僕の遅道 其ノ佰貳拾壹 奥州街道(陸羽街道)83. 山目宿、高館⇒折居間宿 2/12 | ごんのブログ(慢性膵炎日記)Ⅱ

ごんのブログ(慢性膵炎日記)Ⅱ

2009/11/02 慢性膵炎および仮性膵嚢胞で入院&手術をしました。
退院後は膵炎での脂質を抑えた食事などを紹介していますが内容は、
マンネリ化しやすい制限食のバリエーションの積りです
独身の男性にも作りやすいよう心がけています

ここって・・・ もしかして・・・
最期の ”よっちゃん(源義経)” のお家の跡?


う~ん

ってか
山だよね・・・ (;^_^A また登り


坂道を上っていくと
階段が・・・ Σ(・ω・ノ)ノ!


でも
階段を迂回する道もあるんですね (;^_^A


売店のような建物が入山券売り場

駐車場はあるのか無いのか不明ですが
売り場の方が自転車の停められる場所(スペース)を教えてくれました

なんか案内板がありますけど・・・

えっ! 義経は北に逃げた? ( ̄□ ̄;)!!


平泉に到着した義経一行を
出発前に被害が及ばないようにと離縁した正妻の

”郷御前(さとごぜ)” が、愛娘と追いついて
しばらくは親子が仲良く暮らすのですけど

頼朝は藤原 秀衡の後を継いだ藤原 泰衡に対して
しびれを切らし

義経を捕らえて鎌倉に送らないのなら
朝敵をかくまった罪で、大軍を率いて攻め入る

と、おどされて
4月末に、ようやく軍勢を差し向けて義経を追い込み
義経の住む衣川の館を襲撃し、弁慶ら側近が最期の抵抗をしたものの

共に死ぬと願う郷御前と4歳の愛娘を斬った後に
館に火をかけて自害した・・・

と、言う筋書きで事前に義経を逃しちゃってた
って、言う伝説なんですね ( ̄□ ̄;)!!

で、逃がされた義経は、東に移動して
気仙沼から海岸沿いに北上し、八戸から陸奥(今の青森市)に抜け

津軽半島を北上し蝦夷ヶ島(北海道)に渡ったと言うんですね Σ(・ω・ノ)ノ!

実は奥州街道のゴールにある
三厩(みんまや)の厩石(まやいし)とその先にある竜飛崎は

この伝説から来た地名なんですね ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

そして後の元禄元年(1688年)に徳川光圀は
”海風丸” を蝦夷地に派遣しているんですね α(・_・) 水戸の黄門様ね

蝦夷地探検と義経伝説の真偽を確かめるためなんですけど
海風丸は蝦夷地に義経・弁慶にちなんだ地名があること

義経がアイヌの人達からウキクルミ(狩猟や農耕をアイヌの人に教えた神)として
崇められていることを報告しているんですよね

また、奇妙なことに
生前の藤原 秀衡によって初代伊達家当主 ”伊達 朝宗(だて ともむね)” に
源義経の子(男児、千歳丸(経若丸))を託したと言うような記述が幾つかあるんですね

え! 待てよ・・・

確か義経の妻には
正室の ”郷御前” と、平家滅亡後の捕虜になっていた
平 時忠が保身のために差し出した娘の ”蕨姫” がいますけど (;^_^A あと静御前ね

郷御前は元暦元年(1184年)9月に義経に嫁ぎ
文治元年(1185年)5月に頼朝は義経を勘当し、6月に義経は頼朝との断交を宣言

義経の逃避行中の文治2年(1186年)に
郷御前は潜伏中の京で女児を出産

蕨姫とは寿永4年(1185年=文治元年)5月、頼朝に勘当された頃に婚姻を結び
このことが頼朝との不仲を激化させたとも言われていますが

9月23日に、時忠は流刑地の能登国へ送られ
11月3日には義経が時忠の子である時実を連れて京都を脱出
蕨姫は、その後の消息は不明

と、言うことは蕨姫は半年の婚姻で
子を出産したかどうかも不明


まてよ・・・

静御前が男児を出産したのが文治2年(1186年)閏7月29日ですから
郷御前の出産と同じ年のことですね

でも、生まれた男児はすぐに取り上げられ
由比ヶ浜に捨てられたと言うんですね

と、言うことは分かっている範疇では
生存した子は郷御前の出産した女児だけのはずですが・・・

しかし、吾妻鏡には・・・

あとから追いついた郷御前が女児と
男児の二名を連れていたと記載されているんですね ( ̄□ ̄;)!!

