久留里城を目指して久留里道を歩く 第二回 下郡~久留里城 その8 | らんまるの街道歩き・暗渠散歩ブログ

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房総半島の真ん中辺りの君津市久留里にある久留里城を目指してひた歩く久留里道歩きの第二回として、2021年10月30日()に下郡から久留里市街地そして久留里城まで歩いた歩き旅の記録、その8です。

 

この日の歩行ルートは↓。

歩いた距離は全部で15~16kmくらいの筈です。

 

その7では、久留里城に至る旧道の悪路をブロ友さんが紹介されていたDANNERのワークブーツ、の廉価版で乗り切り、やっと一息つけるエリアに到達したところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

そこから進んで行くと、おおっ「←資料館・天守閣」とありますね。そして足元のこれは道なの?こんな案内の木柱まで設置するくらいならもう少し道も整備して頂いてもいい気がしないでも、、

 

まあ、あれですね。道の左右に木が生えてるんでしょうから、その間を歩いて行けばいいわけだ。

 

ほーぅ、火薬庫跡!木標の後ろの切株二つは元々ベンチ用に設置されたものかな?

 

 

これくらいの道ならまあ何とか大丈夫。

 

これは房総往還や伊南房州通往還を歩いている時によく見た、岩に穴を掘って倉庫にするパターンかな?

 

道は正しい、、はず!

 

左の崖下にさっき分離して車道が見えてきた!肩まで伸びてしまった草をかき分けてようやく見通しの良いところに出たばかりだったせいかピントがボケボケになってしまいました。

 

更にその先でまた伸びたススキがほぼ顔の高さまでボーボーに茂っていたり、何か踏んだなと思ったら小さい蛇のしっぽだったり(Dannerのブーツだから蛇がかりに咬みに来ても大丈夫!)という苦難を乗り越えると、急に遠くまで視界が開けました!

 

いい景色ですね。低山登山じゃん。

 

そこから進んでゆくと道が急に低くなって車道と同じ高さになります。ここは「堀切」≒空堀の凹みを巧く利用しています。

 

車道は帰りに利用するのでそのまま向かって右側の旧道を進みます。こうやって、大木の木の根っことかが道沿いに剥き出しになっているのは、雰囲気があって好きです。

 

郭らしき地形と塀が見えてきましたね。あの向こうには二の丸跡を利用した久留里城の資料館があった筈。

 

あっ、また眺めの良い所に出ました。

 

おお、解説がありますね。

 

これをさっきの写真に当てはめて見ると、、水色の掘割で囲まれたエリアが三の丸御殿跡(水色の二重線が内堀)、赤の矢印が指す、峠道が搦手門、黄緑が指すあたりが外郭跡、ピンクが指すあたりに大手門があり、三の丸を含めグルリと山で丸く囲われた地形であることが分かりますね。

 

更にこれを久々のカシミール3Dで見てみましょう。黄色の星が今立っている場所。水色が三の丸御殿跡、ピンクが大体の大手門の位置、黄緑が外郭、通りにくそうな地形の赤が搦手門です。

大手門から三の丸までは山に丸く囲まれた地形であることが明白ですね。ピンクの矢印の上の辺りは半島状に台形の溝に囲まれた地形になっていますが、溝はもう少し西側を蛇行している小櫃川の旧流路で一部水が残ってます。あちこちで不規則に土地がえぐられているので、さぞや暴れ川だったんでしょう。

 

右方向には久留里の城下町が見えていました。

 

三の丸跡を拡大するとやはり田畑の微地形に少し郭の名残があるように思えます。

 

「御屋敷」の「敷」の字から南が三の丸ですが、三の丸を囲っていた堀の形に地面が低くなっているように見えます。

 

大手門付近は今はあまり名残がないですが、強いて言えば平地なのが名残でしょうか。

それにしても二の丸と三の丸でこれだけ高低差があると、年老いた家臣が二の丸や本丸に登るのはかなり骨が折れたことでしょう。「殿、じぃはもう殿のおわす処まで来れなくなりました故、倅に跡を継がせまする」なんて想像をしてしまいます。

 

さて見晴らしも地形散歩も楽しんだのでそろそろ移動します。二の丸跡の久留里城址資料館には、後に徳川幕府六代将軍、徳川家宣(実はかなりの名君だったと私が思ってる人です)やその息子で夭折した七代将軍 徳川家継に仕えた久留里出身の新井白石の像がありました。

 

ほー、この二の丸跡からは長屋塀の跡が発見されたのですが、

 

今はそれらしい城壁が代わりに二の丸を囲んでいます。

 

城址資料館の中庭にあるこちらの木組みが、上総の伝統的な井戸掘りの工法に使う「井戸掘り櫓」です。

 

コトバンクからのリンクを辿ると、使い方は↓のような感じだったよです。

 

その跡石塔を見つけて、肉眼だと少し読めたのですが今写真で読もうとしたら、、よ、読めん(;゚Д゚)!

 

二の丸から天守閣方向に向かいますが、途中古い登城の道だったかな?と思われる道があったので、少しだけ下ってみました。三の丸から上がって来る道という可能性もあるかも知れません。

 

天守閣に向かう道。尾根を上手に通ってる様ですね。

 

登り坂を登りながら少し進むと「男井戸・女井戸」の看板と小さな池が2つあります。

 

どっちが男井戸でどっちが女井戸がわからないのですが、元々奈良時代の僧に掘られたというこの2つの溜め井戸は、戦国時代になって里見氏がここに城を築いた後、北条氏に何度か攻められたものの、この井戸で籠城をしのげたのだそうです。江戸時代に藩主の黒田氏の頃から、藩士が結婚すると新郎・新婦がこの水を飲み夫婦の誓いを交わしたと言われているそうです。

 

さて復元天守閣に到着です。この復元天守閣は浜松城のそれを参考に作った模擬天守。

実際に天守閣があったのはここではなく、この模擬天守閣のすぐ左隣。

 

この盛り土みたいなのが本来の天守閣の土台だったそうです。

久留里城は房総武田氏と対立していた里見氏が、武田氏が内紛をしている隙に乗じて築いた城で、今の模擬天守は昭和53年(1978)の建造。

 

 

さて、二層三階建ての模擬天守に登りましょう。昭和の建築物なので、中は普通に鉄の手摺の階段で上に登ります。

 

三階建ての最上層に到着。城主になったつもりで天守閣からの景色を楽しみますよ。

この方向はほぼ山一色ですね。気を取り直して次の方向に向かいますがこの続きはその9でご紹介します。

 

(あと2回つづく)