イギリスの新国王「チャールズ3世」の即位を記念して、「チャールズ1世」と「チャールズ2世」が揉まれてきた英国史の過酷な荒波を取りあげて来た、このシリーズ。
目的は無事に達成できたのですが、オマケというか余話というか。
もう1人、とある人物を語ると、ちょうどよくフィニッシュできるんです。
その人の名は、チャールズ・エドワード・スチュアート。
通称「チャールズ3世」。
もちろん、先日即位したチャールズ3世とは全くの別人。
時代もかなり違って、18世紀を生きた人でした。
アントニオ・ダヴィッド『チャールズ・エドワード・スチュアート王子』1729年頃
18世紀と言えば、前回までに紹介した「清教徒革命」「名誉革命」の続きの時代。
スコットランドから王を招いて始まったスチュアート朝が終焉を迎え、新しい王朝になってから…そんな頃になります。
チャールズ3世となったのは、後世に伝えられていく歴史では、21世紀を生きる現国王のチャールズ3世陛下しかあり得ません。
でも、もう1人のチャールズ3世は、完全なる真っ赤なニセモノかというと、そうでもなく。
彼は「名誉革命」でイギリスを追放された、ジェームズ2世の孫にあたる人物。
「名誉革命」さえなければ、もしかしたら国王になっていてもおかしくなかった、「もうひとつの世界線の国王」なのです。
ただ、彼を語るには、スチュアート朝から次のハノーヴァ朝に変わっていくまでの時代まで見なければならなくて…また長くなりそうな予感が…(笑)
(「チャールズ・エドワード・スチュアート」では名前が長いので、以下「チャールズ」と呼びますね)
1688年「名誉革命」は、イギリス議会が国王ジェームズ2世を国外追放にした事件。
全ての発端は、「ジェームズ2世がカトリック信徒だった」ことでした。
カトリックの信徒がイギリス国王になるのは、本当はダメでしたが、現王チャールズ2世(ジェームズ2世の同母兄)がゴリ押しします。
ジェームズ2世の2人の王女が、ともにカトリックではなかったので、議会は「中継ぎならいいか」としぶしぶ承認しました。
それなのに、ジェームズ2世と王妃の間に世継ぎとなる男の子が誕生。しかもカトリック信徒が決定路線。
「カトリックの王が2代続くのは御免だ!」と、議会の過激派は堪忍袋の緒が切れて「国王を国外追放する」という暴挙…もとい、革命に及んでしまったのでした。
…というのは、前回触れたとおり。
この「名誉革命」の伏線となってしまった、ジェームズ2世と王妃の間に生まれた「間の悪い」男の子「ジェームズ・フランシス」が、今回の主人公・チャールズの父親。
イギリスから追放されたジェームズ2世とともに、フランスに渡った時、まだ生後5ヶ月の赤ちゃんでした(もちろん、チャールズはまだ影も形もありません)
ジェームズ・フランシスはフランスで育てられ、「太陽王」ルイ14世によってイングランドとスコットランドの正統な王位継承者と認められました。
ところで、グレート・ブリテンといえば、イングランドとスコットランド、そしてアイルランドがあります。
アイルランドはテューダ朝によって無理矢理イギリスに従わせられ、共和政時代のクロムウェルによる外征を受け、属国にされていました。
しかし、カトリックが多い土地柄という信仰までは塗りつぶせませんでした。
なので、プロテスタントのウィリアム3世を「アイルランド王」として戴くのは、信条としては「なんかイヤだ」と思っていたみたい。
でも、ジェームズ2世なら、カトリック。
ここに、ジェームズ2世を国王に望む素地ができあがっていました。
そしてスコットランドでも、高圧的なイングランドと、オランダからやって来た「よそ者」の王ウィリアム3世に反感を持つ者が少なくなく、ジェームズ2世の復帰を望む人が同じく存在しました。
彼らは、「ジェームズを支持する人たち」ということで「ジャコバイト」と呼ばれます(ジャコバイトは「ジェームズ」のラテン語読み)
「名誉革命」の翌年の1689年。ジェームズ2世は捲土重来を狙って「アイルランド」に上陸。
「待ってました国王陛下」とばかりに歓迎するアイルランドは、「信仰の自由に関する法」を成立させて「ジェームズ2世こそがアイルランドの王である」と宣言。
ここに「ジャコバイトvsウィリアマイト(ウィリアム3世軍)」の「内乱」が勃発します。
軍備・訓練の劣るジャコバイト軍と、慣れない風土で戦うウィリアマイト軍の戦いは一時膠着したものの、ウィリアム3世が親征でやって来ると形勢逆転。
「ボイン川の戦い」でジャコバイト軍を大敗に追い込んで、反乱鎮圧に成功しました。
