2015年8月14日(金)
会社からお休みを頂いたこの日、昨日の記事に書いた通り旧東海道歩きの第26回として前回ゴールの四日市から井田川までの20.5㎞ほどの道のりを歩きました。
今回の歩行ルートは↓の通りです。
(使用していた地図サービスが終了したため、改めて作成しました。)
朝6時の栄えあるのぞみ1号で名古屋に到着後近鉄電車に乗り継ぎ、近鉄四日市に向かいます。
揖斐川を越す時に外を見ると、もう空が秋っぽいですね。ただこの時期は日中暑くなるとどんどん水蒸気が上がり結局入道雲になってしまいますが確かに秋は近づいてる感じです。
8:30少し前に四日市に到着、歩き始めます。最初、60Mほどだけ道を間違えてしまいましたがすぐに修正。本日最初の歴史的遺構、阿瀬知川にかかる「阿せちばし」の標石を発見。
まだ宿場が続いているのか、非っ常に旧街道らしい風情の好もしい街が続きます。
晴天ではありますが雲が多くちょくちょく日光が隠れる上、事前のチェック通り風も思ったより強く吹いており、これならいけそうな予感。
近鉄の高架を潜ると雲が切れて晴天に。時折晴れると空が真っ青でかなりきれいでした。
この青さはやっぱり秋の気配だと思います。
やがて街道は左にカーブし、しばらく進むと街道右側に寛延三年(1650)創業の鈴木薬局があります。
赤万能即治膏や萬金丹黒などを製造販売していた商店だそうで、建物は嘉永五年(1852)のものとの事。
途中鹿化川を越えつつ、鈴木薬局から500Mほど進むと右手には大宮神明社があります。天照大神を祀る神社です。
鳥居をくぐり拝殿に向かうとまた空とのコンビネーションが最高に決まっていました。
本日の道中の無事、家内安全、娘の学業成就、商売繁盛などいつも通り欲張りなお願いをさせて頂いてから街道に戻ります。
もう宿場はとっくに終わってるはずなのにいまだに元宿場と名乗っても疑われなさそうな風情の街並みが続きます。
大宮神明宮から200Mちょっと先の右側にある路地に入ると大聖院(だいしょういん)があります(看板あるのでその路地の入口はすぐ分かります)。こちらの本尊の不動明王は源頼朝公の
持念仏で国の指定重要文化財とのこと。
その先もまだしばらく風情ある街並みは続きます。
その後、名古屋市内で渡ったのとなぜか同じ名前の天白川にかかる同じ名前の天白橋を渡り更に進みます。
天白川から350Mほど進んだ右側、日永神社の隣には長命山薬師堂があります。
薬師如来像は平安末期~鎌倉初期のもので、こちらは織田信長の家臣、滝川一益の菩提寺であったそうです。
そこから200M強先にある小さな四辻の先の右側、倉庫と倉庫の間に挟まれる様に立っているのが東海道の旅人にとって特別な日永の一里塚跡です。
なんたってこれ、日本橋から100里なんです、100里!!100里って言ったら400㎞ですからね。26回目も歩くとこんなに遠くにこれるんですね。と、同時に京都の三条大橋まで残り100㎞を切ったであろうと思われます。うぉぉ、そう思うと俄然やる気出てきました!
そこから300~400M先の街道左側にあるのが一本松。かつての松並木の名残です。
ちょうどこの頃は雲が少なく日照時間が多かったので、一本だけじゃなくて松並木が丸々残ってくれていればどんなに良かったろう、とやや弱気に。
ともあれ青空に映える一本松、いいもの見れました!