吾妻鏡は北条家によるものですけど
日記形式の歴史書なので信憑性が高いとされていますけど・・・


まぁ、
難しい伝承については後々お勉強するとして (^^ゞ

ここ、高館は義経北行伝説コースの起点になるんですね α(・_・)

さっそく
行ってみましょう


石段を登って行くと
なんか案内板かな?


ん、左右に分かれて
義経堂と芭蕉の句碑があるんですね


まずは右に行ってみましょうか・・・

ん、奥の方に何かありますよ


あ! これが芭蕉の句碑ですね


芭蕉たちが訪れたのは
旧暦の5月13日ですから

新暦の6月29日
梅雨入りした頃ですけど日が差せば暑い時期です

暑い夏、この丘に立って北上川を臨み
500年の時を馳せ

あの有名な句を詠んだんですね


おくのほそ道 二十九
平泉の章段

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。

秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。

先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。

衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。

泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。

偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。

国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ

《夏草や兵どもが夢の跡》

《卯の花に兼房みゆる白毛かな》 曽良

兼て耳驚したる二堂開帳す。

経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。

七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、

四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

《五月雨の降のこしてや光堂》



藤原三代にわたる栄華も、今となっては夢のようであり、
平泉の表門の跡は一里程手前にある。

秀衡の館跡は、今では田や野原に変わり果て、
秀衡が造らせた金鶏山だけが、その形をとどめている。

まずは、高館に上ってみたが、
そこから見える北上川は、南部地方から流れ来る大河である。

衣川は、泉ヶ城のまわりを流れ、高館の下で北上川と合流している。

泰衡たちの屋敷跡(伽羅之御所跡)は、衣が関を隔てたところにあり、
南部地方からの出入り口を固めて蝦夷の侵入を防いだと見られる。

それにしても、よりすぐった忠義心のある家来たちが高館にこもり功名を競ったが、
そうして得られた功名も一時の夢と消え、今では草が生い茂るばかりだ。

杜甫の「国が破れ滅びても、山や河だけはむかしのままの姿で残っている。
荒廃した城にも春はめぐり来るが、草木だけが生い茂るばかりだ」の詩を思い浮かべ、
笠を置いて腰をおろし、いつまでも栄華盛衰の移ろいに涙したことであった。

《人気のないところに、今はただ夏草だけが生い茂るばかりだが、
ここは、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところである。
知るや知らずやこの夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われる。》

《夏草に混じって咲いている白い卯の花を見ていると、
兼房が、白髪をふり乱して敵に向かう姿が浮かんでくることよ。》 曽良の句

かねてから聞いて驚嘆していた経堂(中尊寺金色堂)と光堂(中尊寺経蔵)が開かれていた。

経堂には、清衡、基衡、秀衡の像が残されており、
光堂には、これら三代の棺が納められ、また、三尊の仏像が安置されている。

七宝が散り失せ、珠玉を飾った扉は風に破れ、金箔が施された柱は霜や雪に朽ちて、
もはや、すべてがくずれ廃れて何もない草むらとなりそうであったのを、

四方を新たに囲い、屋根瓦を葺いて雨風をしのいでいる。
これにより、しばらくは、遠い昔をしのぶ記念物とはなっているのである。

《あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。
まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか。》


さぁ、それでは義経堂に行ってみましょうか


義経堂の石段の手前にあるのが
資料館ですね


あまり資料館って立ち寄らないんですけど・・・

ちょっと
入ってみましょうか (;^_^A

中に入ると
正面に一風変わった仁王像が ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


寄せ木造りで彩色の跡のある
ちょっとユーモラスな感じですね ( ̄ー ̄;

年表はお約束ですね


へぇ~
いろんな資料がありますよ (;^_^A 資料館だし


あれ?
この地図だと東山道じゃなくて東海道を使っていますねぇ~ ( ̄_ ̄ i)


あ! これは
ここ高館での義経と泰衡の合戦絵図ですね


こちらはご存知
源義経ですね


こちらは
一の家来、武蔵坊弁慶ですね ( ̄ー ̄;


こちらは
義経のお母さんの常盤御前ですよ


お父さんの源義朝には奥さんが6人いたそうですけど
義経のお母さんの常盤御前は側室

頼朝のお母さんの ”由良御前” は正室なんですね α(・_・)

こちらはみなさんもご存知
義経の奥さんのひとりで静御前ですね (;^_^A 静ちゃんね


あ! ご存知と思いますけど
”ドラえもん” に出てくる ”静香ちゃん” は

フルネーム ”源静香” なんですね

作者の藤子不二雄先生たちが
もっとも女性らしい女性として名前を頂いたんだそうですよ α(・_・)

こちらは
義経の最期についてですね


σ(・_・) ”義経記” から義経の足跡を読んでいますけど

義経記は歴史小説の始まりのようなもので
脚色が多く義経の最期もドラマチックになっていますけど

数百年経つと
さらに脚色の進んだお芝居などが登場して

もっとドラマチックだったりしていますね

なんせ義経は日本では
知らない人がいないくらいのヒーローですからね ( ̄ー ̄; 牛若丸と弁慶ね

とりまく人々ですね ( ̄_ ̄ i) 豪華キャスト?


