2015年8月21日(金)
この日は会社からお休みを頂いて、何と先週に引き続き旧東海道を歩いてきました。今回の区間は前回ゴールの井田川から、鈴鹿峠への道のりの手前の関の宿場まで、比較的短めの区間。歩行距離は14㎞弱でした。歩行ルートは↓です。
朝6:20東京発の新幹線で、普段は自分もやってるサラリーマンに混じって名古屋まで移動、名古屋から在来線で井田川に。名古屋に着いた時点では一瞬大雨になっていたので心配しましたが
井田川では普通の曇天。安心して早速街道歩き開始です。
駅前の道を道なりに進むと駅前交差点のすぐ先の右側には井田川小学校跡碑が立っています。
道なりに歩いて行くと道なりに右に90°曲がり国道1号に当たりますが、交通量も多いので歩道橋で渡り交差点を越え30Mほど進んだところにある、東海道の標識に従って左折。
左折するとすぐに、かなり旧街道的な風情のある通りになります。
車の交通量も少な目で比較的快適!
その先で国道1号バイパスの高架を潜った先、右側の民家の前には、付近にあった刑場での刑死者を弔うため、谷口法悦が建てた供養塔と題目碑が立っています。
そこから数分歩くと、左側の住宅の脇にある細い道の入口に和田の道標がありました。
正面には「元禄三年(注1690)と彫られており、道標としては「従是神戸白子若松道」と刻まれています。地図でその方向のはるか先の伊勢湾岸付近を見ると、近鉄名古屋線の伊勢若松、
白子などの駅名が見えます。
そのまま進むと街道の左側に国道1号が接する地点に出ますが、
ここでは国道に入らず右方向の旧道に進みます。
暫く進むと再び非常に旧街道っぽい風情の道行となり前回の歩きに引き続き嬉しい気分で歩きを楽しめます。
国道に接する部分の500~600M先の右側には、日本橋から104里目にあたる和田の一里塚があります。これは復元されたものですがどうしてどうしてかなり立派なものです。
一旦はなくなってしまったのでしょうが、こうやってまた姿が見られるのは嬉しいものですね。
その後栄町の交差点を越え更に200Mほど進んだあたりの左側に工場が見えてきます。この辺りはすでに亀山市に入っているのですがその亀山の名物、亀山ローソクさんです。
正しい社名としてはカメヤマ株式会社さんなんですね。
その100Mほど先、右側で斜めに交わる道の入口に立派な鳥居が見えます。これは能褒野神社の鳥居で、前回見た道標(『右のぼの』)と同じ目的地に通じる道なんですね。
そのすぐ先右側には露心庵の跡碑が立っています。天正十二年(1584)に神戸正武が亀山城を急襲する戦があった時の戦死者を葬った場所だったそうです。
更に進んでゆくとさっきの鳥居以降どんどん宿場町らしい風情が色濃くなってきました。
ついには街道右手になんとお城が、、、 あ?
亀山城にしては近いな、などと思っていたら服屋さんでした。。。
その後東海道は、左にカーブして↓の地点に出ます。
この交差点は亀山城の江戸口門があった場所で、上の写真で言うと手前左側の歩道にその説明板が立っています。
掛川城などもそうでしたが、城の区域の一部を東海道が通っている訳です。
2枚上の写真の、奥側の方に渡り進むと「しぼりや」という洋服屋さん(絞り染め物を扱っていたのでしょうかね)がありますがこの辺りが亀山の宿場の脇本陣椿屋だったそうです。
面影はないですね。
更にその先には樋口本陣の跡碑が立っています。
そのすぐ先の江ヶ室交差点は亀山城の大手門があったところ。東海道はこの交差点で左折をしますが、左折前に交差点右奥側に進むと大手門の説明板があります。
かつての大手門の姿が見られる写真も掲載されていますが残念ながら今は石垣ごと取り除かれてしまったとのこと。
さてこの向かい側(江戸方向から見て交差点の左奥)は
かつての高札場跡。今は酒屋さんの看板という、やや
狭い枠の情報を掲示している訳ですね、なるほど。
上の写真の左奥方向が東海道の進路にあたるのでそちらに進んでゆくとほどなく下り坂になり、やがてかなりはっきりとした形状の曲尺手(かねんて=桝形クランク)があります。