一本松からおよそ1㎞先で旧東海道は国道1号に合流しますが、すぐにまた国道から右に逸れてゆきます。この逸れる追分が日永の追分。
追分の真ん中に鳥居が見えますが要は左方向は伊勢神宮への参宮道、右側が東海道です。
近くによってみると、追分碑や神宮遥拝鳥居が見えます。
またやや東海道よりの方には、道標や常夜燈が。道標には「右京大阪道 左いせ参宮道」と刻まれています。
毎回行きの車中で現代語訳の東海道中膝栗毛を読んで一緒に旅してた気分になっていた弥次さん喜多さんともここでお別れです(彼らは伊勢参りに行ってしまうのです)。うーん、まずい、ホントにちょっと悲しいかも。いつかここからお伊勢に向かって歩いてみよう、そうしよう。
ともあれ右側の東海道に進みます。四日市あすなろう鉄道の踏切を超えたらすぐに斜め左に進みます。
そこから800Mほど進んだあたりの右側には、やや珍しい黄檗宗の観音寺があります。ここの見どころの一つは山門屋根上のマカラ(鯱状のレンガ)。
本当はやはりどこか唐風な感じでした。
最後に境内を失礼する時にもう1枚激写。
急にこの瞬間太陽が出てまた青空がきれいに写りました。
晴れたり曇ったりを何度も繰り返すこの日、晴れるとさすがに暑くなってきました。
が、「暑いな、やばいな」と思った頃にちょうどよく強めの風が吹いてくれるのでこの季節としては有り得ないほど快適に歩けています。
やがて道は内部川(うつべがわ)に当たって行き止まり。かつてはここに采女橋が掛かっていたそうですが今は少し左にある内部橋を渡らねばなりますまい。
ふと見ると国道の下を潜る地下道があったのでそこを通り道路の左側に出て、すぐに階段を上がって橋を渡ります。
渡った後暫くすると左側にマックスバリューというお店が見えるのでそこを斜め左に進みます。
その後クランク状に右折⇒左折すると激しそうな坂道が見えてきます。
この坂道の由来は江戸時代なんてもんじゃあありません。なんと、伊吹山で賊と戦い傷ついた日本武尊が剣を杖代わりにして超えた坂だそうです。
少し進むとどんどん坂は険しくなってきます。
うおぉ、これはしんどい。しかもさっきまで曇ってたのにこの時とばかりに晴れやがって、といった感じ。
坂の途中でこの坂道の碑と、松尾芭蕉の句碑が。
芭蕉の句碑は「徒歩ならば 杖つき坂を落馬かな」と刻まれています。
実際にこの場所で落馬をしたそうです。またこのすぐ横に井戸がありましたが、その井戸で日本武尊がのどを潤したそうです。
坂を上ったところには日本武尊の血塚社があります。日本武尊がここで傷による出血を封じたんだとか。
またこの血塚社の前にはかつて名物の饅頭屋があったそうですよ。
この坂を超えた日本武尊は「吾が足は三重(みえ)の勾(まがり)の如くして甚だ疲れたり」といったそうでこれが地名としての「三重」の語源となったとのこと。
血塚社から暫く進むと国道1号の左側に合流します。その先、国道1号の反対側のガソリンスタンドの横っちょになんと101里目の采女の一里塚跡が。
さすがに国道1号、交通量が多く、とてもじゃありませんが渡れないので道路のお向いからの写真で我慢することにします。
すぐ近くの国道の距離表示をみたら403㎞だったので一里塚とも大体帳尻あっていますね。
その先左手にコンビニが見えてくると、国道から左に外れて弧を描く様な道路がありますがこれは旧道の名残だそうです。
確かに旧道沿いに和菓子屋さんがありますね。
上の写真の位置から600Mほど先の国分町の交差点はその名の通り四日市市と鈴鹿市の市境です。
そしてここ↑で旧東海道はまた国道から離れて左斜め前の旧道に入っていきます。
その後700~800Mほどは車の少ない穏やかな旧道歩きが楽しめました。
やがて国道1号に合流する手前にこんな看板が。
ほうほう、ここで地下道を通って国道の右側に渡っておく必要があるのか。素直に地下道を
通って右側に出て、暫く進むと↓の追分状のところに出ますので、そしたら斜め右方向に進み、石薬師の宿に入ってゆきます。