2015年8月14日に歩いた旧東海道歩きの26回目、四日市から井田川までの20㎞ちょっとの記録のその2です。
今回の歩行ルートは↓の通りです。
(使用していた地図サービスが終了したため、改めて作成しました。)
1では石薬師の宿場の入口に入ろうとしているところまでをご紹介しました。
国道から分岐するとすぐに石薬師宿の標柱があります。
またその隣には佐佐木信綱の詩が書かれた「歌かるた」が立っています(上の写真右端)。石薬師は佐佐木信綱の生家があるところなのでこの先も歌かるたがありそうですね。
宿場入り口碑のすぐ向こうには北町の地蔵堂があります。
そのすぐ横に屋根付きの休憩所があるのでちょっと休憩。こういう暑い日はちょくちょく休まないとね。
その机の上を見ると何と東海道の旅人が少しずつ書き込みをしている一言帳みたいなものがありました。
折角なので私も一言コメントを書かせて頂き、きっちり「らんまる」と名前を残してきました(^^)。
少し進むとまた佐佐木信綱の歌かるたが見えます。
石薬師の宿場はずっと続きそうですね。
途中、街道の左側に広重の東海道五十三次の石薬師宿の浮世絵をレリーフにしたものが見られました。
石薬師は元々四日市と亀山の間が長すぎる事から宿場となった街で、宿場の規模としては決して大きくはないものの、地元の方々は保存にすごく力を入れられている様で頭が下がります。
宿場入り口から500Mも進んだあたりの右側には小澤本陣跡が。
こちらはBSでの杏さんの番組でも紹介されていましたが、宿帳には赤穂の浅野内匠頭の名も残っており非常に貴重な資料となっています。
(杏さんはご当主から特別に見せてもらっていました)
引き続き歌かるたを見ながら歩いていると右側に歌かるたの佐佐木信綱の生家がありました。
すぐ横には信綱の資料館も建てられており、信綱づくし。
その後しばらく歩き、瑠璃光橋という陸橋で国道1号を超えるとすぐの右手に高富山瑠璃光院石薬師寺の裏門があります。
わびさびのあるいい感じの門ですが、潜って階段をおりて境内に入ると非常に整った庭園があります。
本堂でお参りして街道に戻ります。ちなみに石薬師寺のご本尊は弘法大師が一夜にして爪で彫ったと言われる薬師如来。・・・そういえば大山街道で最後大山に行った時も弘法大師が一夜で爪で彫った仏様がありましたね。弘法大師様、すご過ぎです。
石薬師寺の正門から出て街道にでるとすぐ真ん前に蒲冠者範頼之社という石柱が。
これに従って、街道の進行方向(京都を向いて)左側に寄り道して社を見に行きます。
ここでは源範頼が祀られており、願望成就の神様になっているそうです。範頼公、浜松では娘さんの出産の無事を祈って創建した神社があったり、ご子孫が神主をされている神社があったりと東海道では色々ご縁があります。
街道に戻って数分歩き、橋を渡った先の左手に木と石柱が。
これが日本橋から102里目の石薬師一里塚跡。木があるのでちょっと実際の一里塚の雰囲気がありますね。お向いには石薬師宿の碑が立っていて、ここで石薬師の宿場も終わり。
そのあとは一里塚跡碑に沿う様に左折して田んぼの横の道を通ってゆきます。
これは江戸時代の街道風景に近そう!
