僕の遅道 其ノ佰貳拾貳 奥州街道(陸羽街道)折居間宿⇒87.鬼柳宿 3/12 | ごんのブログ(慢性膵炎日記)Ⅱ

ごんのブログ(慢性膵炎日記)Ⅱ

2009/11/02 慢性膵炎および仮性膵嚢胞で入院&手術をしました。
退院後は膵炎での脂質を抑えた食事などを紹介していますが内容は、
マンネリ化しやすい制限食のバリエーションの積りです
独身の男性にも作りやすいよう心がけています

折居一里塚跡の横は
どうやら熊野神社みたいですけど


一里塚跡から300mほどで
県道r175と交差しますけど


県道r175を越えると
真城郵便局が見えてきますけど


その少し先に・・・

ありゃ
工事中でちょうど見えなくなっちゃってます (;^_^A


見えなくなっちゃっていますけど

左に入る道があり
そこが旧道の入り口なんですね

入り口の分岐のところに
上の写真では中央右寄りのところにモニュメントが見えています

拡大したのが
これですけど


歓迎 ”風鈴のまち水沢” と書かれていますけど
水沢地区は南部風鈴の産地として知られているところなんですね

水沢は、伊達氏支藩1万6千石の城下町で
水田が広く、北上穀倉地帯の中心だったんですね α(・_・)

旧道に入ってみると
静かな住宅地なんですけど・・・


実はここ
”折居(おりい)間宿” なんですね ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

今ではまったく宿場の面影はありませんけど

宿場の外れにある
この桜並木は昔からあるそうですよ


へぇ~
ふるさと名所50景にも選ばれている桜並木なんですねぇ~


折居間宿から2kmほど

街道は左へ
県道r226に変わります


えぇ~っと
この辺りだと思うんですけど・・・ o(・ω・ = ・ω・)o


え! 何が?
って、一里塚ですがな (;^_^A

ここの一里塚は現存ですから
大きな塚があるはず・・・

あ?
あれは民家の花壇ですよね (^^ゞ


え?
いや、花壇じゃないのか (?_?)


ありゃ
一里塚って書いてありますよ Σ(・ω・ノ)ノ!


はい、実はこちらが
№119(122)の ”真城一里塚” なんですね (;^_^A 一応現存ね

途中に旧道もありましたけど、一部が消失していますので
県道r226を進み水沢駅近くの水沢市街に入ります


水沢市街へは交差する国道R397に合流しますけど
合流して間もなく


ここ袋町に
85番目の ”水沢宿” の木戸があったと言います


先に信号のある ”横町交差点” を右(北)に曲がるのが街道ですけど
枡形ではないのかな?


横町交差点から右(北)を見たところです


先の方で連絡通路が見えているのは
地元のショッピングモールで ”水沢メイプル” って言います

市街の中心地になるみたいですけど
宿場時代もあの辺りが中心だったみたいですよ

さっき見えていたメイプルを越えた辺りですけど

宿場時代には
もう少し先の方が中心になっていたみたいですよ


まぁ~
現代では右に曲がるとJR東北本線の水沢駅があるからでしょうね

元々は伊達正宗の支配下になる
200年前に築城された平城ですけど

”留守(るす)” 氏を祖とする仙台伊達家の一門の
”水沢伊達家” を城主としてきた城下町なんですね

もっとも ”一国一城令” が発令してからは
仙台伊達藩では仙台城以外の城を ”要害(ようがい)” と称していますから

水沢要害としては明治の廃藩置県で城としての役目を終え
現在は城跡の一部が市役所になっています

横町を曲がってから450mくらいですけど
アーケードの商店の前に何かの石碑がありますよ ( ̄□ ̄;)!!


”南枡形入口跡” って書いてありますね Σ(・ω・ノ)ノ!


