1185年、平安時代末期に滅亡した平家。
先日、平家各々の最期をまとめた系図をご紹介しました。
盛者必衰の資格(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12725758773.html
彼らの最期を見ていると、様々なことを考え、色々なことを想像してしまいます。
その中でも、多くの人が気が付き、ハッとなってしまうもの。
それは、
「経盛の子、『一ノ谷の戦い』で全滅している…」
これではなかろうか。
『平家物語』の最終章を飾る、3つの戦い「一ノ谷」「屋島」「壇ノ浦」。
「一ノ谷の戦い」は、その最初の戦いでした。
後白河院が和平を結ぼうと使者を派遣。
その外交交渉中の油断した隙を、義経が奇襲戦法で突いたため、平家軍は大混乱に陥り、壊滅した。
そのように「一ノ谷の戦い」は総括されます。
なぜ経盛の子たちは、ことごとく逃げ遅れたのか?は、ワタクシは分析するほど詳しくないし、容易には説明できないと思います。
逃げ切れた者たちの運が良かっただけかもしれませんし、ねぇ?
そんな経盛の子の中でも、三男の敦盛(あつもり)は有名ではなかろうか。
織田信長が舞った「敦盛」でも良く知られてますね。
笛の名手だったそうで、『小枝(さえだ)』という銘器を継承していました(祖父・忠盛が鳥羽院から賜ったもの)
「一ノ谷の戦い」が敗色濃くなった時、船に乗り込もうとしていた所を、坂東武者の熊谷直実(くまがい・なおざね)に呼び止められ、一騎討ちの末に討死。16歳。
直実の子も16歳だったので、武士の情け(?)で逃がそうとするのですが、他の源氏軍の追手が迫り、敦盛も「手柄にせよ」と覚悟を告げたので、泣く泣く首級を掻き。
「我が子と同い年の少年を殺さねばならぬのか…」と流した無常の涙が、後日出家する志を強めたと、語られています。
長男の経正(つねまさ)は、幼少時代を仁和寺で過ごしていたようで、覚性法親王(第5世門跡。崇徳院・後白河院の同母弟。近衛帝の異母兄)や守覚法親王(第6世門跡。後白河院の子。以仁王の同母兄)に可愛がられていたみたい。
こちらは琵琶の名手で、銘器『青山』を下賜されるほどでしたが、「平家都落ち」の際に仁和寺に立ち寄って返上しています。
「一ノ谷の戦い」で、河越重房(義経の正室の父)に討ち取られました。
(河越重房(というか河越氏)については、宜しければこちらをドウゾ→系図で見てみよう(桓武平氏/平姓畠山氏))
次男の経俊(つねとし)は……よく存じません(すみませぬ…)
一ノ谷の戦いにおいて、生田の森で源範頼の軍と激突し、戦死。18歳だったそうです。
と、今日の本題はこの三兄弟ではないので、このあたりで切り上げるとして。
彼らの父・経盛(つねもり)って、そういえばこのブログで取りあげてなかったよね…ということで、今日は紹介してみようかなと、そういう内容です。
大河ドラマ『平清盛』の時に、中々タイミングがなかったから(^^;
経盛は、忠盛の三男。清盛の異母弟その2。(ちなみに次男は家盛)
大河ドラマ『平清盛』では、駿河太郎サンが演じておられましたねー。
平経盛@駿河太郎サン
2012年大河ドラマ『平清盛』より
経盛はすぐ下の異母弟・教盛(忠盛の四男)よりも昇進が遅れていて、大河ドラマ『平清盛』でも、自分を抜いて昇進した教盛に「よかったのぅ、教盛」と喜んでいるような茶化しているようなからかっているような(?)場面がありましたw
昇進が遅れた結果、経盛は政治家よりも文化人として活躍したとされますが、これどうなんですかね?