曲尺手を超えて坂を下ってゆくと左側には遍照寺があります。こちら、街道から階段を下ってお寺の境内に入ってゆきますがこの本堂、実は亀山城二ノ丸御殿の式台書院を移築したものなんだそうで、確かに非常に立派な本堂です。
街道に戻り先に進むと街道はグネグネ城下町特有の曲がりを繰り返してゆきます。途中かなり規模の大きい旧家が見え感心しました。
更に進むと↓の地点に出ます。
車道の向こう側に見えている上り坂が東海道方面ですが、ここで右を見ると池と亀山城の一部が!そうかお城っぽいのは亀山城の多門櫓というのかー。
折角前回頑張って歩く距離を稼ぎ今回ゆっくりとあちこち見ながら歩ける様にしたのでここはじっくりと亀山城を見に行きます。
右折して坂を上ってゆくと、途中左側の病院の前に松が植えられており、かつてお城から下りてくるこの道が松並木だった事が説明されています。
更に池を超えて坂を上って行くと、右側に大きな石碑が。石井兄弟亀山仇討遺跡、と刻まれています。
これを見た時点では何の遺跡か分からなかったのですが、歌舞伎の題材にもなった亀山の仇討というお話の舞台だそうです。
更に坂を上っていくと左手に亀山城址の碑が立っています。
この辺りは本丸のあった辺りらしく、地名も本丸町。
その先を左折して少し奥まで行くと亀山城の見取り図があります。
これは分かりやすい!で、この多門櫓だけが残されているのか。
少し西側に進むと上の見取り図にもあった楠門跡の碑が。
さて、ここで折角なので多門櫓を見に行ってみます。
亀山城のWikipediaではこの多門櫓、黒い建物だったので、改築されたんでしょうかね。
いずれにしても平日は開館してないらしく、残念。わざわざ休暇取って来たのが仇になったか。。
その奥の亀山神社にも参拝。
本丸の中心地あたりだった場所と思われます。
その手前側には明治天皇行在所が残されています。
こんなところに、、と思いましたがこれは移築されてここに来たものだそうです。このすぐ前には与助井戸という、亀山城でずっと使われていた井戸の跡もありました。
すぐ横にある階段を下りて石垣の下から多門櫓を拝見。
尚この石垣下はかつてお堀というか池だったところです。このすぐ横がグラウンドになっており、野球少年たちが練習に汗を流していましたが、世が世なら皆溺れてしまうところですね(笑)。。
さて亀山城址も堪能した事とて坂を下って街道に戻ります。
途中標識があり、右折すると侍屋敷とあったので右折して寄り道。少し進むと立派な長屋門がありました。
亀山藩家老であった加藤家の屋敷跡で江戸中期頃の建築だそうです。
こちらも平日はお休み(-_-;)。
亀山城見物のため街道筋を離れた場所まで戻ります。
ここは上り坂がクランク状になっていてその脇には東海道亀山宿の碑と、新たに設けられたであろう階段が。
またよく見ると階段脇の低い壁には街道時代当時の見取り図という貴重な資料が見られます。
今の景色と見比べると「あぁ、こういう風になってたのか!」と思えて楽しいです。
2枚上の写真の階段を上がって見晴らしの良いところに出ると「西町問屋場跡」の案内板がありました。
それにしてもここまで書きそびれていましたが、亀山宿ではかなり1軒1軒の家の軒先に、その場所がかつて誰の家であったとか、何屋さんだったとかの説明が掛かっていて、宿場の保存をされている地元の方々のご尽力を感じます。
少し進むと左側にある商店の軒先に、日永の追分で別れたはずのお二人らしき姿が!
そのすぐ先には小さ目な道標がありました。
「郡役所」などが刻まれていますのでこれは明治時代の道標でしょうね。
その先道なりに右折してその先でまた左折する大きな桝形になっていますが、左折する地点に亀山城の西之丸の外堀跡があります。
ずっと上にあるお城の見取り図でいうと左下あたりの部分のお堀に当たりますね。↑の写真だと完全にお堀に入ってしまっていますので、これまた世が世なら私も溺れて、、、。
左折後、亀山城を離れて行きますが一旦ここまでとし、続きは2でご紹介致します。