さぁ~
それでは石段の上へ義経堂に行ってみましょうか ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ・_・)┘

おっ! 見えてきましたよ


実はこの義経堂は
芭蕉が訪れる数年前に建てられたんですね

芭蕉が訪れたのが、
元禄2年(1689年)5月13日(新暦6月29日)で

伊達政宗の玄孫(やしゃご=ひ孫の子)の
陸奥仙台藩の第4代藩主で、伊達氏の第20代当主の

”伊達 綱村(だて つなむら)” によって天和3年(1683年)に

藤原基成の館の跡地に ”義経堂” と ”義経の木像” を
義経を偲んで建立されたんですね α(・_・)

木像は
ちょっとイメージが違う感じですけど・・・


ヤベッ
反射で写んないや (^^ゞ

偏光フィルター持ってくるんだったなぁ~ (;^_^A

なんとか角度を変えて・・・

これで精一杯かな (;^_^A


街道に戻って先に進むと・・・

なんか石碑が建ってますけど


ここは ”卯の花清水” って言って
碑文によれば

「文治5年(1189年)、高舘落城のとき、
主君義経とその妻子の悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、
敵将共燃え盛る火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣兼房、年66歳。

元禄2年、芭蕉が、門人曽良とこの地を訪れ、「夏草」と「卯の花」の2句の残した。

白く白く卯の花が咲いている。
ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と名付けて愛用してきた。

行き交う旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、渇をいやし、
そこ「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう」


と、刻んであります

街道はJRの線路で切られているので
向かいの踏切を・・・ Σ(・ω・ノ)ノ! 工事中通行止め?

仕方がない
平泉駅まで戻って国道を進みましょう ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ・_・)┘

どのみち
この国道の延長に合流するんですけどね (;^_^A


あ! 工事中で通行止めでなければ
ここから出てきたんですね (;^_^A


200mほど進むと先の方に信号が見えてきます


あの信号の辺りが中尊寺ですかね

あれ?
左の方が近いのかな? (;^_^A 中尊寺郵便局があるし


左に進んでみると
なんか枝ぶりの良い松がありますよ ( ̄□ ̄;)!! 石碑もある


きっと何かいわれのある松の木なんでしょうね


えっ! 武蔵坊弁慶の墓ぁ~? ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


あ、弁慶の墓
って案内が出てました (^^ゞ


実はここ、中尊寺の月見坂の入り口で
弁慶の遺骸をこの地に葬り、五輪塔を建てられたんだそうですけど

後世、中尊寺の僧で俳人の ”素鳥(そちょう)” によって詠まれた
《色かえぬ 松のあるし(じ)や 武蔵坊》 の句碑が建てられたんですね

先に進むと
中尊寺の月見坂が見えてきます


平日なのに参拝客が多くて
無人のシーンを撮るのが大変でした (;^_^A

芭蕉たちはここから入り
境内の金色堂と経堂を訪れて二夜庵に戻っていったんですね

曽良随行日記

一 十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉へ趣。一リ、山ノ目。
壱リ半、平泉 (伊沢八幡壱リ余リ奥也)ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ。
高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・ 光堂(金色寺、別当案内)・
泉城・さくら川・さくら山・秀平(衡)やしき等ヲ見ル。
泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見へズ。タツコクガ岩 ヤへ不レ行。三十町有由。
月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金雞山見ル(きんけいざんみえる)。
シミン(新御)堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待 。宿ス。


さぁ~
どんどん先へと進みましょう ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ


実走したこの日は9月5日火曜日

平日にもかかわらず
中尊寺周辺では数名のロードサイクラーとすれ違ったり

抜いたり抜かれたりしていますが
全員がソロツーリング

仙台以北になると、本当にマニアと言うか
お好きな方だけが訪れている感じですね

もっと
広く親しんで欲しいんですけどね (;^_^A

お! 見えてきたのは
衣川にかかる衣川橋ですよ o(^▽^)o


ちょうどここは中尊寺のお山の
真裏になるんですね


あれ? あれはお地蔵さんじゃない?

ほらほら、
きっと昔はあの辺りを街道が通っていたんでしょうね
 

この川が衣川なんですね


さぁ、道は花巻・北上へ向かいますよ (^O^)/


旧街道を通りますので
案内板の左方向へ ”衣川地区” に向かいます ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ

先程の分岐を入って100mくらいのところで見かけた
立派な門構えのお宅


ありゃ
向かい側にもありますよ Σ(・ω・ノ)ノ!