「昇進が遅れた結果、文化人になった」ではなく「文化人にうつつを抜かしたのが昇進が遅れた理由」なのではなかろうかと、ワタクシは勝手に想像しています(笑)が、それはともあれ。
弟より何故、昇進が遅れていたのか?その理由は「母の身分の関係」だと、よく紹介されています。
経盛の母は、源信雅の娘。村上源氏でした。
村上源氏は、村上天皇の子孫が源氏の姓を賜って臣籍降下した、その末裔たち。
信雅は、第七皇子・具平親王の系統でした。
それを系図で確認すると、以下のようになります。
具平親王が早くに亡くなったので、子の師房(もろふさ)は、姉が正室になっていた縁で、藤原摂関家の当主・藤原頼通(よりみち)の庇護下に入りました。
聡明だった師房は、頼通に大変気に入られ、長じるにつれて彼の右腕的存在になっていきます。
頼通の父・道長にも気に入られたようで、娘(尊子)を娶り、その間に生まれた師房の娘もまた、頼通の嫡子・師実(もろざね)の室となって、師通(もろみち)をもうけています。
以降も藤原摂関家に嫁を出し、その子が跡継ぎとなり…を繰り返すようになりました。
『平清盛』にも登場した忠通、基実(近衛家)、基房(松殿家)も、母は村上源氏の女性です。
左から2番目:藤原忠通@堀部圭亮サン
右から2番目:近衛基実@村杉蝉之介サン
右端:松殿基房@細川茂樹サン
2012年大河ドラマ『平清盛』より
こうして藤原摂関家と濃厚な繋がりを持ったことが、村上源氏栄達の基盤となりました。
師房の子・顕房は、娘の賢子を(摂関家の養女として)白河天皇に入内させ、生まれた皇子が即位(善仁=堀河天皇)したので、血縁上の外祖父となっています。
で、経盛の母は、顕房の孫娘。ということは、堀河天皇のいとこ。
まったく卑母ではないと思うのですが、昇進が遅れた理由が「母の身分の関係」……なぜだ。
ただ、経盛の母は後に「保元の乱」で平家と対決して敗退する、悪左府・藤原頼長に近しいポジションの女性でした。
先述したように、村上源氏は藤原摂関家に親しい一門。そして頼長は、ご存知のように「保元の乱」当時、藤氏長者でした。
そして、経盛母の姉妹は藤原頼長の妻になっていて、長男・師長(もろなが)の母となっていました。
母の弟にあたる源成雅は、頼長の義兄弟かつ摂関家に仕える身の関係で、頼長とともに「保元の乱」では崇徳院サイドについて平家と対峙。敗北後は越後国に配流となっています。
(ついでに言うと、後年「鹿ケ谷の陰謀」にも加担して、今度は佐渡国に流罪になっています。何かと新潟県に縁のある人です・笑)
頼長は、正室の実家(徳大寺家)から多子(まさるこ)を養女に迎え、近衛天皇に入内させて政治闘争を画策したことは、このブログでも触れました。
ことはなのさやけさ(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12699338839.html
結局、近衛帝が早世してしまったので策略は実らなかったのですが、多子は後に二条天皇の后となりました。
経盛はこの時、太皇太后宮亮として多子に仕えています(藤原清輔とは同僚にあたるわけですね)
この人事、兄の清盛が二条親政派だったこともあるんでしょうけど、母が頼長と近しい縁者だったことも要因にあったんでしょうかね。
結局、清盛は甥っ子の憲仁親王(後の高倉天皇。1161年生まれ)の即位を願うようになって二条親政派からは離れてしまいましたが、経盛は高倉天皇の即位(1168年)よりもずっと後(1176年)まで、多子に仕えていたようです。
多子自身は長命で二条院の崩御後もずっと長生きして、歌人の経盛や清輔が仕えているせいか、彼女の周囲は文化サロンのニオイがあったみたい。
その匂いに引きつけられたのか、高倉帝の御世で肩身が狭くなったのか、二条親政派の残党(←言い方)が、周囲に集まるようになっていました。
中でも注目なのが、以仁王(もちひと)。
後白河院の皇子で、僧侶としての修行をしていたのですが、結構聡明で才覚があったみたいで、そこを八条院に見初められて、彼女のもとに引き取られました。
八条院の母・美福門院は、多子の最初の夫(近衛天皇)の実母で、二番目の夫(二条天皇)を養子として育て政治力で即位させた、多子とは関係の深い人物。
この関係もあったのか、多子が住居としていた御所で、以仁王は元服を行ったといわれます。
もちろん、その席には経盛もいたはず。
後に坂東武者によって平家が滅亡する、その糸口となる令旨を発した以仁王。そのハレの舞台に経盛はいたのですねー。
そして、以仁王が反平家の狼煙を上げて挙兵した折、その与力となって活躍した摂津源氏・源頼政もまた、経盛と接点を持っています。
それは平経盛の邸で、いつの年かの梅の花が美しく咲いていた頃。 (「二条三位経盛の家に梅花めでたく咲きたりけるころ」とあるので、正三位になった1177年以降…多子の元を辞して後の話っぽい?)