ジェームズ2世は味方の兵を置き去りにして、ほうほうの体でフランスに逃げ帰り、捨てられた形となった兵士たちから「くそったれのジェームズ」という「悪名」をつけられたといいます。
結局、ジェームズ2世の野望はここまで。二度と故郷イギリスの地を踏めないままに、1701年、フランスのサン=ジェルマン=アン=レー城で67歳の生涯を閉じました。
しかし、ジャコバイトの襲来を防ぎきった名誉革命政権も、暗雲が立ち込めます。
ジェームズ2世を追い出して迎えたメアリー2世は跡継ぎのないまま亡くなり(1694年)、共同統治者の夫・ウィリアム3世も事故が原因で亡くなると(1702年)、デンマークに嫁いでいたメアリー2世の同母妹・「アン」が即位。
アン女王にも子供がなく、本人が酒好きで健康状態の悪化も見られたため(ブランデー好きだったため「ブランデー・アン」と呼ばれました)、イギリス議会は「その次の後継者を誰にするか?」の対応に迫られました。
カトリックではない王族となると、ドイツのハノーヴァ選帝侯ゲオルグが女系で繋がっていました。
しかし、この継承者選定案には、スコットランドで大きな反対がありました。
「一度もイギリスに足を踏み入れたことがないドイツ貴族を迎えるくらいなら、ジェームズ・フランシスを改宗させたほうがマシでは」
でも、あのジェームズ2世の子がカトリックから改宗するなんて、とても思えません。
しかし、ここで無下に却下すると、スチュアート朝創始以来100年続いたスコットランドとの同君連合が解消されてしまうかもしれない…それは何かと危険が伴います。
まずは分裂を避けようと、イギリス議会は「イングランドとスコットランドの合併」を進めます。
幸い、スコットランド議会も通商と経済の問題から賛成多数で合併が決定。
ここに「グレート・ブリテン連合王国」が誕生しました(1707年)
1714年、アン女王が亡くなり、スチュアート朝の直系が断絶すると、かねてからの予定通りハノーヴァ家から選帝侯ゲオルグが来英して「ジョージ1世」に即位し、ハノーヴァ朝が始まりました。
すると、北部イングランドで、ついにジャコバイトの反乱が勃発。
「ドイツの王なんて認めん!玉座にはジェームズ・フランシス様に就いて頂く!」
これを好機と見たジェームズ・フランシスは、すぐに兵を集めてスコットランドに上陸。
「我こそはイングランド王ジェームズ3世にして、スコットランド王ジェームズ8世なり!」
しかし…鳴り物入りで上陸したものの、事態を見越していたらしいイギリス議会によって、すでにジャコバイトの反乱は鎮圧された後。
ジャコバイトが意気消沈してしまっては、戦いたくても戦えません…生まれた時と同じく間の悪さを発揮…(苦笑)
ジェームズ・フランシスは大陸に戻るしかなく、目論見は、すべて失敗の彼方に消え去ったのでした。
時を同じくして、最大の後援者だったルイ14世が亡くなり、フランスはイギリスと関係改善を求めて「英仏同盟」(1716年)の締結を迎えました。
大陸に戻ったジェームズ・フランシスは、フランスからの出国を余儀なくされ、教皇クレメンス11世の庇護を受けることになり、ローマに移住。
ここで、マリア・クレメンティア・ソビエスカ(ポーランド国王ヤン3世ソビエスキの孫娘)と結婚し、1720年に待望の男の子をもうけます。
この子が、チャールズ・エドワード・スチュアート。
チャールズはローマっ子だったんですねー。
時は流れて、1745年。イギリスではジョージ2世の時代。
(ちなみに日本では、江戸8代将軍・吉宗が息子の家重に将軍職を譲った年)
ヨーロッパ中部では「オーストリア王位継承戦争」が始まり、これに派生する形でアメリカ大陸でイギリスとフランスの「ジョージ王戦争」が繰り広げられる…という御時世。
このクソ忙しい隙を突くように、25歳の好青年となっていたチャーリーが突如としてスコットランドに上陸しました。
「我はチャールズ・エドワード・スチュアート。父王ジェームズ3世の跡を継いで、イギリスの王位を奪還する!」
30年ぶりとなるジャコバイトの反乱軍は、(政治的には断裂を感じながらも)意気揚々と「エディンバラ」を出発。
「カーライル」や「マンチェスター」らの重要拠点を制圧し、2ヶ月で「ダービ」まで到達しました。
「ダービ」から「ロンドン」までは、約200km。
東京~静岡間、大阪~名古屋間くらいの距離。ちなみに新潟県の東西で330kmくらい。
そんな近くまでやってきたジャコバイト軍に、ロンドン市民はパニックに陥ったと言います(そりゃそうだ)
