久留里城を目指して久留里道を歩く 第二回 下郡~久留里城 その9 | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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房総半島の真ん中辺りの君津市久留里にある久留里城を目指してひた歩く久留里道歩きの第二回として、2021年10月30日()に下郡から久留里市街地そして久留里城まで歩いた歩き旅の記録、その9です。思ったより長いシリーズになってきました。

 

この日の歩行ルートは↓。

歩いた距離は全部で15~16kmくらいの筈です、と書いてきましたが、細かいところで間違えて戻ったところも併せるともうちょっと歩いたかも知れません。

 

ともあれ、その8では浜松城の天守閣に似せて復元された久留里城天守閣の第三層まで上がり、ものすごく山々した景色が目に飛び込んできたところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

これはさっき二の丸跡から見た方向に近いな。三の丸~搦手門~外曲輪辺りが少し見えてます。

 

あっ、この向きは隣接する、本来の天守台跡しか見えませんね。

 

うーん、そうだ!こうすると少しは城から撮ってるっぽくなりますね。

因みによく書いている通り私は高いところがかなり怖いので、ここに居る間はずっと及び腰で、必ず片手で城の壁のどこかを掴んでいました(時々ビビッてしゃがみました)。

 

復元天守台からの景色も堪能したので、天守閣の東側の崖下にある弥陀曲輪を見に行きます。

天守閣は勿論楽しいですけど、やっぱりこういう曲輪とか土塀の方を見るのが好きです。

 

弥陀曲輪の標柱。これは天守閣のある崖上からのカット。

 

本来の天守台の更に奥には土塀の様な構造物があり、なにやら説明板や大きな石標が見えます。

 

↑の写真の左端よりももっと左側が掘割のように切れ込んでいるのでそこから土塀の上に登ります。

 

土塀の上の景色、左手に案内板、正面突き当りに石碑があります。

 

こちらは丹生廟遺跡といって、城主黒田氏(寛保二年=1742以降の城主)のルーツ、丹党(秩父丹党)の祖神を祀った廟の遺跡ということですが、丹党の一つ中山氏が黒田家に養子入りしたことによるもののようです。

この漢文の読み下しのもとになっているのが↓の石碑です。

 

最後に本来の天守台と模擬天守を激写して城山を後にします。

サイズ的にもデザイン的にもかわいい天守ですね。

 

山を下りる前に、模擬天守のすぐ西側の崖下にある波多野曲輪にも立ち寄ります。倒木の恐れがあるということで先端部が立ち入り禁止になっていました。

 

あっ、久留里城址の資料館にも立ち寄らねばなりませんね。

 

ちょっとボケてしまいましたが、黒田家で最初に城主になった黒田直純の肖像。

リンク先のWikipediaにも同じ肖像画がありますが「想像で描かれたもの」とありますね。

 

おっ、ジオラマがあるじゃないですか。

 

あっ、ピンクで囲ったあたりが三の丸ですね。

 

前回の記事で張り付けたカシミール3Dの地形で見ると、「御屋敷」の「敷」の下あたりにジオラマの三の丸の地形が忠実に凹凸として残っているのが何となく分かります。

農耕地になっても城の一角だった名残があるとは、、うーん、面白い!このジオラマ売ってくんないかな(^^)。

 

で、資料館の2Fがメインの展示フロアで、よくあるように旧石器時代~古代~律令時代~平安~戦国~江戸~近代のものが展示されているのですが、1月ほど前にブロ友さんが言われていた通り、日本の美術館や資料館は「撮影禁止」のところが多く、こちらもそうでした(☍﹏⁰)。

 

ということで、さっき麓から上がってきた草道はもう真っ平だし、下りだと本気で危なそうなので、復路は車道で下ります!

 

お玉が池 ってよくありますよね。東京の岩本町にも於玉ヶ池(こちらは茶屋の看板娘の於玉から)ありましたし、箱根には悲しい伝説の残るお玉ケ池があります。

こちらのお玉が池はえーと、なになに、里見義尭の命で井戸を掘っていた兵馬さんが兵糧の蔵の火事騒ぎで責任を問われたのを憐れんで、お玉が代わりに池を掘ったけど願いもなしく兵馬は打ち首に。死後兵馬の疑いが解けたらお玉は髪を切って兵馬を弔った、、、うーん、この手の伝説にありがちですが、現代人が聞くと何かカタルシスに欠けるような印象の話ですね。実話なら気の毒です。

 

こちらがその池ですか。説明板が無ければ小さな普通の沼に見えそうです。

 

あっ、これさっき草道から通って初めて車道に接した掘割ですね。

フェンスの向こうの崖の方まで掘割は続いているようです。

 

(゚^∀^゚)゚アッハッハ、こっちの道は楽ちんですね。

 

固めたコンクリの擁壁が妙に欠けてますね。これも掘割でしょうね。

 

あっ、久留里城の別名「雨城」の由来の説明がこんなところに!

往路の山道はずっと地面がビッショビショでしたから雨も多く、湧水が豊富な土地柄だった訳ですね。麓の久留里の町が銘水の町になるわけだ!

 

ここから更に下りて行ったところの先に駐車場があり、そこからは徒歩で城まで歩くことになっているようでした。山道から上がる人はそれこそ城マニアと、、あとは街道ウォーカーくらいでしょうか( ̄ー ̄)。

北陸のブロ友さんが、ひと月ほど前の私の記事に「街道ウォーカーはアスリート的」とコメントされましたが、確かにそういう側面はありますねえ。

 

おっ、さっき山道の入口の先に見えてたトンネルが見えてきました。

 

生身でトンネルに入るのはどうも苦手なのですが、トンネルの中から外を撮るのは好きです。

 

この写真では分かりづらいですが、トンネルを出てすぐの崖からは、けっこうな量の湧水がタクタクタクタクと滲み出ていました。

 

県道に出て久留里の町の方に向かいます。奥の県道脇から奥の方に伸びている先は里見と北条の古戦場だったらしいです。

小櫃川の旧流路もこの辺りを通っていたはず。

 

久留里の町に戻りました。今度は町の反対側の歩道から先ほど歩いていた側を激写。

∧に与のロゴのある「紙屋」はこんな蔵造りの重厚な建物だったんですねΣ(゚Д゚)。屋根右側の箱棟がすごい!

 

と、この後久留里の町を軽くぶらっとして帰途につく訳ですが、旅の模様の残りはその10でご紹介します。

 

あと1回つづく