イギリスでは、エリザベス女王の崩御によって、御子息のチャールズ皇太子が新国王に即位されました。

 

イギリス新国王チャールズ3世が即位「最愛の母の死はこの上なく悲しい」【エリザベス女王死去】
https://www.businessinsider.jp/post-259109

 

チャールズ3世。1948年11月14日生まれ。73歳にして新国王。

 

我が国の今上陛下も即位は59歳でしたし、歴代では光仁天皇の60歳が最高記録(奈良時代末期)。

 

先代が亡くなったら跡を継ぐ(あるいは譲位が難しい制度がある)以上、ご高齢の君主が即位した例は歴史上少なくないとはいえ、70を超えての新国王は大変なことだなぁ…と庶民は思ってしまいますねぇ…(^^;

 

 

ところで、ずっと以前から、チャールズ氏が即位した際には「統治名『チャールズ3世』は避けるのでは」という憶測がありました。

 

というのも、英国は過去に2人、国王が処刑されているのですが、その1人が「チャールズ1世」だったから。

 

不吉だ…と言われていたんですね。

 

チャールズ氏のフルネームは、チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ(Charles Philip Arthur George)。

 

祖父(ということはエリザベス女王の父)は「ジョージ6世」というのもあって、「ジョージ7世」になるのではないか…と推測があって、ワタクシの関心ごとでもあったのですが、順当に「チャールズ3世」にされたわけなんですなー。

 

国王が処刑されるというのは結構インパクトある事件。

チャールズ1世が「清教徒革命」によって処刑された…というのは、「フランス革命」で処刑されたルイ16世同様に、割りと知られているのではなかろうか。

 

一方で、現国王が「チャールズ3世」ということは、処刑されたチャールズ以外に、もう1人、つまり「チャールズ2世」がいるわけですが、このチャールズ2世って、日本ではあんまり知られていないですよね…。

 

そこで、チャールズ2世が拘わった英国史とは、どんなものだったのか?をやってみようかなと。

 

…と思ったんですが、せっかくなので、やっぱりチャールズ1世からやった方がいいかなと考え直しまして(笑)

 

新国王の即位を記念して、今日は不運の国王チャールズ1世が歩んだ英国史の荒波について取りあげてみようと思います。

 

 

「チャールズ1世」は、17世紀の人物(1600~1649年。在位:1625~1649年)。

日本で言えば、江戸時代の3代将軍・家光のあたりの頃。

英国史では「スチュアート朝」の時代の人です。

 


アントニー・ヴァン・ダイク『チャールズ1世、アンリエッタ・マリアと2人の子供』1632年

 

英国のスチュアート朝は、スコットランドから王を招いたことから始まります。

 

1603年、女王エリザベス1世が死去したことで、「テューダ朝」王家の直系が断絶。

 

イギリス議会は、エリザベス1世の大叔母・マーガレットが嫁いでいたスコットランド王家(スチュアート家)から、新国王を招きました。

 

即位してジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)

チャールズ1世の父に当たる人物です。

 

 

ジェームズ1世は苦労人で、ブログ1記事なんかでは足りないくらい波乱の人生を送っていて面白いのですが、今日やるにはちと余計なので割愛して…。

 

スチュアート朝の頃のイギリスは、以前とは社会構成が激変していました。

 

むかしは、貴族が大威張り。

 

イギリス議会は門閥貴族どもによって牛耳られ、国王の行動を制限していました。

「ジョン欠地王」に叩きつけた「マグナ・カルタ」(1215年)なんかがいい例ですよね。

 

しかし、スチュアート朝の頃の貴族は、もうボロボロ。

 

フランスに送り付けた宣戦布告が、予想をはるかに超えて100年以上も燃上(1337~1453年「百年戦争」

さらに「ランカスター家」と「ヨーク家」による王位継承争いに貴族が次々参戦し、グダグダと長引いて泥沼化(1455~1485年「バラ戦争」

 

貴族たちは自分たちが引き起こした戦争によって人材や財産を潰して疲弊し、自業自得の果てに没落してしまったのでした。

 

沈みゆく貴族たちに代わって、平民たちの中の富裕層「ジェントリ」が台頭。

イギリス議会はジェントリが主導するようになっていました。

 

「バラ戦争」の戦後を収集してイギリスを治めた「テューダ朝」は、ジェントリとの関係が良好でした。

 

貴族を除外して独裁政権を築きたい国王。

貴族を除外して土地や財産を奪いたいジェントリ。

利害関係は完全に一致。

 

テューダ朝最後の君主・エリザベス1世が「大航海時代」を成功させたのも、貴族という邪魔者がおらずジェントリという協力者がいた、これが大きかったのでは…なんて見方もあったりするようです。

 

ただ、宗教の方では問題の火種がくすぶり始めており、これがチャールズ1世の悲劇な運命を決めてしまうことになります。

(ついでに言えば、チャールズ2世の運命も…)

 

 

テューダ朝2代国王のヘンリー8世は、王妃との離婚問題でカトリックと対立してしまい、挙句に「英国教会」という宗派を立ち上げて決別。

以降、イギリスの国王は(一部例外はあるものの)「信仰は英国教会」とされました。

 