はい、ここが
85番目の ”水沢宿、南枡形入口跡” で ”高札場跡” でもあるんですね

あ! ただし、なんですけど
宿場の桝形ではなく、水沢城への桝形で高札場があったんですね (;^_^A

150mほど進むと
またまた石碑がありましたよ


こちらは ”明治天皇行在所碑” ですね


ここ大町には問屋場や検断があり
水沢を代表する商人たちが軒を並べていたところなんですね

明治9年と14年に東北巡幸されていますけど
その際いずれのときも行在所はこの地にあった

大町の豪商 ”戸坂万六” 宅だったんですね α(・_・)

駐車場を挟んで30mほど離れた
”ベビーショップ” さんの角に石碑がありますよ


もうひとつの水沢城への桝形の入口ですね


先へ進むと遠くに見える柳町交差点、胆江日日新聞社の看板を
左に進むのが街道です


左に曲がったところですけど
今度は先に見える信号、立町交差点を右に進みます


立町交差点を曲がろうとした時に目に入った
立派なお屋敷


よく見ると石碑が建っているので近づいてみると

なんとっ!
こちらは ”上伊沢代官所跡” なんですね ( ̄□ ̄;)!!


代官所跡から500mほどで
信号のある交差点に出ますけど


実はこのあたりに
№120(123)の ”水沢(不断)一里塚” が有ったそうですよ (;^_^A 痕跡なしね

一里塚からは1.5kmほどになりますけど
国道R4に合流してしばらく進んだ ”中ノ町交差点” ですけど


この信号の少し先を右に入るのが旧道になります


実はここには明るいうちに来たかったんですけど
すでに日没でだいぶ暗くなってしまったんですね (;^_^A

カメラの感度を思いっきり上げて
昼っぽく写してみました ( ̄_ ̄ i) 夕暮れね


ただの民家に見えますけど (;^_^A 民家です

問題は右の電柱のところなんですね


なんか大きな石っころがありますけど


実はこれ ”追分道標” なんですね Σ(・ω・ノ)ノ!


”右 岩や堂道 左 金ヶさき道” と刻まれています

さぁ~ 日没してしまいました
先を急がないと予定の距離に足りませんよ ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ


追分道標から1.5kmほどですけど
”胆沢城跡” の案内板が闇の中に見えてきます (;^_^A たんざわ?


実はこれ
胆嚢の胆ですけど ”熊の胆(い)” の胆(い)ですから

”胆沢(いさわ/いのさわ)城跡” って言うんですね

歴史的には初代征夷大将軍になった
”大伴 弟麻呂(おおとも の おとまろ)” がいますけど

大和朝廷や、それに続く中央政権に服従しない
蝦夷(えぞ)に対して軍を率いる将軍でこの当時は

蝦夷地(東北地方など)に太平洋側から軍を率いるのが ”征夷大将軍” で
日本海側から軍を率いる ”征狄(せいてき)将軍” がいたんですね

ちなみに

平氏政権と奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した
”源頼朝” が大将軍の称号を望んだことから

朝廷は ”坂上田村麻呂” が任官した征夷大将軍を例にして
源頼朝を征夷大将軍に任命したんですね

以降武士の棟梁として日本の最高権力者
”征夷大将軍” を長とする幕府が長く続くんですね α(・_・) 鎌倉・室町・江戸ね


ちょっと横道に逸れちゃいましたけど (;^_^A

大伴 弟麻呂が初代征夷大将軍に任命された頃は
陸奥国では蝦夷との戦争が激化していて

補佐役として ”征東副使” だった
”坂上 田村麻呂” は、征討の功労から

陸奥按察使(あぜち)、陸奥守、鎮守将軍を兼任して
戦争を指揮する官職を全て合わせた官職に就き

それだけではなくて
高齢などを理由に退職した大伴 弟麻呂に代わって

征夷大将軍の職も任命されたんですね Σ(・ω・ノ)ノ!