しかし、ジャコバイト軍はロンドンにやって来ることはなく、スコットランドへ撤退を始めていました。
ここまで短期間で快進できるとは考えてなかったらしく、補給線が伸びすぎていたのです。
「ダービに至ったことを1つの軍事的成功として、一旦スコットランドに退いて足場を固めましょう」
「フランスの援軍もまだ来れないようですし…」
チャールズは「ハノーヴァ王家を倒さなければ我々の勝利ではない」と考えていましたが、スコットランド人支持者たちにそう主張されては仕方がありません。
やがて、イギリス軍ではカンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスが赴任。
彼はジョージ2世の三男にあたる軍人で、「オーストリア継承戦争」で敗戦した失敗の汚名返上に燃えていました。
「ジャコバイトどもがスコットランドに戻るのは、奴らにとっては最良で、我々にとっては最悪だ!」
カンバーランド公は、十分な準備を行うと、1746年1月にエジンバラを奪還。
4月、火器どころか食料すら持てなくなっていたジャコバイト軍に、カンバーランド公は容赦なく大砲を浴びせかけて総攻撃を加え、ジャコバイト軍は大敗(「カロドンの戦い」)
戦後、敗残兵や反乱分子の集落を虐殺・根絶やしにしてジャコバイトを一掃し、カンバーランド公は「殺戮者(ブッチャー)」の悪名をつけられます。
一方のチャールズは、女装してスコットランド北部を逃げ回り、ようやくフランスの船に確保されて、イギリスを離脱。
「ジェームズ2世」「ジェームズ・フランシス老僭王」「チャールズ若僭王」と3代に渡ったジャコバイト運動は、失敗に終わってしまったのでした。
ローマに戻ったチャーリーは、まだ「イギリス王になる」夢を捨て切れない理想と、深酒と女遊びに耽る自堕落な男に持ち崩した現実の中で生き続けます。
やがて、フランス宰相からは「スチュアート朝再興は酒呑み野郎の妄想」と言い捨てられ、教皇からは「チャールズ3世」を認めてもらえなくなります。
失望の苦い思いを抱きながら、1788年、チャールズはローマで67歳の生涯を閉じました(奇しくも祖父・ジェームズ2世と同じ享年ですな)
落ちぶれたチャールズは、しかしスコットランドでは郷愁にも似た想いとともに、忘れられない人になっていたようです。
若き勇士としてジャコバイトを率いた若者は「いとしいチャールズ王子(ボニー・プリンス・チャーリー)」と呼ばれるようになり。
それは「私のいとしい人(マイ・ボニー)」という民謡となって、ザ・ビートルズも歌うような「伝説」となりました。
ボニー・プリンス・チャーリーは、かつて快進撃の末にたどり着いたダービの町で、銅像となって馬上から周囲を見渡し、今も愛されているそうな。
旧「チャールズ3世」は、まだイギリス人の心と共に、あるのかもしれませんねー。
以下、余談。
1745年、戦いに敗れたチャールズは、追手を回避しながらフランスへ渡る手段を探しましたが、妙手が見つかりません。
そんなチャールズの首に、イギリス政府から3万ポンド(20億円)の賞金がかけられます。
後がない惨めな敗軍の将に多額の賞金。敵は血眼になって探し、味方だって誰が裏切ってもおかしくありません。
しかし、彼を護衛していたハイランドの戦士ジョン・マッキノンは忠誠を貫き、チャールズをスコットランド北西にあるスカイ島からフランスへと亡命を成功させました。
「ありがとう。私が5ヶ月に及ぶ追われる身ながら、ここまで無事に生きられたのは、君たち一家の忠誠があってこそだ」
チャールズはマッキノン家への感謝のしるしとして、スチュアート王家に門外不出で伝わる酒の製法を授けたといいます。
この王家秘伝の美酒のレシピこそが、後の「ドランブイ」(ゲール語で「満足のいく酒」)
「ドランブイ」はマッキノン家でひっそりと代々伝えられ、20世紀になって、エディンバラの銘酒として販売され、今に至っています。
名優ハンフリー・ボガードは、マティーニとともにドランブイの愛好者で、彼の行きつけのBarでは、ドランブイの減り具合で、彼が旅先にいるかどうかを察した…という逸話が残っているんだとか。
その酒のラベルには "Prince Charles Edward's Liqueur"(チャールズ・エドワード王子の酒) と印字されています。
王家秘伝の美酒「ドランブイ」、味わってみたいものですねー(ちょっとお高い…)
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