更にその後国道1号の下を潜り、県道の陸橋を潜って国道1号に合流。夏のせいか歩道の草がやたらと伸びてました。
これはこれで街道風情? いやいや、それはないな。
国道に合流して400Mほどの交差点を曲がれば元々この日のゴールと決めていた加佐登駅に行かれますが、ここでちょっとした判断ミスが。。
意外に曇りがちで風もあり思ったより涼しく歩けていたためかこの時点でまだ12時過ぎ。名古屋から帰りで取った新幹線は16時前。このまま帰ると早すぎます(お盆ラッシュで変更できない)。更にここで距離を稼いでおけば次回の関までの距離が短くなり亀山城も見られるな、うーん、次の井田川駅までは4㎞程度か、、よし、井田川まで歩いちゃえ!と決めてしまいました。
ここまで天気も読み切って正直この季節としては異例なほど快適に歩けていましたが(頻繁にコンビニに入ったり、絶えず服の上から冷却スプレーをかけたりしてもいたので)、この判断は余り良くなかったと思います。
ともあれ、加佐登で帰らず国道を進み、庄野町北交差点で右折し、庄野町西交差点で左折して庄野の宿場入口に到着。
宿場に入ると、風情はあるものの静かな町です。
格子のある家が多くて、街道風情はかなりあります。
一方、手持ちのドリンク飲み切ってしまったけど、宿場なのに自販機が無いんだな~、妙に晴れてきたし。。
少し進むと左側には旧小林家住宅を修復した宿場資料館があります。
庄野宿の本陣、脇本陣などの資料が展示されているそうです。
資料館の前に立っているのは広重の東海道五十三次の庄野宿の絵がパネルになっていました。
これは庄野のどのあたりなんだろう。
資料館のはす向かい辺りの民家には問屋場跡の説明板が。
更にその先を歩いていくと、民家の前に高札場跡、助郷会所跡の説明板が見られました。
いよいよ晴れ間が長引きドリンクも無くなりまずいかな、と思った矢先、
急きょ雲が現れ涼しくなり、更にコンビニも発見!
コンビニに入って冷房の吹き出し口からの風があたる場所で5分休憩し、ドリンクも補充。なんかこんな具合でこの日は暑くなってくると必ず曇ったり風が吹いたりで助けられた日でした。
コンビニから戻るとすぐに、街道は国道1号を斜めに横切りますが、ちょっと人は横切れないので普通に信号を2回渡って国道1号の左に出てから左折します。その瞬間になかなか夏らしいいい景色が撮れました。
その向かい側には領界傍示杭の他、女人堤防の碑がありました。
この辺りは安楽川と鈴鹿川の合流点(川俣)で水害が多かったのに築堤を認められなかったそうです。「女なら罪が比較的軽くなる」という事で女性だけで6年もかけて堤防を作ってしまったそうです。女性たちは一旦捉えられたものの後に許され労いを受けたとか。
この女性たちを許して労える社会で良かったなぁ、と思います。
その先も車通りは少なく、昔の風情がそのままの街道らしい風景が続き楽しく歩けます。
暑さのためか少しいつも同じ距離を歩く時より疲れを感じるかな。。
堤防碑から500Mくらい先の左側には川俣神社があります。その名の通り川の合流点の守り神で、本殿はここから南南西にある川の合流点を向いているんだそうです。
更に鳥居の横には103里目の中冨田一里塚跡碑がありました。
途中常念寺というとても立派なお寺があります。
だいぶ疲れてきたので遠景だけを激写して素通り、、。
あくまで旧街道らしい風景が続きます。宿場という訳ではないのに見るからに旧街道らしい景色がずっと続くという意味では26回歩いてこの日の歩きが一番すごい様に思われました。
福萬寺というお寺の少し先に「ひろせ道」と刻まれた道標が右側の路地の角にありました。
確かに後で地図で見るとこの道の延長線上には広瀬町があります。
その後しばらく歩くと鈴鹿川に差し掛かります。元々は街道から真直ぐ橋が掛かっていたそうですが今は少し迂回して鈴鹿川を渡ります。
川と鈴鹿山脈と空と雲がきれいでした。
橋を渡って街道筋に戻って暫く歩くと右側の民家の前に「右のぼのみち」という道標があります。”野墓の道”の意味で日本武尊の野墓への道標だそうです。
その後ちょっと分かりにくいのですが、地福寺というお寺の前を左に曲がって車道に合流し、JR関西線の踏切を渡り、道なりに左にカーブします。カーブする瞬間に空の雲が面白いことになっていたので激写。
黒っぽい雲が3つ、集まってきたみたいに見えました。
少し進むと右斜め後ろに続く道の入口に「田村道」の道標。