任命されて4年後の
延暦20年(801年)に東北に遠征して成功を収めていますが

翌21年(802年)に再遠征し、
確保した地域に胆沢城を築いたんですね

城と言っても、江戸時代の居城などとは違って
軍事施設と言うか軍のお役所ですね α(・_・) 鎮守府ね

当時の国府は多賀城で、現在の宮城県仙台市の東、
JR東北本線の国府多賀城駅(こくふたがじょうえき)付近ですから

直線距離で約100kmのここに鎮守府を建て
後には直線距離約50kmの現在の盛岡市西に

”志波城(しわじょう/しわのき)” を建てていますから

胆沢城を軍事拠点として
紫波城を前線基地にさらに北上遠征する予定だったんでしょうね

その胆沢城跡の入口がここのようですね (;^_^A 暗いから行かない


胆沢城跡入口から100mほどのところですけど


真っ暗でわかりませんね (;^_^A

GoogleMapのストリートビューで見ると
こんな感じなんですけど


実はこのあたりに
№121(124)の ”八幡一里塚” があったそうですよ (;^_^A 痕跡なし

一里塚跡から1.5kmほどのところですけど
街道は県道r270からここを左に入ります


曲がるとすぐに案内の標柱がありますけど


そう、ここが
86番目の ”金ケ崎宿” の入口になりますよ (≧∇≦)b

曲がってすぐのお宅が
刀鍛冶の屋敷跡なんだそうですよ ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


間もなく左に社のある集会場が見えてきますが
街道は右に曲がります


曲がり角に標柱が建っていますけど
この曲がり角が金ケ崎宿の桝形なんですね


枡形から150mほどで
”奥州街道三十一里半杭跡” と言う史跡があるはずなんですけど・・・

暗いせいか
見つかりませんでした (^^ゞ

伊達政宗が幕府から命じられた一里塚の他に、独自に仙台青葉城を起点として
一里杭、半里杭を建て仙台藩領内統治の目安としたものなんですね

なので三十一里半は、青葉城から約126kmの地点なんですね

ちなみに仙台藩北端の相去御番所(相去村足軽町)の
三十三里半杭が最終杭となっていますよ α(・_・)

800mほど進んで
矢来(やらい)交差点を抜けたこの辺が金ヶ崎宿の出口付近です


地名からして江戸時代はこのあたりに
矢来が組んであったんでしょうかね

矢来って言うのは
竹や丸太で造った仮囲いの事で

長さ2~3mの竹を斜めに組合せ、交差部をしゅろ縄などで結び
竹を縦横に 直交して組んだものが角矢来って言うんですね

身近なところでは
京都市内で見かける ”犬矢来” なんかもありますけど


以前の東海道の時の ”平塚宿” で復元された矢来がありましたよ
僕の遅道 其ノ參拾漆 中山道⇒東海道周遊編
7. 平塚宿~日本橋 前編 2013-07-26 (別窓で開きます)


あ、これこれ
見附の復元ですけど


土盛の上の柵が矢来ですね

こちらはもっと先(江戸寄り)の ”神奈川宿” の絵図で
やはり、見附の土盛に矢来が組まれていますよ


各地に残る ”矢来町” なんて言うのが
見附などの矢来が組まれた場所だったりするんですね


金ヶ崎宿の出口から
1.5kmほど来たところですけど


枯れた切り株が1本ありますけど

実はこれが
№122(125)の ”三ヶ尻川口一里塚” なんですね Σ(・ω・ノ)ノ!

別名が有って ”清水端一里塚” とも呼ばれていますけど
東塚だけ現存で

塚木だった樹齢400年と言う杉は
すでに枯れてしまい切り株が残され、朽ちないように保護されています


説明板の絵図にも
一里塚が描かれていますよ


さぁ、今日はどうしても
もうひとつ先の一里塚を越えておかないとイケないんですけど・・・

この辺を右にまがるんだよなぁ~


真っ暗で見えませんよね (;^_^A

GoogleMapのストリートビューで見ると・・・


上の写真にある案内表示板から
200mほどで旧道の出口が見えてきます


出口と言うのは
今来た道は旧道からの迂回路で

旧道は一部消失しているからなんですね (;^_^A

明るければ
旧道の出口はこんな感じなんですね


旧道へ逆方向から入ると
正面に・・・ (;^_^A 見えませんね


明るいと、こう見えるはずなんですね ( ̄ー ̄;


正面に大きな桜の木がありますけど

その根元に石碑があります


庚申塔ですけど


他に己巳供養塔があると聞いていたんですけど
暗くて見えません (^^ゞ

この桜の木の場所が
№123(126)の ”岩野目一里塚跡” なんですね α(・_・) 伊達藩最北の一里塚

この近くに伊達藩独自の ”七里塚” もありますけど
暗いのでパス (^^ゞ


一里塚跡から2kmほどですけど
”丁切(ちょうぎん)” って言うバス停がありますよ Σ(・ω・ノ)ノ!