実は気が付かなかったんですけど
国道から入ってきてすぐに微かなS字があって

どうやらそこが枡形跡だったようです (^^ゞ

枡形跡を過ぎていますので
直線になっていますけど


実はここは ”間宿(あいのじゅく)” だったそうですけど
”瀬原宿” になるんですね Σ(・ω・ノ)ノ!

それだけじゃない

実は瀬原宿は ”前九年の役” の古戦場跡のすぐそばにあるんですね

宿場の西側一帯が古戦場跡で、前九年、後三年の役関係の史跡や
奥州藤原氏、源義経に関する遺跡の多いところなんですね α(・_・)

ですけど
ゴールが遅れる一方なので先を急ぎましょう ε≡≡≡ヘ(`・ω・)ノ

分岐から400mほどで
出口側の枡形跡にやってきます


枡形を越えると
目に入ってきたのが瀬原簡易郵便局


一帯が古戦場跡って言いましたけど
その北側に当たりますけど

この郵便局
とってもありがたいのが

ちょうど車が1台停まっていますけど
建物から出っ張ったような部分がトイレなんですね ( ̄_ ̄ i)

いや、自転車でもそうなんですけど
これだけ地方に来ると

トイレを借りるコンビニも少ないんですよね (^^ゞ

徒歩行の方なんて
けっこう切実な問題だったりしますからね

さぁ~
旧道を進みましょう ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ・_・)┘


低山を超え、東北道を過ぎると
高速沿いに進み変則の十字路に出ます


実はこの交差点付近に
№116(119)の ”徳沢一里塚” があったんだそうです

旧道はまっすぐに進みますが
途中で道が消失しているらしいので

右に進んで国道を進みます ε=ε=ε=ε=┏(; ̄▽ ̄)┛

R4を進み左へ県道r243へ進むのが街道になります

県道に入ると間もなく
84番めの ”前沢宿” に入ります ( ̄□ ̄;)!! 前沢牛の産地だ

ちょうど宿場に入ったあたりですけど
見えているバス停は ”丁切(ちょうぎん)” ですから


柵が設けられ
夜間は閉じられていたんでしょうね

町名は五十人町になります

先へ進むとクランクになっていますけど
これが ”五十人町枡形(ますがた)” ですね


枡形から400mほど進むと
”佐藤屋旅館” がありますけど


実はこちらの玄関前に
”明治天皇前澤行在所” 跡碑があります ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


佐藤屋旅館から150mほどで、宿場の中ほどの
”三日町の枡形” があります


枡形から100mのところに
ものすごい立派な旧家が見えてきます ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


敷地は端から端までで60mもありますよ Σ(・ω・ノ)ノ!


門のところに説明板がありますね


旧家(太田家住宅)から500m進むと
微妙なクランクのような場所が ”新町枡形” です


枡形を出てすぐのところですけど


二十人町に入りますけど
この辺りに№117(120)の ”前沢一里塚” があったらしいですよ


ここは、前沢一里塚跡から4.5kmほど
1里(3.927km)を超えていますけど

この先の現存する一里塚から計ると

このあたりに
№118(121)の ”折居一里塚” があったそうです


この先は段々とこう言った
史跡がなく、一里塚を辿る場所が増えてくると思いますけど・・・

どうやら熊野神社らしいですけど


神社やお寺と一里塚って
目印として活用されていたみたいですね


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これまでの街道等の実走行距離
中山道707.58km・東海道712.01km・
甲州街道308.88km・三州街道(伊那、飯田街道)247.46km・
東海道姫街道75.45km・下田街道77.99km・
足助街道(三州街道と重複)28.41km・
壬生街道(日光西街道)55.74km・

日光街道51.74km(含共通部182.21km(一部地図測定)
日光街道/Google My Map (別窓で開きます)

日光街道・奥州街道共通編130.47km(一部地図測定)
日光・奥州街道共通/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道(奥州道中)159.59km
奥州道中/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道(仙台道)197.85km
仙台道/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道(陸羽街道)115.48km
陸羽街道/Google My Map (別窓で開きます)

奥州街道現在の延長距離(日本橋から一関宿)603.39km

番外編 2013年冬の東北333.67km・番外編 日光御成街道67.52km・
番外編 三鉄全線再開記念183.51km・

番外編 芭蕉の足跡 日光⇒那須野編96.65km
番外編 芭蕉の足跡 喜沢追分⇒今市59.58km
おくのほそ道 芭蕉の足跡/Google My Map (別窓で開きます)

日光例幣使街道 138.49km
日光例幣使街道/Google My Map (別窓で開きます)


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風評被害をなくしましょう               地震速報

                     

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