2022年4月16日(土)に、実に3ヶ月ぶりとなる甲州街道歩きの11回目として韮崎から蔦木宿の手前直前まで歩いた旅の記録その9です。
当日の歩行ルートは↓の通り、歩いた距離は寄り道を併せて30km弱と思われます。
地図を描いた頃とはスケジュール変更のせいで、旅程が変わってしまったので↑の地図は今回の歩きと次回の歩きの序盤の分が含まれています。
その8では台ヶ原宿の北の方で旅籠鶴屋跡の「つるや旅館」をしげしげと眺めたところまでをご紹介しました(↓再掲)。
街道前方に広がる甲州街道の「山を行く道」の風景が青空の下「最高かよ!」といった風情になっています。
そしてすぐ真ん前の右側には梅屋という旅館もありました。
こちらがその梅屋旅館。クルマ二台は宿泊客のものかな?
鶴屋と違ってこちらは特に老舗という情報はありませんでしたが、甲州街道を歩く旅人はよく利用するという情報もありました。
こちらは酒屋の小松屋商店。廃業して久しそうです。
店舗前面が緩~いV字に曲がっている藤巻商店は「長府ボイラ」の縦看板が架かっているので、そうした給湯器などの販売と設置をする代理店業でもしていたのでしょう。
その先でY字路に差し掛かりますが、その手前にある火の見櫓の足元に文化九年(1812)建立の秋葉山石塔がありました。
甲州街道はY字路を右(↓黄緑の矢印方向)に進みますが、私は少し本格的に休憩を取りたかったのでY字路(ピンクの矢印)を左に進んで国道20号に出ます。
国道に出て暫く進むと「道の駅はくしゅう」がありここで本格的に休憩します。
構内は人口の小川なんか流れちゃって、家族でくつろげる感じ。
尚、ここからほど近い教来石から俳人の山口素堂が出ている関係で、川辺にはあの句の句碑が。
『目には青葉 山ほととぎす 初月を』ですね。この句自体は江戸文化歴史検定を取った時にちょっと見たことがありましたが、こちらの出身とは全く知りませんでした。
建物の中でドリンクとおにぎり二ヶセット(鮭とこんぶ)を買って椅子に座って30分ほど休憩させてもらいました。ここでもせっかちに休憩を終えないよう、食べ始めてから30分後にアラームをかけ、食べ終わってもしばしスマホで漫画などを読んで過ごし、体力大幅に回復できました(≧∇≦)。
そして休憩終了後道の駅の後方を見ると、朝方は台風の影響で全く見えなかった甲斐駒ヶ岳が8割型姿を現していました。
いいねいいね、いい感じで旅情が出てきました。
街道に戻って暫く進むと街道左側に旧名主宅がありました。
さすがに名主の邸宅です。門や塀、蔵も立派!ビシィッとした感じですね。
「はらぢみち」の古道からずっと坂を登ってきた甲州街道はこの名主の家から先で長い下り坂に差し掛かります。
今は無住と思われるシブい平屋の和風住宅。下り坂の街道右側で見かけました。定期的に手入れは入っているような印象です。
割と急な坂をどんどん下ります。正面に見えているのは七里岩。本当にずっと一緒です。
けっこうな急坂だよねと思って振り返った時に左側に石碑があるのを発見!
上の写真の左端近くに写っているのが南無妙法蓮華経の題目碑。
その傍らには苔むした祠に安置された男女双体道祖神がありました。
正面の七里岩のアップ!やはり地質が地質なので穴がズクズク開いています。
そしておおっ!街道左側には更に甲斐駒ヶ岳がシッカリクッキリ写ってくれてます。
冬の雪山はきれいなので2月、3月に甲州街道は踏破したいと思っていましたが、こうして見ると春がベストかも知れませんね。
いい意味で鄙びた地方の景色。やはり頭の中でNHK「小さな旅」のテーマが流れてきます。
街道脇の、構造上はドブのような水路を流れず水はとてもきれいな清流です。この辺りが都会と違って清々しい気持ちになるところです。
元石段だったのを潰しました的な畑脇の斜面。
奥にはブドウ畑の真ん中に武田神社の鳥居があります。
その遥か後方に石祠の社がありますが、参道が畑になっちゃってますね(・・;)。
甲斐駒ヶ岳、御開帳率90%くらいになってきました。ちょうどいい感じで道路が山の方に向かって伸びていたので激写しました。
武田菱の紋のある土蔵、の後方に甲斐駒ヶ岳。何と甲斐的な!
左方向を見ると鳳凰三山も姿を見せてくれ始めています。こりゃいいね(≧∇≦)。
おー菜の花!春の花ですね。色彩が美しいなあ。
この「旧道を今歩いてます」的な風景がいいなあ。ずっと登りなのでやはり体力は削られますが、、。
一枚上の写真で右側に写っているフェンスは公園のものですが、今は立ち入り禁止になっていました。公園奥には白洲松林址碑がありました。
この辺りは平安時代から(!)、一里に亘って松原が続き「白洲松原」と呼ばれたものの、戦時中松根油最終のために伐採されてしまった(゚Д゚)とのこと。左方に見えているのは南朝方の宗良親王が詠んだ「かりそめの 行きかいじとは ききしかど いざや志らすに まつ人もなし」の歌碑のようです。宗良親王は信濃に身を寄せていたことがあるのでここを通ったこともあるのでしょう。
ちょっとしんみり系のエピソードとなってしまいましたが、この続きはその10でご紹介します。
(あと5回くらいつづく)