と、言うことは
この辺りに木戸があったんでしょうね

実はここは
伊達藩最北の町で ”相去(あいさり)” って言うんですね α(・_・)

バス停のすぐ先を曲がってみると・・・
追分の碑がありますよ


街道に戻って500mほど
郵便局の先に説明板のある民家があります


うわっ
赤信号の明かりで真っ赤に写ってますね (;^_^A

ちょっと画像編集して・・・

少しはマシに見えますかね (^^ゞ


えっと
説明板によるとここに ”相去御番所” があったんだそうです


北境の備えとして、街道を挟んで両側に軽臣(足軽)
102名が配置されていたとのこと

番所内には、捕手道具の他に、鉄砲10丁、弓10張、槍10本が備えられており
武頭1名(ぶがしら、250石、百日交代で仙台より出張)と、
組頭2名、床頭1名、足軽4名が常勤していたようですよ


番所跡から200mを過ぎると・・・

あれ?
また、一里塚ですかね Σ(・ω・ノ)ノ!


ほらほら
これ、一里塚でしょう (;^_^A まだ3kmだけど


あ! 違いました
”境塚” ですね (^^ゞ


ここが伊達仙台藩と南部盛岡藩の境目になるんですね

そして北に入ると南部盛岡藩の領内で

87番めの ”鬼柳宿” の
入口に当たるんですね

境塚から350mほど進むと
”鬼柳関所跡” があります


先ほどは伊達仙台藩最北の番所でしたが
藩境のこちらには南部盛岡藩の最南の関所なんですね

先に進んで新幹線高架下を過ぎると
県道r254はr224に分岐する案内板が見えてきます


コースは県道r254のまま進みますよ

案内板からと言うよりも分岐から100mほど


何にも無いところに
真っ暗でみえませんよね (^^ゞ

ストリートビューではこんな感じです


実はこの辺りに
№124(127)の ”黒沢尻一里塚” があったんですね (;^_^A 痕跡なし

このあたりで、通常の走行終了時間の目標にしている
20時を30分ほどオーバーしました

テントの設営予定地はここから500mほど

なんとか目標地点までやってきました (;^_^A

そろそろ
テントで寝ましょうか

本日の走行時間4:47? 走行距離52.73km
僕の遅道総合計距離3,428.17km(含番外編4,313.74km)


平均時速10.9km/h 最高時速48.3km/h


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これまでの街道等の実走行距離
中山道707.58km・東海道712.01km・
甲州街道308.88km・三州街道(伊那、飯田街道)247.46km・
東海道姫街道75.45km・下田街道77.99km・
足助街道(三州街道と重複)28.41km・
壬生街道(日光西街道)55.74km・

日光街道51.74km(含共通部182.21km(一部地図測定)
日光街道/Google My Map (別窓で開きます)

日光街道・奥州街道共通編130.47km(一部地図測定)
日光・奥州街道共通/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道(奥州道中)159.59km
奥州道中/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道(仙台道)197.85km
仙台道/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道(陸羽街道)168.21km
陸羽街道/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道現在の延長距離(日本橋から鬼柳宿)656.12km

番外編 2013年冬の東北333.67km・番外編 日光御成街道67.52km・
番外編 三鉄全線再開記念183.51km・

番外編 芭蕉の足跡 日光⇒那須野編96.65km
番外編 芭蕉の足跡 喜沢追分⇒今市59.58km
おくのほそ道 芭蕉の足跡/Google My Map (別窓で開きます)

日光例幣使街道 138.49km
日光例幣使街道/Google My Map (別窓で開きます)


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風評被害をなくしましょう               地震速報

                     

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