甲州街道を歩く 第11回 韮崎‐蔦木 その8 | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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2022年4月16日()に、実に3ヶ月ぶりとなる甲州街道歩きの11回目として韮崎から蔦木宿の手前直前まで歩いた旅の記録その8です。

 

当日の歩行ルートは↓の通り、歩いた距離は寄り道を併せて30km弱と思われます。

地図を描いた頃とはスケジュール変更のせいで、旅程が変わってしまったので↑の地図は今回の歩きと次回の歩きの序盤の分が含まれています。

 

その7では、台ヶ原宿の郷倉や高札場のあった場所で、台ヶ原宿が認定された「日本の道百選」の石標を見たところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

 

 

けっこう傾斜のある台ヶ原宿の町並み。

右側に宿場的な建物が並んでいますね。

 

手前は出桁造りの商家。かなり店舗入口の間口が広かったようです。二階の住居部分は窓枠がアルミサッシになっていますが、一階は木製の引戸なままなのが良いです。

 

そのすぐ先にあるのが「七賢」の醸造元の山梨銘醸。寛延二年(1749)の創業です。

こちらは天保六年(1835)の居宅新築時に藩主から「竹林の七賢人」の欄間をもらったことから銘酒を「七賢」としたそうです。

 

左側には立派な薬医門や復元した高札場、それに、、

 

 

明治天皇の巡行の際は行在所にもなったため、その石標も立っていました。

 

山梨銘醸の向かいにはこんな出桁造りの古民家も。二階の格子や一階の板塀がいいですね。

 

その先の街道左側ににあるのが、「信玄餅」で商標登録のある「金精軒」。

私のイメージは信玄餅といえば甲府駅などでも購入しやすい桔梗屋のものです。調べて見ると桔梗屋の方が先に信玄餅を作り始めてますが、「信玄餅」という三文字で商標登録してるのはこちらの金精軒なんだそうです。食べ比べた人(ここを歩かれたブロ友さん含む)の感想では、「あんまり違いが分からん!」という意見が多い様です。

 

こちらは古民家を利用したBrevicauleというお店。

雑貨や食器を商いつつ自家製のコーヒーやフルーツサンドなどのカフェも営業しているお店とのことですが、この日はお休みのようでした。

 

何だったか忘れてしまった石碑(^^;)。富士三十三訪と書いてあるように見えなくもないですが、ネット検索しても裏付け見つからず。。(最初の文字も「富」なのか「當」なのか、、)

非常に乱暴な想像としては富士山に三十三回行った記念の奉納か?と思いましたが正確な字面も分からない中、ググっても判別しませんでした。

 

元禄十三年(1700)の建築と言われる旧家が左に写っていますが、ご婦人お二人がお話中で正面からは撮りづらくこの構図でガマン。

 

その先でひときわ高い段上に田中神社があり、お参りしていきます。

 

街道沿いなどに古くからある神社でよく見られるように、境内には巨木が多数見られました。

 

パンパン!とお参りし、脇の出口から境内を出ます。

 

こちらはお茶壺道中と甲州街道に関する説明の石板です。元々東海道経由で宇治のお茶を江戸の将軍に運んでいたものの、海がちな東海道では潮でお茶の変質が心配なので、中山道~甲州街道を経由して(下諏訪で経由したのでしょう)お茶を運ぶ一行をお茶壺道中といい、この神社にはそのお茶壺道中が宿泊したそうで、「ずいずいずっころばし♪」の歌詞にも見られるように(茶壺に追われてとっぴんしゃん)住人には迷惑であったようです。

 

街道に戻ります。蔵に「臼井」の号のある蔵、の前の空き地には「Esso」の看板が。薄い山河小っちゃな給油所でも営まれていたんでしょうか。

こんな風景、時たま旧街道で地方を歩いていると見かけますね。

 

その先街道の右側擁壁の言う絵に「修験 智拳寺跡」の碑がありました。

山岳信仰と仏教が習合し成立した修験道のお寺があったものの、明治の神仏分離令で廃寺になったとあります。

 

その先の街道右側の電柱の足元に風化した双体道祖神と「台ヶ原 三浦屋」の石標がありました。

三浦屋がどんな店だったのかはこの双体道祖神は知ってそうです。

 

おおっ、これは!比較的最近のトタン張りのなんちゃって長屋門と一里塚跡碑じゃないですか。

 

こちらは日本橋から四十三里目にあたる台ヶ原の一里塚跡碑。甲州街道ではやたらと「場所は不明」な一里塚が多い中、碑が残ってるだけでも貴重と言えるでしょう。

因みにこの台ヶ原の一里塚には、よくある塚木はなかったそうです。

 

そしてなんちゃって長屋門、しかも二階建て!

長屋門と住居がそのまま融合してる感じです。

 

更にその先の街道左側にあったこちらは軒下部分は割と古そうなのに、そこから下は現代的に改造済の清水商店。

 

清水商店の少し先の街道右側には、蔵造りの住宅がありました。これは蔵を改造したというより、最初から蔵造りの住居を建ててる?

 

こちらは蔵造りの前面に店舗を配置した造り。蔵部分は土壁が剥き出しです。

 

そこから暫く進んで行くと登り坂が終わり道が平らかになって、街道左側に旧旅籠の鶴屋跡が見えてきます。

出桁造りだったり袖壁だったりが特徴的なのはもちろんですが、一階右端に目が釘付けです。

 

講中の板(講札)が残っていますよ!

貴重だなあ。

 

因みに今はこの建物の右側に隣接した新館が使われているそうです。「つるや旅館」

破風に鶴の絵が描かれてますね。関西の街道ウォーカーのブロ友さん、kapichanさんはこちらに泊まられていました。

 

そろそろ脚も疲れて休憩したくなってきましたが、このつづきはその9でご紹介します。

 

(あと5、6回つづく)