一方のジェントリは、プロテスタントから派生したカルヴァン派の思想に染まっていました。

 

「お金は勤労の結果。勤労は罪なき暮らしの結果。だから神様は、蓄財を祝福して下さる。働くべし!稼ぐべし!」

 

カルヴァン派の教えは、資本主義なジェントリにとって都合のいい、ありがたい教えw

イギリスにおけるカルヴァン派は「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれました。

 

カトリックと決別した英国教会と、腐敗したカトリックを嫌ったプロテスタントをさらに煮詰めたカルヴァン派(ピューリタン)。

 

ともにカトリックと対立する者同士の「敵の敵は味方」なのか、テューダ朝のイギリスでは、両者が混在しても大問題にはならなかったみたい(それでもシリアスな状態でしたが)

 

スコットランドから招かれたジェームズ1世も、苦労人なだけあってピューリタンを黙認する「賢さ」を持っていました。

 

しかし、息子のチャールズ1世は、この「計算」ができませんでした。

 

「イギリス国民は皆、英国教会のもとに集うべき。ピューリタンも例外ではない」

 

「ピューリタン」は、イコール「ジェントル」。金持ちで、そしてイギリス議会を主導している存在。それを敵に回すなんてチャールズぇ…。

ジェントルは己の権力基盤「議会」を動かして対抗。いつぞやの貴族が牛耳って国王を制御していた頃の議会が復活したような装いを呈していきます。

 

そして、スチュアート朝の王様は、イングランドとスコットランドの両方の君主。

スコットランドは国教がピューリタン(長老派)でしたが、チャールズ1世は、スコットランドにも「英国教会の儀式をやるように」と命じてしまいます

 

これにスコットランドの長老派は猛反発。すぐに反対の署名を集めて「スコットランド盟約派」を結成し、兵を招集して戦いも辞さない構えを取りました。

 

チャールズ1世は激怒。ピューリタンを弾圧しようとしますが、スコットランドに軍事的圧力をかけるには軍事費が必要で、軍事費を賄うには議会を開かなければなりません。

 

しかし議会はジェントルの牙城…。本当は議会なんて開きたくないチャールズ1世。

 

しぶしぶ議会を開いてみると、前半は議会軽視の国王を批判する発言ばかりが目立って二進も三進もいかなったのですが、やがて批判と擁護の応酬が白熱するあまり、議会が王党派議会派に分裂してしまいました。

 

「分かりやすくなって好都合だ…ここで反王党派を排除すれば私の勝ちなのだからな!」とばかりに、議会派指導者に逮捕の手を伸ばすのですが、これが失敗。

 

チャールズ1世はロンドンを離れざるを得なくなり、王党派と議会派の対立は、ついに武力衝突に発展してしまいました。

 

 

議会軍は、民兵を主力とする「烏合の衆」だったので、精強な軍人を主力とする国王軍が優勢に進んでいました。

 

しかし、議会派は「スコットランド盟約派」と同盟を組み、オリバー・クロムウェル卿が「鉄騎隊」を組織して軍兵の強化を図ると、徐々に劣勢となっていきます。

 

1645年、「ネイズビーの戦い」で国王軍の主力が敗北。

状況はいかんともし難くなり、チャールズ1世はスコットランドに亡命。

(「イギリス議会」ではなく「スコットランド盟約派」だけに降伏したことで、両者の同盟関係に齟齬を生じ破綻させようとした…と言われています)

 

まもなくチャールズ1世は引き渡され、以降何度か和解がはかられるものの、両者はついに結ばれませんでした。

 

1649年1月27日。裁判によってチャールズ1世の死刑が確定すると、3日後の1月30日。ホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前に設けられた処刑台で、チャールズ1世は処刑。

 

寒い日でしたが、国王は「寒くて震えたら、処刑への恐怖で震えたように見えるだろう」と温かい下着を求め、気を使ってゆっくり進む先導役に「もっと早く歩いていいんだぞ」と陽気に声をかけ、堂々と処刑台へ向かったと言います。

 

「私は現世の王冠を捨て、不滅の王冠をかぶる。英国の末永き平和を祈る!」

 

処刑人が斧が振り下ろし、国王の首が地面に転がった時。

見届けた民衆からは歓声も上がらず、一種異様な空気に包まれました。

「俺たちは、とんでもないことをしてしまったのではないか…」

 

民衆たちの中には、国王の遺骸から流れ出る血に布を浸して「聖遺物」とした者が多かったと言います。

まるで神の子キリストみたいな扱い。チャールズ1世は王権神授説を信じていたらしいのですが、民衆もまた、それに似たような気持があったんでしょうかねー。

 


ドラローシュ『チャールズ一世の遺体を見るクロムウェル』1846年
↑twitterでは度々言ってるんですが、この絵ワタクシ好きなんですw

 

こうしてイギリスは王政を廃し、共和政国家「イングランド共和国」となりました。

ところが、わずか11年で再び王政に戻り、そしてチャールズ2世に繋がっていくことになったのです。

 

これについては、長くなったので次回につづく…ということで、オタノシミニ。ではではー。

 

 

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