源頼政が経盛邸の前を車で通った時。梅の花を見かけると車を止めさせて、経盛の家来に「『思ひのほかに参りて侍り』と伝えてくれ」と取り次ぎを依頼しました。
「頼政様がおいでになり、『思はざるほかに参りて侍り』と申し上げよとおっしゃっています」。伝えられた経盛は「えっ…どういうこと…??」と困惑しつつ、頼政を通して接待した、という話が説話集『十訓抄』に載っています。
実はこれ、和歌が得意な頼政による、古歌の引用表現。
冷泉院御屏風の絵に 梅の花ある家にまらうど来たる所
「わが宿の 梅のたちえや見えつらん 思ひのほかに君が来ませる」
(平兼盛・拾遺集・春上15)
〔我が家の長く伸びた梅の枝を見かけられたからでしょうか。
思いがけず、貴方が我が家を尋ねて下さったのは〕
「貴方の屋敷の立派な梅が見えましたので、予定外ながら寄らせて頂きました」
「和歌に通じた経盛どのなら、もちろんお分かりですよね?」
という暗に込められたメッセージを頼政は伝えたわけです。
しかし、取り次ぎをした者が和歌に通じているとは限らない(むしろ通じてるわけないでしょw)というのを、頼政は失念していた…
「思ひのほかに」を和歌の一部と気づかず「思はざるほかに」にと伝えてしまったので、経盛は和歌の引用だと気付かなかったのでした…。
「想いを伝える時は相手だけでなく取り次ぎがどんな者なのかも留意してね」っていうのが説話の意義なのかもしれませんが、経盛と頼政に接点を作っているこの説話は、深読みすると面白いです。
以前にも書きましたが、源頼政(摂津源氏)は、「美福門院→八条院」に近しい立場の武士団。
頼政くんの家庭の事情(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11296112243.html
頼政が経盛と接触して来たのは、和歌という繋がりもあったんでしょうけど、経盛が「多子に近い=美福門院&八条院に近い」という縁もあったのかもしれないですねー。
経盛の従兄弟である師長(頼長の長男)は、「保元の乱」で流罪となりましたが、後に罪を赦されて京都に戻っています。
時に「保元の乱」から8年後、1164年のこと。
平家納経が厳島神社に進呈されたり、後白河院のために蓮華王院(三十三間堂のアレ)を造営したりしていた頃ですが、もうひとつ。
清盛の娘・盛子が、関白・近衛基実に嫁いだのも、この年のことでした。
「保元の乱」の結果、頼長が「個人で持っていた」所領は没収され(「摂関家の」所領は、忠通が必死に確保)、後白河院の所領に編入されておりました(これを「長講堂領」と呼びます)
後白河院は、それを師長に返すことはなかったのですが、彼を厚く用いて、その管理をさせるようなことは、していたみたいです。
こうして、後白河院の後ろ盾を得ていた師長は、父を政敵として葬った伯父(忠通)の後継者である、近衛基実・松殿基房らと対立するようになります。
「祖父・忠実は父・頼長に継がせたかったのだから、本当は自分が正統な摂関家の後継者。近衛や松殿など、認めん」ということですかね。
そんな中の1166年、清盛の娘婿である基実(この時は六条帝の摂政)が早死にしてしまうというアクシデントが発生しました。
清盛は政治工作を行い、摂政の職位こそ松殿基房に持っていかれましたが、藤原摂関家の所領を盛子に継承させることに成功しました。
ここで、師長が動きます。
なんと、それまでの正室(勧修寺流藤原氏の娘)と離縁し、未亡人となった盛子を正室として手に入れることで、摂関家の所領と地位を奪還しようとしたのです。
結局、この企み自体は成功せずに終わるのですが、離縁した妻の邸宅を家出した後、師長は経盛の邸宅に身を寄せています。
従兄弟を頼って…なんでしょうけど、経盛にとっては、ちと迷惑だったのではなかろうか。
なんせ清盛の計画は「盛子が所領を継ぐ→基通(基実の子で清盛のもう1人の娘の婿)が成長したら相続する」だったのに、それを邪魔だてしようとしたわけですからね。
実際、この政治的野心は平家に警戒されたようで、後に起きた「治承三年の政変」では、師長もまた解官されて尾張に配流されたりしています。
というわけで、とりとめもなく彼の系譜や関係者を取りあげてみました。
「保元の乱」で平家と対峙した藤原頼長。
憲仁親王(高倉帝)擁立のため清盛と疎遠となった二条天皇の后・多子。
「以仁王の挙兵」で反平家に立った以仁王と源頼政。
清盛の娘婿・近衛基実の没後、摂関家を狙った藤原師長。
こうやって見ると、経盛の母方縁者って平家の政敵になったり、実際に戦ったり、清盛の逆鱗に触れたりした人物がゴロゴロしてます。
経盛の昇進が遅れた「母の身分の関係」って、もしかしてこのこと…?
実際の経盛と、平家の棟梁である兄・清盛との関係はどうだったのか?
ワタクシは、大河ドラマ『平清盛』のように正面から意見できるくらいには良好な仲だったと妄想していますが、異母弟の頼盛のように、清盛と疎遠で昇進もそれほどでなかった、不仲だったという可能性も否定はできんよな…とも思います。
MY「平頼盛」人物考(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11435563375.html
頼盛のように、経盛にも「平家の都落ち」に同行せず、都に残って生き残るというルートも、もしかしたらあったのではなかろうか。
頼盛は実母・池禅尼が「平治の乱」の折に頼朝の助命嘆願をした恩で地位を保ったとされますが、経盛にだって、まだ生存していた多子や八条院といった母の縁や、仁和寺(多子の2人目の夫・二条天皇や、息子の経正がいた寺)を頼って保身することも不可能ではなかったはずです。
でも、平家は一蓮托生とばかりに都落ちし、「一ノ谷の戦い」で息子たちと死に別れ、「壇ノ浦の戦い」で一門とともに最期を迎えました。
経盛に去来した想いは何だったのだろうか…?
それは、他の一門を見捨てて自分だけ生き残ることはできないという優しい性格と、そして平家とは相容れない人たちとの繋がりの中での兄・清盛との絆だったのかもしれません。
と同時に、経盛の子たちが「一ノ谷」で全滅したのは、経盛の立場が平家の中で微妙だったがゆえに、息子たちを最前線に置かざるを得なかった、ってことがあったのかな…
などと考えるのは、さすがにやり過ぎですかね。