺令するにより 山陵を営まず 是より先 民間の訛言に云はく 今茲の三日 餻を造るべからずと 母子無きを以て也 識者 聞きて之を悪む 三月に至り 宮車晏賀す 是の月 亦大后の山稜之事有り 其れ母子無く 遂に訛言の如し 此の間 田野に草有り 俗に母子草と名づく 二月に始めて生ひ 茎葉白く脆し 三月三日に属ふ毎に 婦女之を採る 蒸し擣きて以て餻と為し 伝えへて歳事と為す 今年 此の草 繁らざるに非らず 生民之訛言は 天 其の口を仮れり

(『日本文徳天皇実録』嘉祥三年五月壬午条(嘉智子の崩伝))

 

三月三日の歳事には草餅(餻)を作る風習があったのですが、ある年に「材料となる母子草(ははこ草)が不作で作れなくなるのでは」と噂が立ったといいます。

 

嘉祥3年(850年)3月21日、仁明天皇が崩御して(宮車晏賀す)、同じ年の5月4日に嘉智子大后も亡くなりました(大后の山稜之事有り)

天皇母子が相次いで亡くなったから、母子草が採れなくなりそうだ…という噂になったというわけ。

 

有識者は「よくない噂だ」と眉をひそめます(識者 聞きて之を悪む)が、噂と言うのは天が民衆の口を借りて言っているものですからね…(生民之訛言は 天 其の口を仮れり)という言葉で締め括られています。

 

一見すると、仁明天皇と嘉智子太后をほぼ同時に失った悲しみを、「母子草が姿を消す」という噂で賛辞代わりにしているような記事。

ですが、「識者が噂に眉をひそめた」とか「天は意思を民衆の口を借りて世間に伝える」とか、わざわざ書き足して「含み」を持たせている感じがあります。

 

この民衆が噂したのは、表向きは「天皇と母后」だけれども、「母后は娘に義絶されて関係が切れていたから母子草が生えなくなる」という裏の意味が込められていて、だから不謹慎だと識者は眉をひそめ、しかし天には隠し通せない(これが真意だ)と、暗に言い含めているとも読めます。

 

これほどまでに、娘から深い恨みを買ったのは、恒貞親王が廃されるのを防げたのに防がなかった、いやむしろそれに加担したと、正子内親王が確信していたから…なのかもしれません。

 

 

嘉智子から委ねられた良房は、これを絶好の機会として活用。

 

「承和の変」は、すべて良房の得になるような結果になったので、「良房が裏で糸を引いたのではないか」…と、よく陰謀論が囁かれます。

 

しかし、事の次第を見てみると、伴健岑が思い立ち、橘逸勢が乗って、巻き込まれた阿保親王が密告して、橘嘉智子が良房に打ち明けて事件の処理を任せる…と、様々な人々が複雑に参加していて、とても裏から操れるような事件劇ではなく。

 

良房が黒幕というのは、無理があるよなぁ…という感じがします。良房はかなりラッキーでした。

 

しかし、転がり込んできた時に迅速に(時には非情に)動いて逃さず捕まえてこそ、ラッキーはラッキーになるのです。

 

このラッキーをがっちり利用して、甥の道康親王を皇太子に立て、さらに自分の娘を入内させて、外戚への道を確保。

 

上位者だった藤原吉野や藤原愛発を失脚させ、首座への道を切り開きました。

 

前述の通り、橘氏にも容赦しない良房。

嘉智子から返された恩を、嘉智子に戻そうともしない…そんな風にも見えます。

 

結果、嘉智子は甥の恒貞親王や同族たちが落ちぶれて行く様を目の当たりにすることになり、愛娘に義絶されてしまうような憂き目に遭ってしまいました。

 

真面目に恩を返した嘉智子がバカみたい…?いやいや。これは嘉智子と良房の、政治家としての差。ただそれだけのことでしょう。

 

「政治家は大物になりたかったら、人に恩義を感じさせても、人から受けた恩義はすぐに忘れろ」というのは、真理なのかもしれませんなぁ。

 

 

 

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